壊れた月が見る夢の果て~第一章:時の

流真と明士と彩

 聞き慣れた歌のようにしんみりと心を満たすそのうたは、まるでお伽話のようだった。
「あれ……?」 
 目覚まし時計よりも早く目が覚めた明士めいしは、目尻を伝う滴を感じて自分が泣いていると気付いた。
 妙な夢を見た気がする。悲しい。寂しい。それでいて悔しい。内容は覚えていないのに無力感のような余韻だけが残っていた。

 保護された選ばれし者たちは、門番としての力量を審査され候補生となる。 

  候補生として選ばれなかった者たちの行く末は様々だ。制御装置を付けて普通の人間として生きる道を与えられるものや、長城の職員として教育を受ける者。も しくは記憶を消すことで力を失くすことができる者もいる。だが、候補生と選ばれた者たちは教育課の養成所で門番としての知識を叩きこまれることとなるの だ。

 門番の養成所は年に一度しか候補生を受け入れない仕組みになっている。と言うのも、教員たちには別の職務もあるからだ。

  候補生には年度別にそれぞれ呼び名があった。一年生は初年組、二年生は加年組、三年生は修年組、最終段階の四年生は見習いと呼ぶのだ。そして門番の世界で 重要視されるのは、年齢、性別の差別は禁じられていることだ。男であろうと女であろうと、力の大差はないとされていた。

 養成所では、生徒二人もしくは三人に対して一人の教員が担当に就くが、その際振り分けられた生徒たちは、一人前の門番になるまで共同生活を送るチームメイトとなるのが規定だった。

 チームメイトとは、候補生生活を寝食ともに過ごす仲間のことである。もちろん年齢性別の差別はないので、男女混合となる。

 明士のチームメイトは流真と彩である。彼らの寝室には三人分のベッドが川の字に置かれていて、明士は真ん中のベッドを使用していた。ちなみに、生徒たちの部屋は思うほど広くはない。

 入り口を入ると正面に台所と居間があり、居間を抜けた奥には寝室である一部屋だけだ。窓と反対側にある壁は一面クローゼットになっていて衣類などの収納庫となっているが、三人分の衣類となると足りないくらいだ。
 生徒たちの持ち物である衣類や日用品などは長城から支給されている物がほとんどだった。なぜなら、保護された状態の着の身着のままで受け入れられることが多いからだ。後日家族から荷物が送られてくる場合もあるがそんなことは極めて稀であった。 

 明士は、両サイドで眠る二人を起こさないようにと、布ずれの音に気遣いながら緩やかにベッドから滑り下りた。

 まだ春先。朝方は冷え込んだ。

  明士は、髪と瞳の色が藍色の柔和な顔立ちの十七歳の少年だ。成長段階の明士の体はまだ子供臭さが抜けておらず、背も百六十センチを少し超えたくらいだっ た。緩くパーマをかけたようなくせ毛と優しい目元が彼のチャームポイントと言えた。実際、明士は物静かで落ち着いた子供であった。

 明士は 白いTシャツに深緑色のカーディガンを羽織って台所へと向かうと、一人分のコーヒーを用意し始めた。彼は毎朝、チームメイトである二人を起こす役目を担っ ているのだが、流真と彩の起床予定時間はまだ先だ。吐息すらも沈黙を崩す静けさの中で誰にも邪魔をされずに珈琲を飲むこの時間が、明士は何気に好きだっ た。同じ境遇の者がいると感じるだけで、日常的に襲ってくる不安は随分解消されたと思えても、正直なところ男女混合の共同生活には不都合な部分が多いの だ。 

 ――約一時間後。

 寝室内で鳴り響く機械音が彼らに一日の始まりを告げていたが、けたたましい音は鳴り止む気配はなかった。
「流真、彩。そろそろ起きてよ」
 悲しいかな。寝室の入り口から掛けられる明士の声に反応を示したのは彩だけだった。
「んー…………起きるよ~……起きるぅぅぅ~……」
 一方、流真は微動だにしない。

 とりあえず先に彩を起こそうと、明士は彼女の肩を掴んで優しく揺さぶった。
「彩。ちゃんと起きて、もう時間だよ」
「んんん……ちゃんと起きるよ~起きる~……うんん」 
 もそもそと布団が動いた。彩は寝ぼけ眼を手の甲でこする。細い栗色の髪は寝ぐせでぼさぼさだ。

 虚ろな足取りでベッドを下りた彩は水玉模様のパジャマを脱ぎ始める。明士は咄嗟に背中を向けた。

「き、着替え終わってからでいいから、流真も起こしてね」

「わかったぁあ……はふ…」 

 彩は欠伸をしながら返事をした。彼女は明士の三つ年下の十四歳だ。小柄な少女だが身体的には成長途上の女子だった。
 同室になって三ヵ月あまり。彩からは気にする様子は全く感じられないが、男としては戸惑いを隠すのが精一杯といったところだった。男女差別はしないと大声で叫んだとしても、実際男と女は違う。
 流真の起こし役は彩に頼んで、明士は朝食の準備に取り掛かった。

