対馬の闇Ⅰ

 沢富は、離婚することはないと思ったが、念のために質問した。「離婚できないくらいだから、浮気なんかしたら、大変なことになるでしょうね」陽子は、目を丸くして返事した。「そうですとも。浮気したら、死刑です。カトリックの戒律は厳しいんです」死刑と聞いて沢富の顔が引きつった。ひろ子が、笑顔で口をはさんだ。「ちょっと~、おねえちゃんたら~。サワちゃん、青くなってるじゃない。サワちゃん、浮気、しないわよね」背筋を伸ばした沢富は大きくうなずいた。カトリックは、戒律が厳しいとは聞いていた。今後、カトリックの人たちと付き合っていくと思うと、気が重くなってきた。「お姉さん、カトリックの戒律については全くわからないので、お手柔らかに教えてください」ひろ子は、陽子の脅しにビビっている沢富を横目に見てクスクス笑い出した。

 

 食事を終えた三人は、ツシマヤマネコを見に行くことにした。陽子は、沢富に日本海の絶景を見せようと、来た道を戻るように国道382号線を南下し、わき道へ右折して海岸沿いの道を走ることにした。海岸沿いの井口浜キャンプ場を通過すると異国の見える丘展望台で少し休憩し、アジサイ・ロードを通過し対馬野生生物保護センターに向かった。ヤマネコセンター見学後、棹崎公園(さおざきこうえん)の近くの日本最北西端の碑で記念撮影をして帰路についた。田舎道は飛ばすことができず、予想していた以上に時間がかかり、佐須奈漁協近くのひろ子の実家についたのは5時を少し過ぎていた。実家は瓦葺の古びた家だと思っていたが、3年前に新築された中庭のあるモダンな和風建築の家だった。沢富は、リビングに通され、父親がやってくるまで待たされた。中庭をぼんやり眺めていると背が高く顎ひげを生やしたイケメンの父親が夫人に支えられゆっくりと歩きながら現れた。

 

 即座に立ち上がった沢富は、挨拶した。「初めまして、沢富と申します」父親は、小さな声で挨拶した。「ようこそ、いらっしゃいました」父親は、2年前に脳梗塞で倒れ、3か月近く入院していた。右半身が少し不自由になったが幸運にも言語障害にならなかった。右足の動きがぎこちなくなったため、若干バランス感覚が悪くなり俊敏な動きができなくなっていた。静かに腰掛けた父親は、笑顔を作り、ひろ子に声をかけた。「ひろ子も座りなさい」ひろ子は、沢富の右横に腰掛けた。沢富は、初対面から単刀直入に結婚のことを切り出すのは不作法に思え、父親を気遣うことにした。「ひろ子さんから、体調が思わしくないとお聞きしてましたが、お体は大丈夫ですか?」

 

 

 


 父親は、働くことはできなくなったが、生活する上では不自由はなかった。「右がやられました。無様な姿をお見せして。仕事ができんということは、情けないですな~~」父親は、全く元気がなかった。ひろ子が声をかけた。「でも、会社は順調らしいじゃない。お父さんは、のんびりと趣味でもやればいいのよ」陽子が、お茶を運んできた。沢富は、差し出されたお茶を一口すすった。沢富が警察官であることを陽子からすでに知らされていた父親は、苦虫を嚙み潰したような表情でしばらく口を開かなかった。ひろ子の右横に腰掛けた陽子は、沢富を気遣い父親に話しかけた。「沢富さんは、お父さんと同じ、猫好きなんだって。早速、ヤマネコセンターに行ってきたのよ。猫好き同志で、話が合うんじゃない」

 

 父親の顔にほんの少し笑顔が浮かんだ。「そうですか。猫好きですか。猫は、かわいい。犬は嫌いだ。特に警察は嫌いだ」4人は、一斉に顔を引きつらせた。陽子が場を和らげようと父親に声をかけた。「こんなにたくさん、沢富さんからのお土産。早速、ひよこをいただきましょう」陽子は、包装紙を丁寧に開き蓋を開けた。陽子は、ひよこを全員に手渡した。「ほんと、かわいいわね。お父さん、大好きなんでしょ。食べなさいよ。そう、沢富さんも甘党なんだって。ひろ子ったら、お父さんみたいな人を好きになったみたい」母親が笑顔で夫に声をかけた。「あなた、おいしいわ。好きなんでしょ。何ぼんやりしてるの」父親は、左手に持っていたひよこの頭をぱくりとかみつき、笑顔で口をもぐもぐと動かした。

 

 沢富は、一気に結婚のことを話したほうが気持ちが打ちとけるように思えた。「お父さん、ひろ子さんとお付き合いしています。将来、結婚したいと思っています。どうぞよろしくお願いします」沢富は、軽く頭を下げた。沢富がエリート警察官であることを知らされていた父親は、結婚に反対する気はなかった。むしろ、バツイチのひろ子にとっては、宝くじに当たったような幸運だと思っていた。「ひろ子から聞いています。父親は、娘の幸せを願うだけです。田舎もんですが、こちらこそよろしく頼みます」沢富は、すんなりと承諾してもらえてホッとした。確かに警察官を憎んでいるようだったが、結婚とそれとは割り切っているようで安心した。

