赤い糸

 頭の中に時間の空白が起きると美緒の左手はスマホを握り、右手の指は鳥羽のイニシャルをタッチしていた。一方、朝の五時に起きた鳥羽は、安部教授の膨大な実験データを論文に引用できるようにエクセルで整理していた。頭をフル回転させエクセルを操作しているとヘビーローテーションの着メロが鳴り響いた。今頃だれだろうとスマホを覗くと美緒からだった。こんな時に美緒かと内心舌打ちしたが、スマホにタッチした。「はい、何だい?」美緒は、即座に苦しそうな声で助けを求めた。「助けて、苦しいの。起きれないし、熱もあるみたい。早く、助けて」鳥羽は突然の助けを求める悲痛な声に腰を抜かした。もしかしたら、食あたりでも起こしたのではないかと思った。

 

 鳥羽は、即座に返事した。「わかった。きっと、食あたりだ。今すぐ行く。待ってろ」残りは午後にやることにして美緒のマンションにかけていった。鳥羽は、エントランスから大声で「開けて下さ~~い。お願いしま~~す。病気なんです」と管理人を呼んだ。入口左手にある管理人室でTVを見ていた管理人が何事かとびっくりしてエントランスに現れた。303号室の友達が急病ですぐに来てほしいという連絡があったことを管理人に伝えると疑いのまなざしでしぶしぶ入館を許可した。鳥羽は、刑事上がりのような鋭い目つきの管理人と一緒にエレベーターで3階に上がった。

 

 二人が303号室のドアの前に立つと管理人は、鳥羽に大声で相手の名前を呼ぶように指示した。しかめっ面の管理人の顔をちらっと見ると鳥羽は、大きな声で美緒に到着を伝えた。「みお~~、大丈夫か~~?助けに来たぞ~~」奥のほうから美緒の声が返ってきた。「入って、鳥羽ク~~ン。ありがとう~~」管理人は、不審者でないことを確認し、入室を許可した。「ここは、男子禁制だ。病状がひどいようだったら、救急車を呼ぶように。今回は特別だぞ。30分以内に出ていくように。いいな」目を吊り上げた管理人は、命令口調でそういうと熊のようにのっそのっそと巨体を揺らしながらエレベーターに向かった。

 


 鳥羽は、駆け足でリビングに行くとリビング右手の部屋のドアを押し開けた。ベッドには、美緒が苦しそうな表情で寝ていた。鳥羽は、ベッドの枕元にかけていった。「おい、大丈夫か?昨日、何喰った。食あたりじゃないか?熱は何度だ?」美緒は、小さく首を振った。「はかってない。起きれないんだもん。食あたりじゃないと思う。夕食は、野菜炒めとさんまの焼き魚、それとみそ汁にご飯。食後はデザートのキーウイとヨーグルト。あたるようなものは食べてない。体がだるくて、頭がボ~~とする。風邪かな~~」美緒は、適当に答えた。

 

 鳥羽は、管理人の言葉を思い出し、体調を確認した。「病院に行かなくてもいいのか?起きれないんだったら、救急車、呼ぼうか?」美緒は、素早く顔を振った。「大丈夫。鳥羽君が来てくれたから、気分が落ち着いた。さっきまで、心細くて、涙が出そうだった。しばらくしたら、元気が出ると思う」鳥羽は、このままほっといていいか悩んだ。管理人の30分以内という時間制限を思い出し、一応体温を確認することにした。「体温計は、どこだ?一応、体温は測っておかないとな」体温計はクローゼットの中の木製の救急箱にあった。半身になった美緒は、クローゼットを左手で指さし返事した。「そこのクローゼットの中に救急箱がある。そこに入ってる」鳥羽は、クローゼットを開き中をのぞいた。クローゼットにかけられていた甘い香りのする服の下に救急箱は置かれてあった。

 

 救急箱を開けた鳥羽は、体温計を取り出し、枕元にやってきた。「はいよ」体温計を受け取った美緒は体温計をわきの下に差し込んだ。「鳥羽君って、やさしいのね。きっと、熱は下がってると思う」元気そうな美緒の笑顔を見た鳥羽は、管理人の話をすることにした。「あの管理人、ちょっと怖いよな。刑事あがりじゃないか。容疑者を見るような目つきで、俺をじろっと見るんだ。参ったよ。しかも、30分以内に出て行けとさ」美緒も管理人が怖かった。「鳥羽君も、そう思う。ほんと、怖いのよ。たとえ彼氏でも、入れないみたい。今回は、美緒が病気ということで、特別に入れたんでしょ」美緒が言う通りだった。鳥羽は、時間を気にしていた。「あの管理人は、おっかないよ。時間をオーバーでもしたら、放り出されるんじゃないか」

 

 

 

 

 


 美緒もそんな気がした。「あと何分ぐらい?」鳥羽は、腕時計を見た。「あと15分ぐらいだな。美緒が元気そうだから、安心したよ。もういいんじゃないか?」美緒は、体温計を取り出すとメモリを読んだ。「36.6℃、よかった。胸も苦しくなくなったし。なんだか、気分がすっきりしてきた。鳥羽君の念力よ」念力と聞いた鳥羽は、ワハハ~~と笑い声をあげた。「まあ、そういうことにしておこう。とにかく、元気な顔が見れて、ホッとしたよ。もう、そろそろ帰らないと。あの管理人、怒鳴り込んでくるような気がする。でも、ああいう管理人は、親御さんには人気があるんだよな。最高の虫よけになるからな」美緒もクスクスと笑い声をあげた。「鳥羽ク~~ン、駆け付けてくれたお礼に、いいものあげようか?」

