オーディション

ヒフミンは、亜紀の顔を覗き見た。「あっちって?」亜紀は、ヒフミンをだましたようで気まずくなってしまった。「あのね、家に帰る途中じゃなくて、会場に行く途中だったの」ヒフミンは、即座に尋ねた。「会場って、どこ?」ちょっとうつむいてしまった亜紀は、小さな声で返事した。「伊都文化会館」ヒフミンは、確かに伊都文化会館と聞き取ったが、聞き返した。「伊都文化会館なの?」亜紀は、ごめんなさいと言うような顔で返事した。「そう、伊都文化会館」

 

 ヒフミンは、伊都文化会館まで何度も走って行ったことがあった。だから、近道も知っていたが、子供をおんぶしていけるかどうか自信がなかった。「伊都文化会館までか。走れば20分ぐらいで行けるんだけど、おんぶだと・・」ヒフミンは、少し考え込んでしまった。即座に、亜紀は弁解した。「違うの。伊都文化会館までなんか、歩けっこないから、タクミを連れて帰るところだったの。ヒフミン、さあ、帰ろ」

 

 突然、拓実が叫んだ。「いやだ。行く。オーディションに行く。絶対行く」オーディションと聞いたヒフミンは、亜紀に尋ねた。「オーディションって?」亜紀は、強引に引き返そうかと思ったが、拓実が泣き叫ぶようで事情を説明することにした。「伊都国アイドル誕生オーディション一次審査で、歌うことになったの。これって、なにかの間違いだと思うんだけど。タクミは、出る、出る、って言い張るから、歩かせて、オーディションを諦めさせようとしたのよ。でも、泣き叫んで、帰ろうとしないの」

 ヒフミンは、北側にある高速道路のはるか向こうをじっと眺めていた。オーディションに出ることになっているのならば、必ず出るべきだと思った。約束をすっぽかすことは、悪いことだと思った。「タクミはオーディションに出ることになっているんだろ。だったら、出るべきだよ。約束を破ることはよくないよ。始まるのは、何時から?」亜紀は、やはりアンナに言われたときに、思い切って電話で断るべきだったと反省したが、いまさら、当日の今になって断りの電話を入れる気持ちになれなかった。

 

 「午後1時から。でも、行かなかったら、欠席でいいんじゃない?」ヒフミンは、約束を破るのは、最も悪いことだとおじいちゃんに言い聞かされていた。「ダメだよ。約束は、必ず守らなくっちゃ。よし、まだ時間はある。タクミぐらい、へっちゃらだ。タクミ、ヒフミンにまかしとき」ヒフミンは、西に向かって歩道を歩き始めた。あっけにとられた亜紀は、すぐに後を追いかけた。「ヒフミン、本当に、伊都文化会館までおんぶしてくれるの?」

 

 ヒフミンは、大きな声で即座に返事した。「大丈夫。時間はかかるけど、伊都文化会館までぐらいだったら、へのカッパたい」亜紀は、どうしようもないバカだと思っていたが、この時だけは、ヒフミンが、たくましく思えた。“ヒフミン、ありがとう”と心でつぶやいた。「よかったね、タクミ。ヒフミンって、力持ちね。アキは、おんぶして、死ぬかと思った」ヒフミンは、小さいときから野良仕事をやっていて足腰が強かった。また、小学6年生では、体格が大きい方だった。勉強はからっきしダメだったが、走るのは得意で、校内マラソンでは、いつも1番か、2番だった。

ホッとした亜紀は、ヒフミンのあとに続き歩き始めた。でも、本当に何かの間違いで、拓実がオーディションに出られないことがわかったら、拓実は泣き叫ぶんじゃないかと思った。ヒフミンもがっかりすると思ったが、もういまさら引き返すことはできないように思った。こうなったら、どうにでもなれと開き直った。「ヒフミン、足痛くない。疲れたら、休んでね。時間は、いっぱい、いっぱい、あるから」

 

 ヒフミンにとって、5キロぐらい歩くのは、まったく平気だったが、3歳の子供がオーディションに出られることに疑問を感じていた。「アキちゃん、タクミは、どんな歌を歌うんだ。どんぐりコロコロか?」ヒフミンの知らない歌だと思ったが、即座に返事した。「童謡じゃないの。紅白歌合戦にも出場したことのある高橋真梨子の桃色吐息(ももいろといき)。ヒフミンは、聞いたことないでしょ」AKB48の歌は、聞いたことはあたが、高橋真梨子も桃色吐息も初めて聞いた。

 

 「へ~~、ももいろ、何とかか。タクミも、変わった子供だな~。本当に歌えるのか?俺は、恋チュン、なら歌えるけどな~」亜紀は、内心気が気ではなかった。もし歌うことになって、本当に歌えるのだろうかと心配になった。桃色吐息は、拓実がカラオケでよく歌っていたから、思い付きで書いてしまったが、審査員の前でも歌えるのかと不安になった。その不安以上に、歌も聞いてくれず、即座に追い返されたら、それこそ拓実は泣き叫ぶようで、そのことを思うと、足がすくんできた。

ヒフミンは、少し遠回りになっても歩道のある道路を選んで歩いた。時々休憩はしたが、12時間15分に伊都文化会館に到着した。受付時間は、1220分からだったが、間違いであれば、少しでも早めに分かった方がいいと思い、即座に、亜紀は、館内にかけて行った。受付テーブルには、係員はいなかったが、テーブルの横には少女たちの列ができていた。テーブルの横でスタッフらしきお兄ちゃんとお姉ちゃんが立ち話をしていたので声をかけた。「オーディションに来ました。セキタクミですが、間違いありませんか?」イケメンのスタッフは、腕時計をチラッと見て、まだ3分ほど早かったが、頷いて、返事した。「ちょっと早いけど、もう始めるか。順番に、受付するから、列にならんで」

 

受付テーブルの椅子に腰かけたスタッフは、列を作っていた応募者からはがき受け取るとエントリーナンバーと応募者名を読み上げ始めた。受付は名簿にチェックを入れるだけでスピーディーに行われた。亜紀の番がやってくると震える手でエントリーナンバーが記載されたはがきを差し出した。スタッフはテーブルに置かれた名簿を見つめ応募者名を確認した。「セキタクミちゃんね、エントリーナンバー19。向こうに、控室があるから、あそこで待っていて。スタッフが、審査の説明に行くから、いい」

 

亜紀は、エントリーが間違いでなかったことにホッとしたが、どうして3歳なのにエントリーできたのか不思議だった。「ちょっと、いいですか?」スタッフは、笑顔で返事した。「はい、なんでしょう」亜紀は、小さな声で尋ねた。「タクミは、3歳なんですが、それでも、いいんですか?」スタッフは、ちょっとひきつった顔で、返事した。「え、3歳?13歳じゃないの?名簿には、13歳と記載してあるよ。歌は、高橋真梨子の桃色吐息。本当に、3歳なの?」亜紀は、やっぱりと思った。3歳でオーディションに出られるはずがないと思っていた。でも、いまさら、拓実に出られないとは言えなかった。会場まで連れてきて、歌えないと言えば、大声で泣き叫ぶと思った。

 

春日信彦
作家:春日信彦
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