 


 陽子は二人のなれそめを知りたくなった。「ひろ子、沢富さんと、どこで知り合ったの?」ひろ子は二人の出会いを思い出していた。「沢富さんは、お客さんだったの。いろいろ話しているうち、親しくなったって感じ。それと、沢富さんの上司の奥さんに後押しされて。その上司の方が、ぜひ、仲人をさせてほしいって、言われているの」陽子は、縁とは不思議なものだと思った。「そう、その上司の奥さんが、縁結びの神様ってことね」ひろ子はうなずいた。「そう。奥さんがとてもいい方で、すごく、お世話になっているの」母親が、うなずき口をはさんだ。「それは、それは、上司の方にお礼を申し上げなくては。是非、近々お礼に伺うわ。そう、伝えて、ひろ子」

 

 陽子は沢富がエリートであることは聞かされていたが、もっと彼の素性を知りたかった。「沢富さんは、刑事でいらっしゃるのよね。これからも、ずっと福岡勤務ですか?」沢富は、警察のことを話して父親の気分を害しないかと不安だったが、結婚すれば一生付き合うことになるから、ざっくばらんに話しておいたほうがいいように思えた。「はい、今のところは福岡勤務です。でも、私の場合、転勤があるんです。まだ、はっきりしていないんですが、近々、東京勤務になるかもしれません」母親は、少し不安げな顔つきで話し始めた。「え、東京ですか?あらま~~。田舎者のひろ子、大丈夫かしら」父親がうなずいて話し始めた。「とにかく、沢富さんについていけばいい。住めば都というじゃないか。沢富家の方々に、かわいがられるんだぞ」

 

 サスペンスドラマが好きな陽子は、話を膨らませた。「ということは、よく、サスペンスドラマに出てくる警視庁のデカってことね。ちょっと、かっこいいじゃない」沢富は、頭を掻きながら誤解を解いた。「いや、違うんです。僕は、警視庁ではなく、警察庁、勤務になるんです。簡単に言えば、警察業務全般を取り扱う仕事です。だから、直接事件にかかわることはありません。地味な仕事です」陽子は、よくわからなかったが、うなずいた。「まあ、警察の事務の仕事ってことね。沢富さんは、出世なされる方だから、ひろ子、しっかり内助の功を発揮しなくっちゃね」

 

 


 自信のないひろ子は、苦笑いをしながらうなずいた。「東京に行ったら、対馬が遠くなるのよね~~。ちょっと寂しいな~~」沢富がひろ子を励ますように笑顔をひろ子に向けた。「さみしくなったら、カラオケで思いっきり歌いましょう。音痴の僕は、歌わないほうがいいような気がするけど」みんな、一斉にワハハ~~と笑い声をあげた。陽子は夕食の準備に取り掛かることにした。「私たちは、食事の準備をします。沢富さんは、ゆっくりなさってください」陽子、母親、ひろ子たちは、キッチンに向かった。いつもは母親と陽子が食事の準備をしていたが、今日は陽子とひろ子が中心となって準備することになった。

 

 陽子は、小さな声でひろ子に声をかけた。「あの手の顔って、ひろ子好みなの?好みでも変わったのかしら?」沢富との縁がひろ子にも不思議でならなかった。どちらかといえば軽いノリのイケメンが好きだったが、しかめっ面の刑事と付き合うようになるとは、今でも信じられなかった。「どうしてだろう。きっと、結婚に、一度失敗したからじゃない。自分でもよくわかんない。マスクはいまいちだけど、すっごく優しいの。あ~ゆうタイプ、初めて。しかも、デカだもんな~。どうしたんだろうね。神様が与えた運命かも。二度と離婚しないようにって。何というか、愛されているって感じがする。こういう気持ち初めて」陽子は、聞いていて恥ずかしくなった。「あらま~~。そこまでのろける。ごちそうさまです」二人は、クスクス笑い始めた。

 

 陽子は、カトリックが問題にならないかと不安になっていた。「沢富さんは、カトリックじゃないけど、うまくやっていけそう。あまり、縛り付けると険悪になるからね。大目に見てやることも大切よ。前の旦那のようんな不埒(ふらち)なのは許されないけど」ひろ子は、酔っ払って事故死した前の夫のことを思い出していた。「やっぱ、男ってのは、どうしようもない動物なのかもね。なんど言っても、ダメだった。あいつ、飲み打つ買う、三拍子そろった、どアホだったからな~~。事故でおっちんだのは、神様が下した天罰よ。でも、自分にも悪いところがあったのかも?夫婦仲が悪くなるのは、どちらにも原因があるような気がする。今度こそ、うまくやれるといいんだけど。自信はないけど」

 


春日信彦
作家:春日信彦
対馬の闇Ⅰ
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