夢のネックレス

 じっと耳を傾けていた亜紀だったが、ヒフミンの絶望はどこから来るのだろうかと不思議でならなかった。まだ4年生だし、受験のチャンスは、まだまだある。いったい全体、“もう、来年はない、もう、終わりだ”って、まったく言っている意味が分からなかった。ニコッと笑顔を作った亜紀は、ヒフミンを励まそうと明るい声でハッパをかけた。「ヒフミン、どうしてあきらめるの?どうして受験しないの?ヒフミンは、小学生チャンピョンよ。将棋の天才じゃない。きっと、合格すると思う。将棋バカの意地を見せなよ」

 

 ちょっとムカついたヒフミンは、きりっと目を吊り上げた。亜紀は、何もわかってないくせに、言いたいことを言いやがって、と心で叫んだ。所詮、金持ちには貧乏人の気持なんかわからない、としみじみ思った。「そうさ、ただの将棋バカだ。だから、将棋なんかやめる。これ以上、バカになったら、どうしようもないから。小学校を卒業したら、軍事工場でがむしゃらに働き、将来、立派な工場長になって見せる。これが、僕の夢さ」ヒフミンは、強がりの嘘を並べ立てた。

 

祖父に3歳から毎日指導を受け、4年生で小学生チャンピョンにまでなったヒフミンには、奨励会試験に合格するだけの実力が、十分にあった。でも、もし、受験して合格したなら、入院するお金もなくて、家で寝込んでいる母親を困らせることになるのではないかとヒフミンはひそかに思った。でも、もしかしたら、母親は、受験を勧めてくれるかもしれないと心の底ではほんの少し甘い期待をしていた。

ついに決意を固めたヒフミンは、母親の気持ちを確かめようと7月末の奨励会受験申込締切り間近になった時、病床に臥せている母親の枕元でつぶやいた。「お母ちゃん、奨励会受験するの、やめた」その言葉を聞いた時、母親はほんの少し目を開いてがっかりした顔を見せたが、即座に、鋭い眼差しでヒフミンを見つめると「自分の好きなように、おやり」とバシッと返事した。そして、静かに目を閉じた。

 

母親の瞼の裏には、一心不乱に盤上の駒を見つめる少女の後ろ姿が浮かび上がった。母親も中学生までプロ棋士を目指して必死に頑張っていた。しかし、能力の限界を感じ、プロへの道をあきらめた。だが、あの時、あきらめるべきではなかった、と今でも後悔していた。だから、ヒフミンだけには、そんな思いはさせたくないと陰ながら応援してきた。もし、元気であれば、“甘ったれた根性を叩きなおしてやる”と真剣勝負の対局をしたい思いでいっぱいだった。でも、腎臓病で苦しむ母親には、もはや起き上がる力も残っていなかった。

 

じっと涙をこらえた母親は、ヒフミンをお守りくださいと神に祈ると、力尽きたように一瞬、ほっとした表情を見せた。その表情を見たとき、母親の本心を見抜けないヒフミンは、クルッと母親に背を向け、“あれでよかったんだ、後悔はしていない”、と涙をこらえて心でつぶやいた。部屋に戻ったヒフミンは、母親から譲り受けた大切な将棋盤と駒を部屋の中央に置くと正座して一礼した。

「お母ちゃん、おじいちゃん、お姉ちゃん、ごめんなさい」とつぶやき、将棋盤と駒を燃えないゴミ専用の黄色い袋に押し込み、ガムテープでぐるぐる巻きにしてしっかりと包み込んだ。「今まで、ありがとう」と黄色い袋に包まれた将棋盤と駒に声をかけ、もう一度、深々と一礼した。神様にお供えするように両手でそっと黄色い袋を持ち上げたヒフミンは、勝手口から裏庭に回り込んだ。

 

裏庭に用意していた小さなシャベルを手にすると深さ50センチほどの穴を掘った。ひんやりとした穴の底をしばらく見つめ、「さようなら」と黄色い袋に声をかけるとそっと穴の底に置いた。そして、また、穴の底でこれから眠り続ける黄色い袋をしばらく見続けた。意を決しシャベルを手にしたヒフミンは、ザクッと土をすくい、少しずつ黄色い袋の上に土を流し込んでいった。完全に埋め尽くすと右足で何度もドシドシと踏み固めた。その埋められた穴の上に両足で直立したヒフミンは、両手を合わせ、奇跡を神に祈った。

 

                南の島のおじいちゃん

 

 亜紀は、この夏休みにぜひとも、南の島に住んでいるおじいちゃんに会いたかった。亜紀は、一度も会ったことがなく、電話で話したこともなかった。時々やってくる執事の優しいおじさんにおじいちゃんのことを尋ねてみたが、白髪のイケメンで世界一の金持ちだということぐらいしか話してくれなかった。そんなおじいちゃんのことを時々想像したが、身体はやせ細って、顔はしわくちゃなおじいちゃんの姿しか頭に浮かばなかった。

 夏休みが終わらないうちにどうにかして会いたいと思った亜紀は、さやかがやってくる8月11日、“山の日”の夕食のときアンナとさやかにお願いすることにした。さやかの身体検査は一通り終了していたが、5月初旬に極秘で急きょ入院した会長の看護のため帰宅することができなくなっていた。今夜は、最近なんとなく元気のない亜紀を喜ばすために家族全員でバーベキューをしようと特別に許可を得て帰宅したのだった。午後6時にバーベキューの準備が整い、テラスの前の庭に、アンナ、さやか、亜紀、拓実、ピース、スパイダー、たちは集まった。

 

 アンナは、みんなに声をかけた。「焼けてきたわよ、さあ、食べましょう」アンナは、拓実のために肉を小さく切って口に入れてあげた。亜紀は、よだれを垂らしお座りしているスパイダーの取り皿にお肉を一切れ置き、お肉を食べないピースには、キャットフードをお皿に注いだ。アンナは、腰に手を当て、胸を張って大声を張り上げた。「今日のお肉は、バリ高級佐賀牛よ。お腹が爆発するぐらい食べていいわよ」

 

 亜紀は、ワオ~~と歓喜の声をあげ、尋ねた。「マジ、どこで買ったの?」アンナは、即座に答えた。「前原のフードウェイ。ここのは、はずれがないわね」ペロリとたいらげたスパイダーは、前足でステップを踏んで亜紀におねだりをしていた。「ママ、スパイダーに、もっとあげてもいい?」アンナは、スパイダーのための肉も用意していた。「スパイダーには、これ。まったく、底なしにガッツクンだから」アンナは、スパイダー用の牛肉が盛られたお皿を亜紀に手渡した。

 

春日信彦
作家:春日信彦
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