オーディション

当初から無理なことはわかっていたが、おばあちゃんに事情を説明する気にはなれなかった。亜紀は、拓実に声をかけた。「ほら、おばあちゃんも無理って、さあ、帰ろう」亜紀は、拓実の右手を引っ張った。拓実は、頑として立ち上がろうとしなかった。「いやだ。いやだ。行く。行って、歌う」亜紀が途方に暮れていると、聞いたことのある男子の声が聞こえてきた。「オ~~イ、アキちゃ~~ん」小太りのヒフミンが手を振りながら駆け寄ってきた。

 

 ハ~、ハ~と息を切らしながら駆け寄ってきたヒフミンは、亜紀に声をかけた。「公園まで、泣き声が聞こえたバイ。なんしょっと?」亜紀は、助っ人がやってきたと思い笑顔で答えた。「タクミが歩きたくないって、泣くのよ。手を引っ張っても、おんぶ、おんぶ、って、動かないんだから。ヒフミン、何とか言って」大柄なヒフミンは、ここから家までだったら、近いからおんぶして帰ってあげようと思った。

 

 「タクミ、おんぶしてやるバイ」ヒフミンは、拓実の前で腰を下ろした。それを見た拓実は、突然笑顔になって、勢いよく背中に飛び乗った。ヒフミンが腰を上げると「ヤッター、レッツゴー。おうまのおやこは なかよしこよし いつでも いっしょに ぽっくり  ぽっくり あるく」拓実は、上機嫌でおうまの歌を歌い始めた。ヒフミンが、踝を返し歩き始めると、拓実が叫んだ。「こっちじゃない。あっち」拓実は、北に向かって指さしていた。

ヒフミンは、亜紀の顔を覗き見た。「あっちって?」亜紀は、ヒフミンをだましたようで気まずくなってしまった。「あのね、家に帰る途中じゃなくて、会場に行く途中だったの」ヒフミンは、即座に尋ねた。「会場って、どこ?」ちょっとうつむいてしまった亜紀は、小さな声で返事した。「伊都文化会館」ヒフミンは、確かに伊都文化会館と聞き取ったが、聞き返した。「伊都文化会館なの?」亜紀は、ごめんなさいと言うような顔で返事した。「そう、伊都文化会館」

 

 ヒフミンは、伊都文化会館まで何度も走って行ったことがあった。だから、近道も知っていたが、子供をおんぶしていけるかどうか自信がなかった。「伊都文化会館までか。走れば20分ぐらいで行けるんだけど、おんぶだと・・」ヒフミンは、少し考え込んでしまった。即座に、亜紀は弁解した。「違うの。伊都文化会館までなんか、歩けっこないから、タクミを連れて帰るところだったの。ヒフミン、さあ、帰ろ」

 

 突然、拓実が叫んだ。「いやだ。行く。オーディションに行く。絶対行く」オーディションと聞いたヒフミンは、亜紀に尋ねた。「オーディションって?」亜紀は、強引に引き返そうかと思ったが、拓実が泣き叫ぶようで事情を説明することにした。「伊都国アイドル誕生オーディション一次審査で、歌うことになったの。これって、なにかの間違いだと思うんだけど。タクミは、出る、出る、って言い張るから、歩かせて、オーディションを諦めさせようとしたのよ。でも、泣き叫んで、帰ろうとしないの」

 ヒフミンは、北側にある高速道路のはるか向こうをじっと眺めていた。オーディションに出ることになっているのならば、必ず出るべきだと思った。約束をすっぽかすことは、悪いことだと思った。「タクミはオーディションに出ることになっているんだろ。だったら、出るべきだよ。約束を破ることはよくないよ。始まるのは、何時から?」亜紀は、やはりアンナに言われたときに、思い切って電話で断るべきだったと反省したが、いまさら、当日の今になって断りの電話を入れる気持ちになれなかった。

 

 「午後1時から。でも、行かなかったら、欠席でいいんじゃない?」ヒフミンは、約束を破るのは、最も悪いことだとおじいちゃんに言い聞かされていた。「ダメだよ。約束は、必ず守らなくっちゃ。よし、まだ時間はある。タクミぐらい、へっちゃらだ。タクミ、ヒフミンにまかしとき」ヒフミンは、西に向かって歩道を歩き始めた。あっけにとられた亜紀は、すぐに後を追いかけた。「ヒフミン、本当に、伊都文化会館までおんぶしてくれるの?」

 

 ヒフミンは、大きな声で即座に返事した。「大丈夫。時間はかかるけど、伊都文化会館までぐらいだったら、へのカッパたい」亜紀は、どうしようもないバカだと思っていたが、この時だけは、ヒフミンが、たくましく思えた。“ヒフミン、ありがとう”と心でつぶやいた。「よかったね、タクミ。ヒフミンって、力持ちね。アキは、おんぶして、死ぬかと思った」ヒフミンは、小さいときから野良仕事をやっていて足腰が強かった。また、小学6年生では、体格が大きい方だった。勉強はからっきしダメだったが、走るのは得意で、校内マラソンでは、いつも1番か、2番だった。

ホッとした亜紀は、ヒフミンのあとに続き歩き始めた。でも、本当に何かの間違いで、拓実がオーディションに出られないことがわかったら、拓実は泣き叫ぶんじゃないかと思った。ヒフミンもがっかりすると思ったが、もういまさら引き返すことはできないように思った。こうなったら、どうにでもなれと開き直った。「ヒフミン、足痛くない。疲れたら、休んでね。時間は、いっぱい、いっぱい、あるから」

 

 ヒフミンにとって、5キロぐらい歩くのは、まったく平気だったが、3歳の子供がオーディションに出られることに疑問を感じていた。「アキちゃん、タクミは、どんな歌を歌うんだ。どんぐりコロコロか?」ヒフミンの知らない歌だと思ったが、即座に返事した。「童謡じゃないの。紅白歌合戦にも出場したことのある高橋真梨子の桃色吐息(ももいろといき)。ヒフミンは、聞いたことないでしょ」AKB48の歌は、聞いたことはあたが、高橋真梨子も桃色吐息も初めて聞いた。

 

 「へ~~、ももいろ、何とかか。タクミも、変わった子供だな~。本当に歌えるのか?俺は、恋チュン、なら歌えるけどな~」亜紀は、内心気が気ではなかった。もし歌うことになって、本当に歌えるのだろうかと心配になった。桃色吐息は、拓実がカラオケでよく歌っていたから、思い付きで書いてしまったが、審査員の前でも歌えるのかと不安になった。その不安以上に、歌も聞いてくれず、即座に追い返されたら、それこそ拓実は泣き叫ぶようで、そのことを思うと、足がすくんできた。

春日信彦
作家:春日信彦
オーディション
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