 

 鳥羽は、恩を着せているようで、お礼に物をもらうのは気が進まなかった。「いや、そう気を使わなくていいさ。困ったときは、お互い様さ」美緒は、掛け布団をはねのけるとヒョイと起き上がった。小さなキティーちゃんがちりばめられたパジャマ姿の美緒は、ベッドをするりと降りてクローゼット横にあるピンクの5段チェストに向かった。背を向けた美緒は、鳥羽に声をかけた。「鳥羽君、あっち向いてて」鳥羽に背を向けたままゴソゴソ音を立てると小箱をもってベッドに戻ってきた。ベッドに腰掛けた美緒は、鳥羽にスヌーピーがプリントされた小さな箱を手渡した。「はい、お土産」鳥羽は、断ろうかと思ったが、せっかくくれたものを突き返すのも悪いような気がしてもらうことにした。

 

 手渡された小箱を両手で持って頭をちょこんと下げた。「そうか。悪いな。本当にいいのか?」美緒は、笑顔を作りクスクスと笑い声をあげた。「何が入っているかは、開けてのお楽しみ。後で、ゆっくり見てちょうだい」スヌーピーの小さなぬいぐるみでも入っているんじゃないかと思ったが、全く重さを感じない小箱に謎めいたものを感じた。「何だろな~~。そいじゃ、もう帰る」鳥羽は、笑顔を美緒に送り素早くドアに向かった。エレベーターを待つほどではないと思った鳥羽は、コトコトと靴音を響かせ一階まで一気にかけて降りた。管理人室をそっと覗くと、真剣な表情の管理人がノートパソコンのキーボードをたたいていた。鳥羽は、挨拶をして帰ることにした。「帰ります。大したこと、ありませんでした。お騒がせして、ご迷惑かけました。ありがとうございました」鳥羽に顔を向けた管理人は、無愛想な返事をした。「あ、そうか。それはよかった」鳥羽は、ちょこんと頭を下げて出口に向かった。

 


 寮に戻った鳥羽は、勉強机の椅子に腰かけると「ハ~~~」とため息をついた。まったく人騒がせなヤツだと思いつつ、机の上に置いた小箱を見つめた。いったい何をくれたんだろうと思うと、一刻も早く見てみたくなった。左手の親指の先で上蓋を開くと、ビニールに包まれたピンク色の布が入っていた。ビニール袋を取り出し、中のものを取り出してみると小さな女子用のショーツだった。なんだこりゃと思った鳥羽は、ポイと机の上に放り投げた。いったいどういうつもりなんだ、何が、お土産だ、人を馬鹿にするにもほどがあると思ったとたん、急激に、怒りが込み上げてきた。血が上った鳥羽は、美緒に電話した。3度呼び出すと美緒の返事の声が返ってきた。鳥羽は、即座に怒鳴った。「美緒、どういうつもりだ。なんだ、これは」

 

 美緒は、文句を言ってくるのを予測してたかのように即座に返事した。「鳥羽君の欲しがっていたものよ。気に入らないの?」鳥羽は、自分が変態だと思われていると思い、怒鳴りつけた。「おい、俺は、変態じゃない。美緒のショーツをもらって、喜ぶとでも思っているのか。バカにするんじゃない」ハハハハハと美緒の笑い声が左耳に飛び込んできた。鳥羽の怒りは頂点に達していた。「何がおかしいんだ、こんなもの、生ごみと一緒に捨てるからな。いいな」ハハハハハと笑い声が再び聞こえてきた。「え~~生ごみと一緒に捨てるの?いいの、捨てたりして、それって、ゆう子先輩のショーツなのよ」美緒はクスクスと笑い声をあげた。ゆう子先輩のショーツと聞いた鳥羽は、一瞬息が止まった。

 

 鳥羽は、言葉に詰まってしまった。しばらくピンクのショーツを見つめると返事した。「本当に、ゆう子先輩のモノか?どうして、美緒が持ってるんだ」また、クスクスと笑い声をあげた美緒は、事情を説明することにした。「美緒はね、鳥羽君に、中年はやめとけ、って言われたじゃない。そいで、ゆう子先輩にも相談しようと思って、翌日の日曜日にゆう子先輩のうちに行ったの。月曜日は体育の日で祭日だったから、その日は泊まったの。そいで、一緒にお風呂に入って、ゆう子先輩の背中を洗いながら、中年について聞いたの。そしたら、ゆう子先輩も、鳥羽君と同じ意見だった。やっぱ、鳥羽君のアドバイスは、正しかったとつくづく思ったのよ。そいで、鳥羽君へのお礼に何がいいかな~、鳥羽君が喜ぶものは何かな~、って思った時、これだって思ったのよ。頑張ったんだから。それ、いらないの?本当に捨てる気?」

 


春日信彦
作家:春日信彦
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