 ベーコンと玉子をかき混ぜる手がぎこちない。

「……」
 顔が熱い。胸もどきどきしてる。緊張していないと言うと嘘になるのを明士は分かっていた。
「――流真~起きて。もう朝だよ~。起きてってばぁ~」
 彩の厭味のない笑顔と子供じみた言動が、明士は可愛いくて仕方がなかった。

 なかなか起きない流真を見かねてか、彩がカーテンを勢いよく開け放った。

「まぶッ!?」

 眩しい光が室内を満たすと、流真は頭から布団を被りこむ。すると彩はにやりと不敵な笑みを浮かべ、勢いよく流真へと飛び掛かった。
「とおぅっ!」
 古い掛け声に思わず明士が笑いをこらえる。
「――いぃぃぃ~っっ!?」
 彩は流真の体をまたがり馬乗りになった。勢いよく布団を剥ぐと黒髪の少年のしかめっ面が現れる。流真だ。深い緑色の瞳が彩をじろりと睨んだ。
「おまえー……重い…また太ったんじゃねーの?」
「なっ!? 何よッ 太ってなんかないもんッ」
 彩はぷぅっと頬を膨らませる。
「いやいやいや……これは明らかに昨日より重い気がす……ふ…ちょ、ちょっと叩くなって…」
 ポカポカ流真の体を叩くと彩は流真の頭を胸に抱え込んで、ぎゅうぅーっと力いっぱい締め付けた。
「いいい、いいたいっ! 痛いってっ! 起きるからっ!! 起きるからっ」
 じたばた手足を激しく動かす流真に彩は全体重をかけて締め上げた。
「あははは。じゃあ、もう失礼なこと言わない? ねえ、言わない?」
「わかったって! 明士ッ 明士ッ!」

「だめよ! 流真はすぐ明士に頼るんだからぁ」

「ちが……本当に苦しいってッ」

 悲痛な叫びが準備体操の終わりを告げている。…が、明士はあえて聞こえない振りをしてかわした。
「ギブッ! ギブアップだってッ 明士早くッ! 窒息しす……る」

「大袈裟だなぁ流真はぁ!」

 彩が体を揺らして流真に負荷を掛けている。 
 明士は鼻歌交じりに調理を済ませると、ワザとらしくさわやかな笑顔で流真救出に向かったが、

「ちゃんと起きないからぁ…………………」

 明士が耳まで真っ赤にして言葉を失った。

「どうしたの、明士?」

 彩がパンツ一丁で流真に載りかかっていたからだ。

 

 

 

 

熱い男、准貴

 教育課管轄の施設は全部で四棟ある。

 その内一つは校舎だが、生徒の集合場所として使われる講堂と校舎の間には、第一、第二棟があり生徒と教員の住まいとなっている。

 第三棟は第一棟と繋がっており、会議室や警備事務局などが設けられていた。
 非常に不思議なことだが、長城の食堂は各地区に一箇所しか存在しない。

 二十四時間稼動しつづける調理場は戦場さながら常に凄まじい気迫で満ちていた。
 遠方の部署の門番たちは食堂へ直行できる独自の通路を利用し訪れるため教育課館内での混雑は見られなかったが、長城には一般の職員も受け入れられているため食堂は特殊回路内ではなく校舎の地下に設置されいた。
 中央区に属する者が一斉に集まる食堂は激烈な争奪戦を繰り広げる場所でもあった。
 そんな騒々しい雰囲気に呑まれることなく、食堂の片隅で悠長に朝食を玩味している者が一人いる。
「葎。ここいいか?」
 目を上げると准貴が盆を片手に立っていた。

 准貴は葎の返事を待たずに向かいの席に着く。すると、葎が露骨に眉間を寄せた。
「……席なら他にもあるじゃないか」
「あらかさまに嫌な顔をするなよ。傷つくだろ」
「そんなやわな心を持っているようには見えないが? ………まぁいいだろう。なんだ? 何か用なのか?」
「一緒に飯食うのに理由がいるのかよ」
 葎の素っ気無い態度に動ぜぬ准貴。葎はぴくりと頬を引きつらせた。
 葎は途中で箸を置いた。食べる気が失せたのだろう。
「……話があるなら早く言え」
 葎が眼鏡越しに准貴を正面から見据えた。葎は話を聞く体勢だ。准貴が朝食を食べかけで終えた。
「その、芳凛のこと、なんだけど…」
 葎が唇を硬く閉じた。やっぱりろくな事じゃない。
「お前は芳凜とチームだったよな?」
「だからなんだ?」
 凄んだわけではないが葎の放つ気質が鋭いものへと変わった。だが准貴の瞳は揺るがない。
「俺は芳凜とチームが組みたい。だから教育課への異動を願い出たんだ」
 准貴のような灼熱熱血タイプの門番が、教員になることはまず少ない。まして現役真っ盛りなのにだ。
「理由を聞いても?」
 訊ねながらも葎は察していた。

 行き詰ったらきっと自分に聞きにくるだろうと。まさか朝一で来るとは思っていなかったが。
「俺は『あの時』の事は噂でしか知らない。だけど、あの日からしばらくはお前とチームを組んでたって聞いて…その、意外だったよ」
 葎が目を伏せた。その訳は聞かずとも分かっていた。
「芳凛が……託真以外の奴と組むと思わなかった」
「そうだな」
 確かに託真は周囲に見せ付けるかのようだった。葎とはまるで正反対の気質の託真。

