空なる我  下巻

私は、以前、「 無 」と「 無限 」や「 ゼロ 」のことを書きましたが、この後者の「 無 」を「 空(エネルギー)の中では発生していない 」、「 空(エネルギー)の現象としてそれらの五蘊が生じる(無から有となる)のであって、空(エネルギー)をそのように規定することは出来ない 」というのではないかと思うのです。

以前、私の持論で「 意識は電磁波の構造を持つ 」でかきましたように、(神仏)エネルギーであるDNAで決まられた頭脳の回路を巡って活性化するのは気(ki)というエネルギーであり、その過程で「 意識 」が派生すると考えますと、「 五蘊 」である五感という機能やそれによって得られるものすべては、「完全な均衡」である「 無 」を乱してそれらを「 有 」とするのが「 空(エネルギー・神 )」は動物が持つ生命維持に応じるように「 空(エネルギー)」を働かせるのであって、人間はそれを、「 五蘊 」に区別しているにすぎないと考え、「 五蘊 」のための「 空(エネルギー)」があるのではないと言っていると解釈するのです。

そんなことは、空(エネルギー)にとっては迷惑なことであり、その空(エネルギー)が働いた結果の人間を、超能力を持った人であるというのは、人間の勝手であり、そんな超能力を持つ人の再来を待つ事など、迷惑極まりないと空(エネルギー)はおもうでしょう。

 

「 ゼロ 」の観念を生んだとき、その「 ゼロ 」である「 無 」は「 無限 」であり、空(エネルギー)の中には、「 五蘊 」として現象する機能は、「 数えきれないほど 」有るともいえるし、まだ発生していないから「 無 」であって、「 五蘊 」を超越するエネルギーを与える事も可能なのだという意味に解釈するのです。

その実益

人間の機能をすべて空(エネルギー)が現象として現れたものとすることによって、他の動物の機能も空(エネルギー)が現象として、この世に現れたものとしては、同質とすることは、人間を他の動物に生まれ変わらせることが出来るから、人間から他の動物へと、他の動物から人間へと、相互に転生することを可能にする。

こうして、頭脳を持つ、あるいは持たない、精神を持つ、あるいは持たないを区別することなく(=それは全て空(エネルギー)、多種の動物間の中に転生することが、生命の主である「 阿弥陀仏 」には可能とすると解釈する余地を残したのだろうと考えることが出来て、人間が死んだら、同じ種類の人間に生まれ変わることを意味するものではない。

言い換えますと、「 阿弥陀仏 」の前では、生命を持っている点で平等であり、国や民族や、あるいは人種が違おうが同じであろうが、「 生きている 」ことには変わりがなく、人間の相違はまったく生まれ変わりの宿命のもとには等価であり、どのような生物に生まれ変わるかは、「 阿弥陀仏の意図 」に従うことになって、もはや生まれ変わりもせず、あるいは生まれ変わったとしても、この平和な世界に生まれることも何も保障されず、阿弥陀仏の考えに従うことになると思います。

つまり、死後に転生するとしても、同種の動物に転生することを保障するものでなく、阿弥陀仏の導きの「 空(kuu)」の現象として現れるままに、精神を持たない下等動物にも生まれ変わることもあることを、言外に示しているとも思われます。


② 「 空なる我 」般若心経の解釈  「 有 」=「 現象 」の独自解釈

私は、私立のマルクス主義を是とする法学部卒ですので、仏教や数学や物理には疎いのですが、成り行きで書くしかないと思っています。

私は、「 無 」と「 有 」を何も難しく考えずに、「 無 」とは「 無限 」と同じく「 数えられない事 」を特徴として、そもそも「 有でない 」から数えられないのなのか、「 有が多数の為 」に数えられないのかの違いで、前者が「 無 」という概念で後者は「 無限 」という概念で現していると考えまして、「 有 」とは、難しく考えずに「 数えられるもの 」であると考えました。

「 無 」から「 有 」が生じる事は、ヒッグス粒子のように本来は対消滅して滅すべき粒子が何かの間違いで他の粒子と結合して「 消滅しなくなった 」状態を「 有 」と考えます。

「 無 」という「 数えられない世界 」は微小な粒子が物凄いエネルギーで無秩序に飛び交い対消滅するために、人間には見えず「 数えられない 」が、「 消滅しない状態 」になったとき、「 秩序ある状態 」として人間が数えられる状態になり、それを「 有 」としたと考えます。

ですから、数学はわかりませんが、「 1 」と「 2 」のあいだには「 無 」という状態があり、「 1 」と数えられる状態の中身のエネルギーは絶えず変化していて、厳密にはそのままの状態を保っておらず、同じ状態の連続と思うものはないのに、「 数えられる状態 」の「 形 」は変わらないために連続しているように人間の眼には見えても、ずらりと並んだ数は「 見える物だけを集めた集合 」であるかも知れません。

その「 見える物 」、「 数えられる物 」を私は「 現象 」と呼んでいます。

その「 現象 」というものは、「 本質 」と比較するような言葉遊びではなく、見えない物(無)が見える物(有)になったことを私の場合は意味しています。

私の「 無 」というのは否定の意味ではなく、「 有(数えられる)の状態に成っていない 」「 まだ発生していない 」ことを意味します。

それに対して否定する意味が「 不 」であると考えまして、「 形が変わってもエネルギーは消滅しない 」というように「 物=エネルギー 」に対する考えが間違っていることを示し、般若心経の中では「 不生不滅、不垢不浄、不増不減 」と使われている所を拝見しますと、まさしく「 形が変わってもエネルギーは消滅しない 」という「 エネルギー保存 」を指していると思われまして、これは驚くべきことだと思います。

このように、否定ばかりしている般若心経と思われがちですが、「 無 」が意味するのは「 不 」のような否定ではなく、お釈迦様が考えになった「 十二支縁起 」や「 四諦八正道 」を否定するのではなく、「 空(エネルギー)の中では発生していない 」ということで、それが「 是故空中 」では「 無 」(=つまり発生していない)であると書いているのだと思います。

ですから、「 般若心経 」はお釈迦様の考えを完全否定するものではなく、お釈迦様の考えが発生する根本には「 空(エネルギー)」があるのだと主張するのであって、お釈迦様の考えの中で悟りを探る唯識では「 空(エネルギー)」を見ることに到達することが出来ないから、思考による悟りではなく、「 一切皆空 」と素直に考えて、それを考えることは「 悟り 」であるから、それに続く「 慈悲 」を行うのが僧侶の存在意味ではないかと思います。

以上の考えで、「 色相是空 空即是色 」は、アインシュタイン氏が考案された{ E=MC² }で現され、Eを「 空(エネルギー) 」と置き換え、Mを「 物質(=現象)」と置き換えて考えるものです。

 

ただ、現代の物理学を眺めていますと、相対論の他に量子論もあり、「 般若波羅蜜 」といえるべき「 智慧 」をすでに得ているかどうかは疑わしく、その智慧を追求することは東洋や西洋に関わらず、これからも続けられるべきではないかと思います。

「 一切皆空 」ということは、この私のブログの言葉も、私の「 空なる我 」に煩悩が混じった「 自我 」の現れですから、これを否定して自らの智慧を得られるべきだということは、疑う余地もありません。


③ 「 無我 」と「 空なる我 」の違い

(ⅰ) <「 無我 」とは   (仏の教義)  「 無 」とは「 現象 」が発生していないエネルギーの状態で、「 私 」が発生していない心から接近した状態=「 空 」に通じる>

<否定せずに、「 発生する前 」とすることによって、意識を考えないようにする。「 空 」は意識を生み、意識を超えた存在だから>

**「 無 」は「 現象 」が発生していないこと

「 無 」は、主に「 五蘊 」が無い事であり、それから生じる生老病死も無いのですが、その「 無い 」というのは、お釈迦様の言われた「 四諦八正道 」や「 十二支縁起 」を否定するのではなく、生老病死の「 苦 」やそれからの「 悟り 」は、未だ「 発生していない 」、まだ「 五蘊 」が「 空 」によって作られていないのだから、「 五蘊 」から生じる思想その他すべてが「 無 」であり発生していないという事だと思うのです。

***「 空(エネルギー) 」を考えるとは、DNAにより、個性ある「 五蘊 」がまだ「 空(エネルギー)」の段階で発生する前で、「 空(エネルギー)」が「 現象 」となった「 五感 」も発生していない段階を知ることであり、「 現象 」となった人間に生まれた限りは、その「 現象 」に始めと終わりの「 生死 」があり、生まれたからには、「 無明 」は「 尽きることはない 」つまり、生きている限り「 無明 」は永遠に続くから、人生は「 一切皆苦 」であり、「 悟ること 」も無いと知ることだと思います。

 

これまで、私は、般若心経と「 一切皆空 」に従い、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」と置き換えて、「 神 」も「 仏 」も「 龍樹の教え 」も、すべてが「 空(エネルギー)」であると考えて、「 形あるもの 」は「 エネルギーの現象 」としまして、「 心や気持ち 」といった自然にたいする存在感を含む「 自我 」も現象として否定し、仏像など形あるものは、本来は枠で仕切ってはいけない「 空(エネルギー)」を閉じ込めたもので「 偶像 」であり、その中のエネルギーこそ忘れるべきでないとしました。

しかし、そのような考えは、お釈迦様の考える「 因果 」を重視して「 苦 」の発生源を探して「 滅する 」、その方法が「 八正道 」だというお釈迦様の教えで悟る仏教ではないという情報に突き当たりました。

なぜかと申しますと、般若心経に「 無苦集滅道 」と書いてあるからです。

Webを調べますと、私の考えは中観派によく似ていて、仏教を否定するもので、仏教というべき教えは、お釈迦様の考えで「 四諦八正道 」や「 十二支縁起 」の考えの延長である唯識派の流れの教えであるといいます。


それは、お釈迦様の「 苦 」を抜いて「 楽 」にしてあげようという慈悲の道であるかもしれないが、「 因果応報 」や「 自業自得 」という言葉があるように「 因果 」を重視して、現在に生きる自分の行為が悪行に満ちていれば「 悪因悪果 」、善行に満ちていれば「 善因善果 」というように、死後の世界は、その行為にお似合いの生き物に輪廻転生するだろうと教えることによって、善行を促す働きを教育することになるので、統治者も好んで仏教を国家の教育理念に採用したのでしょう。

確かに自分を見直し、「 苦 」を生む「 自我 」を「 無我 」にするのを実行すれば、より良き人生になるということはわかりますが、根本に因果を据えているため、因果が果てしなく続くのに合わせて、人間の生命ともいうべき「 無明 」が尽きることもなく、それから生まれる煩悩もそれに続く結果、人生は苦の連続で「 一切皆苦 」といい、その生前の悪行に合わせて、死後に残った霊魂は「 地獄 」に行ったり「 極楽 」に行ったり「 無明 」である様々な動物に輪廻転生することでしょう。

この齢になった私は、そうした善行を為した覚えもなく、むしろ悪行が勝っているようも思えますから、多分、「 地獄 」に行き煉獄の苦しみを体験するこになるでしょうし、止めてくれるものは何もないでしょう。

kandk55
作家:高口 克則
 空なる我  下巻
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