対馬の闇Ⅰ

 空港を出発して40分は過ぎていたが、依然として山林の中を走っていた。「かなり遠いんですね。ご自宅まで」ひろ子は、気まずそうに弁解した。「サワちゃん、ごめんね、あの時は、1時間ぐらいって言ったけど、1時間半ぐらいかかるの。この道って、曲がりくねってるし、細いし、飛ばせないのよ」沢富は、のんびりと道中を楽しむことにした。猫が好きな沢富は、ツシマヤマネコについて考えていた。約10万年前に、当時陸続きだった大陸からわたってきたらしい。おそらく、朝鮮半島をてくてくと歩いてきたのだろう。一時期は、数百頭はいたんだろうが、今では100頭もいないらしい。家猫はどんどん繁殖するのに、ツシマヤマネコは一向に繁殖しない。どうしてだろう。人間とは相性が良くないのだろうか?何度か、ツシマヤマネコの写真を見たことがあったが、なんとなく、悲しそうな顔をしていた。

 

 陽子は、ルームミラーを覗き込みながら二人に声をかけた。「思ったより、早く着くわよ。あと15分もすれば、対州(たいしゅう)そばが、食べられるわよ。沢富さん、対州そばは、初めてでしょ」対州そばという言葉を初めて聞いた沢富は、質問した。「対州そば、って初めて聞きました。普通のそばと違うんですか?」ひろ子が、即座に返事した。「そうね~~、味というより、香りかな。いい香りがするのよ。きっと、気に入るから。対州そばは、対馬でしか食べられないはず。きっと自慢できる体験になるから。あ~~、おなかすいちゃった~~。早くえび天そば、食べたいよ~~」朝抜きの沢富もお腹がグ~~となり始めた。「対馬といえばツシマヤマネコぐらいしか知らなかったけど、そのほかにも珍しいものがあるんですね」

 

 ひろ子が、ちょっとしかめっ面で話し始めた。「まあ、珍しいものはあるけど、つまんないとこよ。まったく変わり映えしないし、世間知らずの田舎者の集まりって感じ。観光客といえば、下品な韓国人ばかり。私は、こんなとこ、好きじゃない。福岡に出て、せいせいした。おねえちゃんは、ド田舎が好きみたいだけど」陽子が即座に返事した。「もちろん大好きよ。いいじゃない。田舎者で。きれいな海に囲まれて、澄んだ空気を思いっきり吸って、毎日、元気に暮らせれば、それで十分じゃない。最高の贅沢だと思うけどね」姉妹の会話を聞いていると、二人とも美人だが、性格は違うように思えた。東京育ちの沢富は、福岡の田舎にびっくりしたが、対馬は田舎というよりジャングルにしか思えなかった。 

 

 

 


 左手の佐須奈湾(さすなわん)を覗き見たひろ子は沢富の右肩をポンとたたいた。「サワちゃん、ほら、見て、漁船が並んでるでしょ。もう、ここからはすぐだから」漁船と聞いて今問題になっている対馬放火殺人事件を思い出した。長崎地裁は無期懲役の判決を下したが、地検は死刑を主張し、福岡高裁に控訴した。依然として、被告側は無罪を主張している。こんなド田舎でも殺人事件があることを考えると、都会も田舎も人の気持ちは同じように思えた。ひろ子がまた沢富の右肩をポンとたたいた。「ほら、あそこ。後、200メートぐらい」右手に北警察署が見える交差点を徐行すると陽子がハンドルを左に切って小さなスロープを登った。20台ほど駐車できる駐車場の店入り口近くに駐車すると、ルームミラーを覗き込み後部座席の二人に到着を知らせた。「到着。沢富さん、退屈だったでしょう。ちょうどいい時間についたわ。さあ、降りて」

 

 三人は、テーブルに着くとえび天そばを注文した。沢富は、姉を味方につけるために根回しをすることにした。「お姉さんは、僕たちの結婚に賛成なんですね。ひろ子さんから、お父様は、警察が嫌いだとお聞きしたんですが、どの程度お嫌いなんでしょうかね~」陽子は、ちょっとマジな顔つきで返事した。「そうね~~。できれば、八つ裂きにしたいって言ってます。根に持ってるんですよ。おそらく、父の政府に対する憎しみは死ぬまで消えることはないと思います。明治政府は、全く残虐よね。実は、私も、はらわたが煮えくりがえるくらい、警察を憎んでいます。でも、忘れることにしています。当時の警察官は、政府の命令で極悪非道な弾圧をしたのでしょう。でも、沢富さんとは何の関係もありません。堂々と胸を張って、父を説得してください」

 

 沢富は、姉の言葉で少し気が楽になったが、父親がいまだ恐ろしかった。「そういっていただけると、気持ちが楽になります。いつの時代も、国家権力というものは恐ろしいものです。何の罪もない人たちを拷問にかけたり、殺戮したり、全く許せません。お父様が、政府や警察を憎まれるのは、本当に、もっともなことです。でも、二人の結婚だけは、許してほしいと願います。お姉さん、僕たち二人を助けてください。お願いします」陽子は、笑顔で大きくうなずいた。「当然です。こちらこそ、よろしくお願いします。ひろ子の結婚を一番喜んでいるのは、母なんです。わがままな妹ですが、末永くお願いします。カトリックでは、離婚はできません。沢富さんは、誠実そうで安心しました。よかったわね、ひろ子」