 葎は今も昔も変わらずひっそりと影から見守る者だ。しかし託真は違った。

 以前、前線の管理官に言われたことがあった。
『託真が太陽なら、お前は月だな』
『月は太陽ほどに目をすがめる強い光はないが、ほのかに照らす優しい月光は癒しを与える』
 昔の事を思い出して懐かしさから葎の口許に笑みが刻まれる。
「―――――――――お前は勘違いしてるだけだ。俺は組んでないよ」
 葎は軽く答えたが、内心では喉元を締め付ける息苦しさに似た感情が込み上げていた。
 嘘ではない。嘘ではないが…
 託真亡き後、葎は芳凜と共に前線へ立ったことがあるのだ。
 異形が湧き出る月の欠ける夜。薄っぺらな月が弱弱しくわずかに照らす明かりの下で、一人で立つ芳凜を見守った。

 ――そう、見守っただけだ。葎は芳凛を止める事ができなかった。あの時ほど自分を情けないと思ったこともなかった。
「無理だよ准貴。お前に芳凜は扱えない」
 沈黙が流れ空気が張り詰めた。
「やってみなきゃわかんねーだろ」
 自信満々に言葉を返す准貴に「無理だよ」と葎が断言した。准貴の拳に力が入るのが見てとれた。
「芳凜はやさしい奴なんだ。だから強い、だから弱い」
 言葉の意味が准貴には分からなかった。まるでお前では芳凜に釣り合わないと言われている気さえした。
「俺は強い。芳凜が『暴走』したとしても止めてみせる」
 威勢はいい。それなりに努力もしてきただろう。葎は額に手を当て俯いた。
「暴走とはまた……ちまたではそういう話になっているのか? はは……なかなか興味深い話だ」
 准貴がむくれ面で葎を睨んだ。
「悪い。別にお前を馬鹿にしてるわけじゃないんだ。そうだな、お前は強い。けど俺もそこそこ強いよ?」
 葎は落ち着いた笑みを浮かべ准貴を直視する。准貴はなぜか、葎に子供扱いをされている気がしてならなかった。
「知ってるさ、そのくらい」
 准貴の経験は彼らに比べれば半分だ。でも年数は関係ない。この世界は実力が物を言う世界だ。准貴の表情が真剣さを増した。
「俺はあいつと組みたいんだ。だからあいつのことを知る必要があると思う」
 准貴が言う『あの日』の出来事は正確に記録されていない。それは誰にも知られないようにと何者かが改ざんしたのか、そもそも『あの日』なんてものは存在しなかったのか。
「なるほど。その意見には同感だな。相手を知らずしてチームは組めない、だが」
「だが、じゃねぇよ。俺は『あの日あの時』のことが知りたいんだ」
「芳凛がお前と組まないのは『あの日あの時』の事が原因ではないよ。それにもう過ぎたことだ」
 そうだ。五年前に過ぎ去ったものだ。
「そりゃ過去かもしれない。でもまだ続いてるかもしれない。そんな気がするんだ。あの直後も門番の任務は続いてたんだろ?」
 葎は軽く訝る目を向けた。
「……人の古傷を抉ってまで何が手に入ると言うんだ?」
 葎に睥睨され准貴は口ごもる。
「――それは………」 
 言葉は准貴の喉の奥で消えた。うまく言えなかった。葎の言っていることは間違いじゃない。だからと言って自分が間違っているとも思えない。そう悩んだ末に決心したのだ。なのに、准貴は急に葎の顔を見るのが辛くなった。
 彼が聞こうとしているのは芳凛の辛い過去の出来事――それは葎も関係している事だ。
 自分だったら――と、准貴なりに何度も考えを巡らせた。足らない頭で彼らの思いに自分を重ね合わせた。

 苦しいだろう。辛いだろう。逃げることもできない世界で、行き場のない悲しみと怒り。

 想像することはできるのに、彼らの心理は理解できなかった。
 全門番に関する記録は調べたが記録上記されていたのは事務的な文字の羅列。
 日常茶飯事に消えいく門番の一人が戦死したとだけ。
 

『戦闘課前線部。託真。死亡確認済み』

 

 託真の生きた証は、最後たった一行で締めくくられていた。

 詳しい死に様も記されていない。どうして死んだのか。なぜ、死ななければならなかったのか。共に戦場へ出た事はなかったが、彼ら三人の名を知らぬ者はいないほどの有名な門番だったのに。
 准貴は最期があまりにも単純すぎると疑問を抱いたのだ。しかも、相方の芳凛は葎と共に教育課への異動を受けたと耳にして問いは疑惑へと変わった。
 強い、なんて一言ではおさまらない門番だった。長けた洞察力に並外れた能力。力量すべてにおいて無敵と称される三人だった。なのに――。
「託 真が死んでお前と組んでなかったのなら、芳凜は一人で戦っていた事になるよな。なんで一人で戦えるんだ? 役割を全部一人で背負うんだぜ? どうやってっ て……そう思ったらもっと知りたくなった。全部背負える強さを持つ門番の事が知りたくなったんだ。最強の門番と言われた歴代ですら、一人で戦った門番はい ないんだ」
 葎は活き活きと喋る准貴に苛立つ気持ちを持ち始めた。
「お前が歴史に興味があったとは初耳だな」
「茶化すなよ。俺はマジで言ってんだから」
 言葉の代わりに葎は微笑んだ。

