オーディション

第一次審査のエントリーナンバーが送られてきたことをアンナに話したところ、それは何かの間違い、と鼻で笑われ、すぐに断りの電話を入れるように言われた。亜紀もおそらく何かの間違いだと思い、断りの電話を入れようと思ったが、拓実は絶対出ると駄々(だだ)をこねた。困り果てた亜紀は、歩いて約2時間かかる会場まで、歩いて行くのなら連れて行くと脅したところ、脅しの意味が分からなかったのか、意に反して拓実は歩いて行くと言い張った。拓実はまだ3歳だから、2時間も歩くことはできないと、何度も言い聞かせたが、それでも、行くと言い張って、泣きわめいた。

 

 困り果てた亜紀は、当日、とにかく拓実を会場に連れて行って、アンナに断ってもらおうと考えた。そのことをアンナに言ったところ、「ママに恥をかかせるつもり」と一蹴され、亜紀は途方に暮れてしまった。思い切って断りの電話を入れようと何度も思ったが、拓実の泣き叫ぶ顔を思い出すとどうしてもできなかった。拓実にあきらめさせるには、実際に当日歩かせて、足が痛くなって歩けなくなったときに、あきらめるように説得する以外にないと思った。

 

 オーディションの審査員たちから、拓実が女子に見られるようにピンク色のキュロットスカートを穿かせた。亜紀は、女装した拓実の右手を引いて歩きながら、神様お願いします、どうか拓実が諦めますように、と心でつぶやいていた。スパイダーはいつものように二人の前をキョロキョロとあたりを見渡しながらあちらこちらチョコチョコと走り回っていた。二人は南北に走る公園西側の通りから東西に走る大きな通りに出ると左に曲がり西に向かって歩道を歩いた。

 

左折してから200メートルほど歩くと、拓実が立ち止まった。亜紀は“やった”と心で叫んだ。そして、もう帰ると拓実が叫ぶと思った。拓実が腰を落として叫んだ。「おねえちゃん、おんぶ、おんぶ」亜紀は目を吊り上げた。あの時は、歩くと約束したのに。何がおんぶよ。絶対におんぶなんかしてやるものかと思った。亜紀は大声で拓実を叱った。「何がおんぶよ。歩くって言ったじゃない。歩くのが嫌なら、諦めなさい。もう帰ろう。さあ立って」

 

 亜紀は、拓実の右手をグイッと引っ張ったが、頑として立ち上がろうとしなかった。拓実は、駄々をこねた。「いやだ。おんぶ。絶対、行く。おんぶ、おんぶ」亜紀は心で叫んだ。“この裏切り者、絶対おんぶなんかしてやるものか。”目を吊り上げた亜紀は、何度もたくみの右手を引っ張ったが、それでも、立ち上がろうとしなかった。ついには、ワア~~~ン、ワア~~~ン、と泣き叫び始めた。「おねえちゃんのイジワル。おんぶ、おんぶ」亜紀は、まさかこんな展開になるとは思ってもいなかった。通りすがりの人が見たらいじめていると思われるようで亜紀まで泣きたくなってしまった。

 

 拓実はいったん泣き始めるととことんなく癖があった。しゃくだけど、ちょっとだけおんぶして、あきらめさせることにした。「分かったから、泣くのは、やめて。ちょっとだけだからね。分かった」亜紀が拓実の前で腰を下ろすと拓実はジャンプして背中に飛び乗った。「やったー、レッツゴー。走れー、走れー」亜紀は超ムカついた。何が走れよ、心の底から怒りが爆発すると畑に放り投げてやろうかと一瞬思った。

おんぶして50メートルほど歩くと足首が痛くなってきた。もうここまでしてあげたから、拓実も諦めてくれるだろうと立ち止まり、かがみこみ拓実に訴えた。「もうダメ、おねえちゃん、死にそう」亜紀は、あ~~、と叫び前に倒れた。それでも拓実は、背中から降りようとしなかった。「もう疲れたの。ちょっと歩いただけじゃない。早く起きて。さあ」亜紀もこの言葉には、切れてしまった。亜紀は、グイッと起き上がり、拓実を睨み付けた。

 

 「何、言ってんのよ。あの時、歩くって言ったのは、誰よ。歩くのが嫌なら、諦めなさい。もう、おねえちゃん、帰るから。行きたければ、一人で行けばいいのよ」一瞬しかめっ面になった拓実は、ワア~~~ン、ワア~~~ン、と宇宙の果てまで届くような大声で泣き始めた。その泣き声を聞いてびっくりしたのか、畑で作業していた腰の曲がったおばあちゃんが、杖をつきながらヨッコラショ、ヨッコラショ、と二人のところにやってきた。

 

 「どうしたとね。お腹でも、いたかとね」亜紀は、なんと言って説明したらいいか戸惑ってしまった。拓実は、一向に泣き止まなかった。亜紀は、とっさに叫んだ。「タクミは、歩きたくないだけなんです。歩くと約束したのに。悪いのは、タクミです」おばあちゃんも困った顔をして拓実に声をかけた。「疲れたっちゃろ。少し休んで、歩けばいいたい。どこまで、歩くとね」おばあちゃんは、亜紀に尋ねた。亜紀は即座に返事した。「伊都文化会館まで」おばあちゃんは、身を引いて驚いた。「あらま、あんなとこまで。そりゃ、無理バイ。大人でも、無理バイ。やめときんしゃい」

当初から無理なことはわかっていたが、おばあちゃんに事情を説明する気にはなれなかった。亜紀は、拓実に声をかけた。「ほら、おばあちゃんも無理って、さあ、帰ろう」亜紀は、拓実の右手を引っ張った。拓実は、頑として立ち上がろうとしなかった。「いやだ。いやだ。行く。行って、歌う」亜紀が途方に暮れていると、聞いたことのある男子の声が聞こえてきた。「オ~~イ、アキちゃ~~ん」小太りのヒフミンが手を振りながら駆け寄ってきた。

 

 ハ~、ハ~と息を切らしながら駆け寄ってきたヒフミンは、亜紀に声をかけた。「公園まで、泣き声が聞こえたバイ。なんしょっと?」亜紀は、助っ人がやってきたと思い笑顔で答えた。「タクミが歩きたくないって、泣くのよ。手を引っ張っても、おんぶ、おんぶ、って、動かないんだから。ヒフミン、何とか言って」大柄なヒフミンは、ここから家までだったら、近いからおんぶして帰ってあげようと思った。

 

 「タクミ、おんぶしてやるバイ」ヒフミンは、拓実の前で腰を下ろした。それを見た拓実は、突然笑顔になって、勢いよく背中に飛び乗った。ヒフミンが腰を上げると「ヤッター、レッツゴー。おうまのおやこは なかよしこよし いつでも いっしょに ぽっくり  ぽっくり あるく」拓実は、上機嫌でおうまの歌を歌い始めた。ヒフミンが、踝を返し歩き始めると、拓実が叫んだ。「こっちじゃない。あっち」拓実は、北に向かって指さしていた。

春日信彦
作家:春日信彦
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