 


 沢富は、離婚することはないと思ったが、念のために質問した。「離婚できないくらいだから、浮気なんかしたら、大変なことになるでしょうね」陽子は、目を丸くして返事した。「そうですとも。浮気したら、死刑です。カトリックの戒律は厳しいんです」死刑と聞いて沢富の顔が引きつった。ひろ子が、笑顔で口をはさんだ。「ちょっと~、おねえちゃんたら~。サワちゃん、青くなってるじゃない。サワちゃん、浮気、しないわよね」背筋を伸ばした沢富は大きくうなずいた。カトリックは、戒律が厳しいとは聞いていた。今後、カトリックの人たちと付き合っていくと思うと、気が重くなってきた。「お姉さん、カトリックの戒律については全くわからないので、お手柔らかに教えてください」ひろ子は、陽子の脅しにビビっている沢富を横目に見てクスクス笑い出した。

 

 食事を終えた三人は、ツシマヤマネコを見に行くことにした。陽子は、沢富に日本海の絶景を見せようと、来た道を戻るように国道382号線を南下し、わき道へ右折して海岸沿いの道を走ることにした。海岸沿いの井口浜キャンプ場を通過すると異国の見える丘展望台で少し休憩し、アジサイ・ロードを通過し対馬野生生物保護センターに向かった。ヤマネコセンター見学後、棹崎公園(さおざきこうえん)の近くの日本最北西端の碑で記念撮影をして帰路についた。田舎道は飛ばすことができず、予想していた以上に時間がかかり、佐須奈漁協近くのひろ子の実家についたのは5時を少し過ぎていた。実家は瓦葺の古びた家だと思っていたが、3年前に新築された中庭のあるモダンな和風建築の家だった。沢富は、リビングに通され、父親がやってくるまで待たされた。中庭をぼんやり眺めていると背が高く顎ひげを生やしたイケメンの父親が夫人に支えられゆっくりと歩きながら現れた。

 

 即座に立ち上がった沢富は、挨拶した。「初めまして、沢富と申します」父親は、小さな声で挨拶した。「ようこそ、いらっしゃいました」父親は、2年前に脳梗塞で倒れ、3か月近く入院していた。右半身が少し不自由になったが幸運にも言語障害にならなかった。右足の動きがぎこちなくなったため、若干バランス感覚が悪くなり俊敏な動きができなくなっていた。静かに腰掛けた父親は、笑顔を作り、ひろ子に声をかけた。「ひろ子も座りなさい」ひろ子は、沢富の右横に腰掛けた。沢富は、初対面から単刀直入に結婚のことを切り出すのは不作法に思え、父親を気遣うことにした。「ひろ子さんから、体調が思わしくないとお聞きしてましたが、お体は大丈夫ですか?」

 

 

 


 父親は、働くことはできなくなったが、生活する上では不自由はなかった。「右がやられました。無様な姿をお見せして。仕事ができんということは、情けないですな~~」父親は、全く元気がなかった。ひろ子が声をかけた。「でも、会社は順調らしいじゃない。お父さんは、のんびりと趣味でもやればいいのよ」陽子が、お茶を運んできた。沢富は、差し出されたお茶を一口すすった。沢富が警察官であることを陽子からすでに知らされていた父親は、苦虫を嚙み潰したような表情でしばらく口を開かなかった。ひろ子の右横に腰掛けた陽子は、沢富を気遣い父親に話しかけた。「沢富さんは、お父さんと同じ、猫好きなんだって。早速、ヤマネコセンターに行ってきたのよ。猫好き同志で、話が合うんじゃない」

 

 父親の顔にほんの少し笑顔が浮かんだ。「そうですか。猫好きですか。猫は、かわいい。犬は嫌いだ。特に警察は嫌いだ」4人は、一斉に顔を引きつらせた。陽子が場を和らげようと父親に声をかけた。「こんなにたくさん、沢富さんからのお土産。早速、ひよこをいただきましょう」陽子は、包装紙を丁寧に開き蓋を開けた。陽子は、ひよこを全員に手渡した。「ほんと、かわいいわね。お父さん、大好きなんでしょ。食べなさいよ。そう、沢富さんも甘党なんだって。ひろ子ったら、お父さんみたいな人を好きになったみたい」母親が笑顔で夫に声をかけた。「あなた、おいしいわ。好きなんでしょ。何ぼんやりしてるの」父親は、左手に持っていたひよこの頭をぱくりとかみつき、笑顔で口をもぐもぐと動かした。

 

 沢富は、一気に結婚のことを話したほうが気持ちが打ちとけるように思えた。「お父さん、ひろ子さんとお付き合いしています。将来、結婚したいと思っています。どうぞよろしくお願いします」沢富は、軽く頭を下げた。沢富がエリート警察官であることを知らされていた父親は、結婚に反対する気はなかった。むしろ、バツイチのひろ子にとっては、宝くじに当たったような幸運だと思っていた。「ひろ子から聞いています。父親は、娘の幸せを願うだけです。田舎もんですが、こちらこそよろしく頼みます」沢富は、すんなりと承諾してもらえてホッとした。確かに警察官を憎んでいるようだったが、結婚とそれとは割り切っているようで安心した。

 


春日信彦
作家:春日信彦
対馬の闇Ⅰ
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