 そして、誰かが言っていた気がした。


 人の心の中を知るには、それ相応の覚悟と対価がいると。
 心の扉には最初から鍵など存在しないのに、扉が開かないのは開くことを拒む力に勇気が足りないからだと。
 
 葎の笑みが消え彼は席を立った。見上げた准貴は双眸に映る葎を見て思わず息を呑んだ。
 葎の肩越しに揺らぐ空気の流れが見て取れた。彼は怒っているのだろうか。准貴はぞくりとした。心臓を鷲づかみにされる感覚と背筋を通る悪寒に肌が泡立つ。
「お前は人の心の中を知るために何を代償にするつもりだ? ただ知りたい。聞きたい。そんな理由で芳凛の心を乱さないでくれ」
 そう告げると葎が颯爽と立ち去った。准貴は葎を追うことができなかった。
 散々迷った挙句、やっと決心して踏み込んだ領域だったのに。
 古傷を抉ってまで知りたい、そう答える事ができなかった。
『――何を代償に…』
 准貴は居た堪れなくなって頭を抱え込む。
(――葎を傷つけた……ッ)
 彼は芳凛の心を知るために何を犠牲にしたのだろう。そして、彼女を守るために何を代償にしてきたのだろう。

 准貴は自分の思いの強さをちっぽけなものに感じた。
 
 勇気が足りないから、心は鍵を作る。
 それは壊すことも可能なガラスの鍵なのに。
 
 准貴は己の弱さを突きつけられたような痛みを、この時初めて感じたのだ。

プロローグ、三

 ――――熱い。

 

 

 


 体は氷のように冷えているのに、両の手が熱い。
 ――――ここは、どこだ?
 血溜まりの中、濡れた両手は滑稽なほど赤黒く染まっていた。
「……あぁ……」
 自らの手に視線を落とすと、男は震える声で言った。
「………神様…どうか――――」
 記憶から消えてくれない過去の出来事。あの日あの時――真実は闇の中。知る者はガラスの鍵を持っている者だけ。
 『…を守るよ』
 声だけが聞こえる。
『例え……ても…』
 この声は誰のものだったのだろうか?
 
 いつだって夢は望むものを見せてはくれない。

 過去の残像がいつまでも苦しめる。記憶は時として、夢という形で責め続けた。

 だけど『彼女』は選んだのだ。
 孤独という檻に身を潜め、時が過ぎるのを待つこともできたのに。
 どのような犠牲にも目を瞑り、耳を塞ぎ、口から洩れる声を殺すためなら、自ら喉を掻っ切るくらいのこと造作もないことなのに――――だけど。


 誰か、誰でもいい。存在しない神にも祈った。
 翼をもがれた天使が神に慈悲を求めるように、泣きすがり願ったあの時、男は祈った。
『どうか…』
 残された片翼ではもう飛べない。
『どうか…どうか』
 硬く瞑る男の瞳に溢れる涙はなかった。

選ばれし者

 基本、授業は各チームごと決められた場所で始められる事となっているが、生徒たちはぞろぞろと校舎とは別館なる講堂へと向かっていた。
 講堂とは、施設館の建造とは一見違った建物が違和感を覚える古びた木造の建造物だ。
  内装は木目ではなく特殊加工された白い壁面。窓は役目を果たさないよう板で塞がれていて、窮屈さを感じるには十分な場所であり、生徒たちは講堂があまり好 きではなかった。無理もない。講堂は力の抑制ができない生徒たちを集合させるために、何重にも結界が張られている場所だからだ。

 そして今、講堂に集められた十二人の男女は初年組だ。年齢は子供と呼べる者から大人まで様々である。不安なのだろう、彼らは広い講堂内で身を潜めあうように中央に集まっていた。
「彩ちゃん!」
 声の主に彩が振り返ると、色白で細身の男子が立っていた。

 こげ茶色の瞳と同色の髪。詰め襟のシャツにジャケット姿で、長い前髪をヘアピンで横止めにしている。
「おはよう。麻美弥まみやくん」

 彩は首が疲れるほど高く麻美弥を見上げた。チームメイトである流真たちとは違い、麻美弥はモデルのように背が高かった。そんな麻美弥から少し離れた所で、彼のチームメイトであるかい恭啓きょうけいが物静かに立っている。

  三人は流真たちより一つ上の十八歳だ。櫂は、がり勉タイプの黒縁眼鏡を掛けて黒髪に赤眼。恭啓は金髪の青眼でひねた眼差しの少年だった。偶然、趣味趣向が 似ていただけなのか、わざと似せているのかは定かではないが、二人は色違いの服を着て同じ髪型をしていた。ちなみにアニメの美少女キャラクターが描かれた Tシャツを好んで着用している。
「お、おは、おはようっ」
 麻美弥が少しどもった。

