壊れた月が見る夢の果て~第一章:時の

戦闘課総監・大樹

 戦闘課総監補佐官――の悠里ゆうりという男は、上官である大樹総監の手となり足となりよく動きよく気がつくと好評の補佐官だった。

 ぞんざいな上官の身代わりに頭を下げた事は数知れず、血の気の多い戦闘課の門番たちに可愛がられ、時にはセクハラめいた仕打ちにもひたすら耐えてきた強者つわものだ。それも総監のためを思い、涙を堪え血を吐く業務を超えてきたのだった。
「――それを………それを貴方って言う人はッ 恥を知りなさいっ!!」
 怒り心頭。もはやその言葉は軽く飛び越えていた。


 悠里の愛想のいい幼顔が鬼の形相と変貌し、荒げる高い声音は大樹に限らず周囲にいる者の耳朶を突き刺した。勢いは留まることを知らず容赦なく罵倒は続く。
「実務を放ったらかしにしてふらふらと何処へ行ったのかと思いきや、別部署にのこのこやってきて迷子になった挙句、葎管理官のお手をわずらわせるとは何事ですか! 常日頃、総監としての振る舞いをお願いしているのにも関わらず、れいさんとの約束を破った上に代わりに僕が謝罪に向かっている隙にとんずらした先が教育課なんてッ! 情けなさすぎて涙もでませんよっ! おかげで麗さんの怒りは収まらず、僕は明日から前線に立つことにまでなったんですよ!? 貴方のせいでッッ!」
 それは、胸を打つような悲痛な叫びだった。
 怒涛の如く浴びせられる叱責に大樹は床に正座をして、悠里の怒りが収まるのをじっと待っていた。
 麗とは中央前線の管理官の事だ。気性の激しい女性ではあるが、気骨があり部下の信頼も厚い。しかし麗もまた大樹さながらの横暴さを備えていた。

 彼女を怒らすとは身の程知らずもいいところ。地獄の河を見たという者は後を絶たないほど、怒らせると手がつけられないと名高いのだ。
「……上官がだらしないと、部下は大変ね」
 鈴音が声を落とし呟いた。

 会議室に集まった教員一同は、悠里に深い同情を寄せていた。教育課は働き者の管理官のおかげで部下も自分の仕事を着々とこなせるのだ。
「…でもまぁ……麗さんの所から無傷で戻れるなんて悠里もすごいわね」
 尊敬の念を表明したのは咲矢だ。皆が深く共感の意を表し頷いた。それにしても――非常に迷惑極まりない。
「ねぇ……言っちゃ悪いけど別室へ移ってもらえないの?」
 こっそり鈴音が誰にともなく問うた。悠里の怒号に包まれた室内で教員たちは身を寄せ合い協議しているのだ。

 入り口は悠里と大樹が占拠しているため、教員たちが移動しようにも身動きが取れない状況になっていた。
 葎がこめかみを揉みながら答えた。 
「言える状況か? 火に油を注ぎかねん。出来る限り、いや、はっきり言って巻き添えは食いたくない」
「そうだけど……。ねぇ、あんたちょっと言ってきてよ。ちょうどいいじゃない」
 話を振られたのはひと際目立つ真っ赤な髪に燃えるような瞳の男――今、長城全土で話題の人物、准貴だった。Tシャツに短パン姿でかなりラフな格好をしている。しかも足元はなぜかビーチサンダルだ。
「えええぇぇええッ?! ななななん、なんで俺なんだよっ!」
 意外な展開に准貴は素っ頓狂な声を上げた。それに一体何がちょうどいいのかさっぱり分からない。
「だって、ついこないだまであんたの上官だったんでしょ? 私たちよりずっと話しやすいじゃないの」
「とんでもないっ!」
 准貴は躍起になって反論した。誰だって命は惜しい。
「無理だって!! とばっちり食うの目に見えてるじゃんかっ」    
「なによ根性なしね」
 そういう問題じゃない。普段大人しい者ほど怒らすと手が付けられないのだ。

 准貴は何を思い出したのか「おそろしやおそろしや」とぶつくさ言い、小刻みに体を震わせた。よほど恐ろしい出来事を体験したのだろう。しかし、鈴音は冷たく言った。
「役に立たないわねー」
 彼女は准貴が気に入らないようだ。
 神妙な面持ちで皆が黙り込む中、会話に加わる気がないのか、芳凛は一人窓際で煙草を吹かしていた。そこでふいに、鈴音が思い出したように話題を変えた。
「ねぇ話が変わるんだけど、生徒の中でちょっと気になる子がいるのよ」
 皆の視線が鈴音に向けられる。芳凛は知らん顔であらぬ方を見ていた。
「芳凛、聞いてる?」
 鈴音の呼び掛けに「ああ」と答え、
「私の生徒じゃない」
 他はどうでもいいのか。

 鈴音は仕方なしに准貴は話を振る。
「あんたが受け持つ生徒よ」
「え? マジで?」     
 無責任な奴ばかりだ。鈴音の口から深いため息が出た。
「気付いてないの? 馬ッ鹿じゃないの!」
 准貴に対して攻撃的な発言をする鈴音に、咲矢が注意した。
「鈴音そんな言い方はだめよ」

「んん……だって…」
 押し黙った鈴音の肩越しに芳凛がぬっと顔を出した。芳凛が近付く気配を感じていなかった鈴音は驚いて身を固める。
「他の生徒たちの影響も気になる。一度集合させてみたらどうだ?」
 珍しく芳凛が会話に入ってきて一同瞬きをする。

 実のところ、芳凛も自分の生徒ではないとはいえ少し気になっていたのだ。近すぎて気づかない事もあると思い提案したのだが、教育熱心な鈴音とは正反対の芳凛からの申し出に、准貴は唖然と口をあんