素顔の告白

 

ある夜、永井さんと繁華街を歩いていると、Kという私の知人が声をかけてきた。

Kは妻子持ちの、ノンケを装うバイセクシャルであり、私はその夜初めて聞いたのだが「永井さんの大ファンなんです。」と言っていた。

 

文学青年というものをあまり好かない永井さんだが、Kの事はかなり気に入った。Kも相当な社交家で、発言に嫌味を感じないからだろう。

バーからバーへと、3人で飲み歩いた。永井さんの泊まるホテルで別れる時、Kは子供みたいに別れを嫌がり、駄々をこね、私に引きはがされて泣きながら帰宅した。

演技なのか本当なのか、いや本当なのだ。Kはそういう奴である。しかしこの時の悲しみを引きずる事はないだろう。帰宅する頃にはすっかり立ち直っている。Kは目の前に居る人間を本気で愛する。それは確かに愛であり、その愛は永遠のものだが、情熱の方はすぐに別れた人間から離れ、その時目の前に居る者へ注がれるのである。

この愛し方は、永井さんと似ているのかもしれない。私は羨ましかった。このように生きられればどんなに人生、幸せだろうかと思う。

それはともかく、永井さんはすっかりご満悦で、この夜はとくに楽しかったとの事だった。

帰りの列車に乗る際、見送りの人達が来ていたが、Kもそのうちの一人であった。彼はスーツを着て正装しており、目が合うと軽く会釈するという、遠くから見送る形であったが、永井さんはそれを確認でき、嬉しそうであった。Kは相手の抱える事情に配慮できる人であったので、「昨夜はどうも」などと言わなかった。そして仲間内ですら、誰にも永井さんと飲み歩いたと漏らした事は無い。

 

 

それから数か月後、私は「現」の連載を終え、これを何とか本として残したいと考えていた。そこで大作家である永井さんに、どんな出版社でもいいので口をきいてほしいと申し込んだのだが、返事は芳しくなかった。私を傷つけないよう、言葉を選んでの返事であったが、「現」に本として出すほどの魅力を感じない事が要因と思われた。

これを書いている今なら、それがよく分かる。なぜならその小説「現」は言わば恨みの書であった。主に実母への恨みつらみを吐き出しているだけの作品であり、それは私を苦しめるヒステリーに苦しむ狂女を表すかのようで、書いた本人ですら読み返して不愉快になるような作品であり、こんなものはタダでも読みたくないとすら思った。

 

しかしこの時の私には、それが分からなかった。隠し持つヒステリー女を抑え込む事に疲れを感じ始めていたせいかもしれない。

その頃同居していた母は、永井さんの反応を知り「永井さんは林芙美子を嫌いと言ってたような人だから、上品な育ちのためか庶民的な作風を嫌うのだろう」と気を使い、私を慰めた。

私の好きな林芙美子と同等に並べるような言い方をされたので、それは私にとって大いに慰めとなったが、自分への恨みつらみを並べ立てるような作品に対して、よく母はそのように言えたものである。

母の寛容さを思うと同時に、自分の被害者意識の強さに我ながら呆れる。

 

ある時の永井さんからの返事に、細君が自分への手紙を勝手に開いて見る事になったので、自分や永井さんの男色を匂わせるような事は書かないでほしいとの内容があった。しかし同性愛内容の作品を書いた場合は、細君も気にしないので、気にせず送ってくれとの事だった。

何でもない普通の手紙である。しかしあの頃の私は、かなりおかしくなっていた。辛うじて、家の外では普通の教員を通していたが、家の中では襖をけたたましく開け閉めしたり、何かの入った箱をひっくり返したりしては同居する母を罵った。

抑え込んでいた狂女を、とうとう抑えきれず外に溢れ出してしまったのだ。

母はそんな私を、度々ごとに宥めていた。まるで泣きわめく赤子をあやすようである。

そんな半分くらいキチガイであったため、普通の手紙も普通に読めず、「もう手紙を送らないでほしい」と読解した。

今から考えれば永井さんも、やっかいな人物に関わったものである。私は「関係を持った中なのに、出版社との中を取り持ち、本を出版させてくれない」「いきなり拒絶された」「理不尽にも捨てられた」「馬鹿にされた」という風な、何の根拠もない被害妄想を膨らませ、逆恨みの感情を抱いた。

そしてそれ以降、永井さんに手紙も小説も送っていないので、当然永井さんからも返事は来ない。いつもの事なのに、私はそれを「永井さんが私に怒りを抱いているから」とこれまた被害妄想にとり憑かれ、一人悩んでいた。永井さんが私に怒りを抱くような事は何も無かったというのに。

 

 

 

「現」の次に同雑誌で連載した「夜空」には、そんな狂気じみた憎悪が込められている。

きっかけは、林芙美子の放浪記のような作品を連載しようかというものであった。大学に行くため上京した時からの、私の実体験をそのまま書いた作品である。

 

そして当然、名前は皆変えてあるが、永井さんも登場する。関係を持った事も。私はそれを永井さんへの復讐のつもりで書いていたが、今冷静になって考えてみれば、永井さん以外が読んでも誰の事か分からないだろうし、もし永井さんが読んでいたとしても、そう考えて心配する事は無かっただろう。ましてや熊本の地方雑誌を永井さんが購入しているわけがなかった。

 

「夜空」の連載中、町田さんや関係者と飲み屋で宴会をした時の事であった。

町田さんは「福次郎君、あの夜空って作品、連載はまだ続くの?」とフランクに尋ねてきた。

 

「はあ、まだ…。」と陰気で歯切れの悪い返答をすると、

「もうそろそろ終わりにしようよ、あんなもの。実は読者から苦情が来てるんだ。子どもに見せられないとか、うちの病院の待合室には恥ずかしくて置いておけない、とか」

「夜空」にはかなり濃い性描写、それも同性間によるものが書かれていたのでそのためだろうと思われる。

しかし、町田さんの「あんなもの」という言葉に私の脆い自尊心は容易に傷つけられ、いい歳をした大の男が涙を堪えきれず、洗面所に駆け込んだ。

顔を洗って戻ると、町田さんは私が洗面所で何をしてきたか当然察していたので、それ以降この件について口にする事は無かった。

私はこの件について、「同性愛差別によって、作品が認められなかった」と自分を慰めた。

実際は、その頃ノンケの作家が同性愛を書く事は珍しくなかったのだが、またもや私は、自分の性癖に責任転嫁したのである。

 

 

 

永井さんとの交流が絶えたまま、永井さんは自衛隊に体験入隊したり、青年を数名集めて小軍隊のような、なんとかの会というものを結成。自衛隊駐屯地にて、私にはよく分からない演説をした後に割腹自殺した。

 

かつて書生であった私の元に記者が来た時、私は「なぜこんな事をしたのです、自分がつまらない人間だと思ったなら、素直に認めてしまえば良かったのに。」と発言したが、それは正に私自身への叫びであった。こんな、相手が故人となった時ですら私は自分の事しか見えないらしい。

 

そして、まだまだ頭のおかしかった私は、永井さんが死を選んだのは私が永井さんとの事を、名前を変えたとはいえ小説に書いたせいだと、長い間思い込んでいた。

いや、そう思いたかったのだとも思う。永井さんにそれだけ強い影響を持っていたのだと。

何も無いからっぽの私は、文学でも認められる事が無かった。

一度「タオル」という小説で芥川賞の候補にノミネートされた事がある。所謂ホンモノにしか分からぬような性描写を描き、その作品がノミネートされた事で私の性癖は周知のものとなったが、これは一つの賭けであった。性癖を暴露し、社会的地位を失うか、芥川賞を受賞してそれを覆い隠すほどの社会的地位を得るか。

しかし結局、「タオル」はノミネートされ、冷やかされただけに終わり、受賞には至らなかった。

やけになった私は、ならばせめて永井橋という天才に愛された男として、世間に名を知らしめたかった。そこで、「告白~永井橋」という暴露本を出版したのである。

事実をそのまま書けば、私が愛されている感じが無いため、願望でかなり変えてある。

自分をつまらない人間と確信しても、なぜそれを素直に認められよう?

 

しかし、永井さんが「次郎」という名で書いた卑しい男を、私の事を書いていると感じた事だけは、今でも当たっている気がしている。

永井さんの死後、私は永井さんからの手紙を全て売り、金に換えた。私の卑しさを見抜き、悪意無く参考にしたのかもしれない。

 

 

麺平良
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