「ちょ調子はどう? ほ芳凛先生はきび、きびしいのかな……」

 上手く話せない麻美弥であるが、彩の方は気にした様子はない。

「んー…厳しいけど優しいよ。麻美弥くんの方は?」

 麻美弥の表情がぱあっと明るくなった。
「ぼ、僕の方…いや、先生は初教員らしいけど、わかっ分かりやすくていい先生だよ。よ抑制が、ううまくできなくてもすぐおさ抑えてくれるし……」
「そうなんだーよかったねぇ。私たちもちょっとずつだけど暴走しなくなったよ。ね? 流真」
 彩が振り返って流真たちを見た。

「――」

 流真はちらっと麻美弥を見やるとぷいっとそっぽを向く。お年頃である彼らには肌に合わない相手と付き合う方法が分からないのだろう。すると明士がにっこりと笑いかけた。
「麻美弥くん。准貴先生とうまくやっているならさ。君からお願いしてくれないかな? 僕たちの先生を追い回さないように、ね?」
 麻美弥が苦虫を噛んだような顔をした。生徒の中でも准貴の行動は有名だ。険悪な雰囲気が彼らを包んでいたが、しばらくすると、講堂に爽やかな風が吹き込まれた。出入り口の扉が開かれたのだ。 
「おはよう。皆そろってるかな」 
 葎を先頭に咲矢と鈴音が続いて入る。

 扉が無音で閉まった。すると、閉じられた扉が再び開く。今度は准貴が無言で入ってきた。沈鬱な面持ちで鈴音の隣に並ぶ。
「…ちょっと」
 鈴音は思わず小言を言いそうになってやめた。咲矢が肘で小突いたからだ。
(まぁ…『あの後』だしね…)
 准貴は気付いていなかったが、鈴音は咲矢と一緒に食堂での葎と彼の会話を聞いていたのだ。
「葎先生。今日は何するの?」
 生徒の一人が挙手して訊ねた。十歳の少年である亜樹あきだ。思わずほっぺをつつきたくなるようなぽっちゃりとした体形をしている。濃い紫色の瞳はまん丸で黒髪の天然パーマの愛らしい男子だった。
「時間が来たら言うからね」

 葎が優しく答えると、「はーい」と返した。
 鈴音が横目で准貴を見た。

 燃えるような赤毛の男性は、肩をしょんぼりと落とし元気がない。
「ちょっと! 生徒たちの前でそういう顔はやめてよ。舐められるでしょっ」

 鈴音は小声で注意を促す。

 どんな状況下でも対応できてこそ教員だ。担当教員を師と仰ぐことは、自然な成り行きでもある。稀に尊敬の念を抱かない人格者もいるだろうが、教員は生徒にとって門番の見本とならなければならなかった。
 准貴は鈴音の一言が効いたのか、背筋をぐっと伸ばした。

 九時直前、再々扉が開かれた。
「誰だ、あれ?」
 麻美弥が呟いた。

 芳凛と華艶だ。華艶は一瞬で生徒たちの注目の的になった。
「さぁ、面子はそろったな。始めるとしよう」
 葎の一声で、生徒たちの視線は、入り口を背に横一列に並ぶ教員たちへと注がれ。
「今回、新しい教員が入ることになった。紹介しよう。華艶だ。咲矢が受け持っていた四人のうち、麻雛まびな雛叉ひなさ。君たちは華艶の生徒に変更だ。部屋の方は用意してある。今日中に荷物を運び入れなさい」
 名を呼ばれた二人の女生徒が挙手し「はい」と答えた。

 彼女たちは十五歳の一卵性双生児だった。麻雛はパンツスタイルだが、雛叉はスカートを履いていた。瞳の色が少し違うだけで背格好、髪型なども瓜二つ。共に茶色の髪に茶色の瞳だが、色の濃さが違う。薄い方が雛叉。濃い方が麻雛だ。
 選ばれし者の双子は珍しい。二人で一人の存在。言葉のまま能力的にも半分ずつだった。
「それと、華艶は初教員だから、慣れるまでしばらくの間、芳凛と行動を共にすることになる」
 一斉に生徒たちがどよめいた。

「五人に二人の教員ってこと?」
「それって違う資質とかも教えてもらえるのかなぁ」
「えー俺も受けたい」

 口々に囁かれる不満の声に、鈴音が一喝入れた。
「ちょっと、あんたたちッ! それって担当教員に不満があるってこと!? 見習いにもならない候補生の分際で、別の資質を手に入れようなんて厚かましいにもほどがあるわよ。身の程をわきまえなさいっ」
 甲高い迫力のある鈴音の大喝に大半の生徒たちが怯んだが、一人の生徒が挙手した。

 金髪に金眼の二十歳の青年だ。背は麻美弥よりも低いが長身である。白いカッターシャツを着て袖をまくり上げて大人の雰囲気を出している。名前はしゅん。彼は鈴音の生徒だった。

「……またかよ」
 ぼそっと呟いたのは流真だ。

「先生が見てるよ」

 明士の一言で流真は口を噤む。教員たちへと視線を向けると担当教員である芳凛と目が合ってどきりとした。

(怖ぇ…)

 流真は、彩と二人で泣き叫び芳凛に許しを乞うた時のことを思い出す。口喧嘩だけならまだしも、掴み合いの喧嘩なんてしようものなら、拘束術を掛けられて裏の森に捨てられるのがオチだ。流真は額に浮き出た汗を手の甲で拭う。

「別に担当教員に不満とかあるわけないんです。でも資質の事を言うなら、同じ資質を教えてる先生ならいいんじゃないかと思って」

 葎が舜を一瞥する。

 舜の言葉は、遠まわしに鈴音の教え方に問題があるように聞こえなくもなかった。

「日替わりとは言いませんけど、週代わり月替わりに教員の交替はできないんですか?」

 生徒たちからため息が漏れた。鈴音の表情は険しい。握られた両の手が震えていた。舜はそれをちらりと目に止めると、ほくそ笑んだ。舜は鈴音を毛嫌いしているのだ。

 理由は定かではないが、担当教員である鈴音が女性であり自分より年下に見えるからではないかと生徒たちは思っていた。というのも、日頃から舜の女性であるチームメイトに対しての言動に問題があるからだ。
 本来、門番は何もなければ長命である。個人差はあるが、成人年齢まで差し掛かると成長は非常に緩やかになるのだ。例えに葎をあげると、彼は外見二十代後半だが実年齢は五十歳を軽く越えている。

 となると、鈴音も然り――――なのだが、担当が決まって3ヶ月あまり経った今、舜の身勝手な振る舞いは度が過ぎ始めていた。

 流真も当初は今より短気で喧嘩早く、麻美弥や舜としょっちゅう絡んでいたが、芳凛のスパルタと手綱を握る明士のおかげかずいぶん落ち着いてきた。しかし舜の場合、チームメイトにそれらを求めるのは酷な話だった。
 鈴音の生徒は舜ともう一人、十五歳のまいというおかっぱ頭の少女だ。彼女は赤茶色の髪に黒い瞳をしていて、やや長めの前髪で目を隠すようにいつも下を向いている少女だった。

 誰もが皆、人の顔色、機嫌を窺いながら生きている。所詮は他人。喧嘩をすれば歪みが入るし、一度できてしまった歪みの修復には時間が掛かるだろう。それに、彼らは他人の事を気にかけるだけ自由ではないし、心に余裕がなかった。

 葎の回答を待つ舜の背後から、一人の女性が肩を怒らせ歩み寄る姿が教員たちの目に映った。

 初年組で唯一舜と同年である祥子しょうこという生徒だ。彼女は選ばれし者の中でも極少数の自己申告者だった。

 その祥子が見るに見兼ねたのだろう。祥子は無言で舜の肩を突き飛ばした。

「うぉっ?!」

 舜は勢いあまって二歩前に足が出た。舜は目を剥いて振り返ると食って掛かった。
「何すんだよッ……」

 仁王立ちする祥子の迫力に一瞬で怯む舜。祥子はドスの効いた声で一喝する。
「……さっきから黙って聞いてりゃ調子に乗って……好き勝手言ってんじゃないよ!!」

 教員たちが瞬きをした。

「あんたは単に鈴音先生が自分より年下だから嫌なだけだろ。それを遠まわしにねちねちと…いやらしいったらありゃしない。セコイ言い方なんかせずにはっきり言えばいいだろーがッ」
  祥子は口は悪いがさっぱりとした性格で面倒見がよく、まさに姉御肌の女性だ。男性のように刈り上げられた短い髪は、黒と赤のまだら色に染められて本来の色 は灰色だった。ミニスカートに豊満な胸元を強調するような露出度の高い洋服を着ていた。身長はヒールを履いているせいで舜より少し高く、威圧感がある。
「そっそう言うお前は何なんだよ! 自分の格好を鏡で見ろよ。化粧なんかして男の気を引こうとしてるくせに! そっちの方がいやらしいんだよ、ばーかッ!」
 確かに祥子の化粧は濃い。それは他の生徒も同感だった。

 しかし、それが何だ? 祥子の化粧の濃さは誰にも迷惑はかけていない。 
「ばかはあんたの方だよ。自分で言ったことに気付いてないだろ。ここは誰しも認める差別のない門番の世界だよ。そんなこと思うこと事態おかしいんだ」
 舜は黙ったまま祥子を憎悪に満ちた眼で睨んだ。どうやら墓穴を掘ったことに気付いていないようだ。
「あんたねぇ――…」

 祥子は眉間にしわを寄せた。すると、

「そのくらいにしておきなさい」
 彼女の担当教員である咲矢が祥子をいさめた。

「――…はーい」 
 まだ言いたらない様子だったが、祥子は咲矢に従って舜から離れる。しかし、恥をかかされたと感じているであろう舜の方は収まるはずがない。鬼の形相で祥子を睨んでいた。
 葎がため息まじりに口を開いた。
「まったく……また困ったねぇ…」 
「僕は祥子が言うようなこと思ってませんっ!!」
 舜は躍起になって言い返した。

「僕の何がダメだって言うんです! 祥子の方がよっぽど」

 葎が薄く苦笑した。
「それはどうだろうね。普段から君の言動には掟に触れる部分があるのは事実だよ。そうなると私の立場上、君に懲罰を与えなければならなくてね」
「懲罰!? そんなの横暴じゃないですかッ」

 裏返った声で舜は言い募る。だが葎は首を傾げた。
「横暴?」
「そうですよ。先に突っかかってきたのは祥子なの……にッ?!」
 舜は何かに引っ張られるようにいきなり前のめりになり床に叩きつけられた。
「ぐあッ!」 
 しこたま体を打ちつけ、舜はそのまま動けなくなった。胸を押さえつけられ声も出せない。
 周囲は突然のことに驚いて舜から離れた。
 一体何が起こったのか。

 舜が道端で潰れたカエルのように打っ伏している。なんとか頭を上げた目の先に葎の靴先が見えて、舜はぎょっとした。見下ろされる紫眼を全身で感じて彼は慄いたのだ。
「密かに言うとね、――――時には体罰も必要だと戦闘課の連中にはうるさく言われるんだよ。でも私は手荒な真似はできるだけしたくないんだ。君には私の言いたいことがわかるかな?」
 葎が身を屈め舜を眺める。

 彼は怒っているのだろうか。生徒たちにはそれすら分からなかった。というのも、葎が彼らの前で感情を出すことはないからだ。

 高姿勢な葎の気を受けて、舜以外の生徒たちの顔色も青ざめていた。
「確かに初年組の中では君が最年長だ。だがね、君はこの世界では生まれたての赤子同然なんだよ。守られているからこそ、今の君があるんだ。なんなら実証してみようか? 今ここで、君の息の根を止めることが造作もないことだと」
 葎の声は、骨の髄まで叩き込まれるような低い響きを持っていた。鼓動が喉元で高鳴るのを感じながら、舜は床に張り付いたまま聞いている。
「―――…」 
 全身に絶え間なく掛かり続ける重圧は、緩むことなく舜を縛り続けた。冷や汗が肌を通し着衣を湿らせる。様子を窺う教員たちは葎を止める素振りも見せない。恐怖が舜を支配していた――――が、
「葎……もういいわ。止めてちょうだい……」
 鈴音が助け舟を出した。

 鮮やかな金の瞳が揺れている。鈴音の顔には疲労の色が濃く影を落としていた。
 舜の反発はいつものことだ。彼は自分にちょっと恥をかかせてやる、くらいの軽い気持ちで言ったのだろうと鈴音は思った。
「やれやれ……命拾いをしたな舜。これが可年組の教員なら誰も止めないよ」
 四年間の修業期間は、前期の二年間と後期では教員が替わる。もちろん留年もあり、生徒の素行の悪さは問題行動とあげられる。それらは当然、担当教員の責務怠慢となり、懲罰の対象になるのだ。
 だから教員たちは手を抜けないし、生徒を甘やかさない。容赦なくビシバシしごく。それに、舜は鈴音の手に余る生徒だった。
「………わかってるわ。ごめんなさい。私の責任よ」
  葎は舜を戒めるとともに、鈴音に対しても忠告をした。
 言葉を繋ぐことは簡単だが、矯正することは難しい。力でねじ伏せる事も時には必要なのだと。

 ぬるま湯に浸かったままでは、いつまで経っても熱いとは何なのか知ることもない。

 門番の世界はそんな生温い世界じゃない。刃向かうならそれなりに力を付けてということをその身に覚えさせなければ、この世界では生きていけないのだ。
 「いいかな、生徒諸君。性別・年齢差別に対する考え方を改めてくれ。本来なら独房行きの懲罰に当たる事だからね」
 脅迫ともとれる忠告だった。葎が立ち上がると舜に掛けられた重圧が解けた。他の生徒たちのほっと胸を撫で下ろす。
  床に伏したままの舜に、鈴音が声を掛けた。
「舜、立ちなさい」
 鈴音の命令に舜は素直に応じた。呼吸が乱れ足元がふらついている。今にも倒れそうだ。
 舞がそんな舜を気遣い横から手を差し出したが、彼はそれを振り払った。
「……ご、ごめん、なさい…」 
 舞は払われた手をもじもじさせ、舜の後ろに下がった。物悲しそうな目を床に落とす。その様子を咲矢が横目で見て呟いた。
「葎、もう十分じゃないの」
「ああ、そうだな」
 葎は准貴を見た。
「えぇ? あ、あぁいいぜ。一通り見たからな」
 どうやら『誰か』が分かったようだ。

 次いで芳凛と華艶にも視線を送る。彼らは無言で頷いた。
「そうだな…少し休憩を入れようか。三十分後各自教室へ行くように。では解散」
 

 

 ◇◇◇

 

 

 生徒全員が講堂から出たあと、教員たちは輪になり話し合いを始めていた。

「とりあえず二人か。私は隔離することを提案するが皆はどうだ?」
 葎が問う。鈴音が重い口を開いた。
「そうね……しばらく『鎖』で様子を見るしかないわ。自我を保てていることから見て、まだ中盤には入ってないと思うし……今落とせないことはないけどリスクは高いわね」
「そうだな…仕方ないか」
 話についていけない准貴が誰にともなく訊ねた。
「様子を見てどうするんだ? 呑まれたら最後だろ。悠長に様子をみてる場合なのか?」
「呑まれないように『鎖』をつけて抑えるのよ」
 鈴音が答えた。

 『鎖』とは門番の力の根源になる基本資質の力の一つの事だった。

 選らばれし者たちは皆、生まれつき資質を持っている。基本資質は全部で四つ。ノリスは攻撃を主とし、ハザードは防御を。スノウは治癒、イベラが拘束だった。
 資質は一人につき一つではない。生まれつき複数持っている者もいれば、訓練などで他の資質の力を得る者もいる。だがそれはしゅとする基本資質を使いこなした上で可能となるのだ。
 准貴の資質はノリスだ。鍛錬によりハザードも使えた。戦闘課ではこの二つが使えれば十分だと言われていた。というのも、スノウやイベラは特殊な力で医療課が管理しているからだ。戦場には派遣という形で医療課の門番を送り込んでいるのだった。
「でも医療課への報告はどうする?」
 咲矢が葎の指示をあおった。
「まぁ……二人となると未報告では済まんだろうな。ばれたときうるさいし」
 進行する話に納得いかない様子で准貴が詰め寄った。
「ちょっと待てよ。抑えてその後どうするんだよ」
残影ざんえいが弱るのを待って抜き出す方が生徒への負担も少ないからな」
 残影――とは、異形のものが狙った獲物につける印のようなものだった。一見小さな傷痕や痣のように見える印である。印とは異形の分身とも言われていた。残影に憑かれた者は、内側から徐々に体を奪われていき、最後には心を砕かれ魂を喰らわれてしまうのだ。

 ただ人ではない選ばれし者の魂は異形のものにとってはかなりの美味であり、力を与えるとされている。ゆえに、戦う術を持たない選ばれし者たちは恰好のまととなる。
「弱るのを待つって………そんなのいつまでだよ」 
 隔離された生徒はそれだけで精神的ダメージを受ける。それ以上に彼らを苦しめるのは、チームメイトに遅れをとるという事。遅れを取り戻すことができればいいが、できなかった場合は留年扱いだ。
「期間はわからない。でもね、准貴。この段階で無理に引き離すと、生徒の命に関わるわ。私たちの仕事は、生徒を四年間で仕上げることではないのよ。優先すべきは生徒の命。たとえその結果…彼らが傷付いたとしてもよ。体面は天秤にかけるに値しないわ」
 命あっての物種――そんなこと百も承知だった。担当教員の自分がいち早く気付いていれば、こんな結果にはならなかったのではないか。准貴は初めて自分が責務を怠っていたことに気付いた。
 初期の段階で気付いていたら…? 生徒は隔離されずに済んだかもしれないんじゃないか?
 自分が芳凛にうつつを抜かしていたばかりに、こんな事態を招いたんじゃないか? 

 准貴は自責の念にかられた。
「悪い……俺がもっと―――」
「仕方ないわよ。私たちだって四六時中、生徒を見張れるわけじゃないんだし。まあ、言い訳にしか聞こえないだろうけど」
 鈴音が肩を落として言った。

 残影に憑かれている生徒は准貴と鈴音の生徒なのだ。
「おいおい、これじゃあまるで通夜だな。この世の終わりみたいな顔するんじゃない。問題は何も解決していないだろうが」
 葎がしょぼくれた二人を叱責した。
「ごめんなさい。葎も色々大変なのに…」

 と、鈴音は涙声だ。

「鈴音。これが私の役割だよ。気にすることはない」
 こくりと鈴音は頷いた。
「とりあえず、だ。二人の生徒は第三医務室へ連れてきてくれ。それと咲矢」
「医療課の方なら申請しておくわ」
「頼んだよ」

 

 ◇◇◇


 教員たちが立ち去ったあと、葎は一人講堂で考え事をしていた。
 葎は時々ひとり講堂に来ることがある。頭の中を整理するにはこの場所が一番集中できた。
 床に片膝を立て座り込むと、自然と笑みがこぼれた。
(まったくもって、考えることが多すぎて笑えてくるな……)
 葎は、深呼吸すると瞼を下ろした。

 静寂がしんみりと心に染入る。
 生徒のことは何とかなるだろう。自分ひとりで背負うものではないし、准貴もようやく教員としての最低限の自覚ができたことだし、鈴音には咲矢が付いている。となると、やはり気掛かりなのは芳凛と華艶のことだった。
 戦闘課総監である大樹が連れてきた少年。芳凛はなぜ、華艶をそばに置くのか。
「……っと、あぁ…元老員の所も行かなくちゃな」
 どうせ、もう耳には入っているだろうけど。
「菓子折りの一つでも持っていくか…」 
 大樹は目的があって華艶を連れてきたはずだ。でなければ、華艶が存在する意味がない。そう思うと、葎の頭は少し軽くなった。
「ん? もしかしたら、新たな情報が引き出せるかもしれないとか……」

 在り得る話だ。元老員の情報量は半端ではないからだ。


 

糸倉万葉(いとくらかずは)
壊れた月が見る夢の果て~第一章:時の
3
  • 0円
  • ダウンロード

9 / 22

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント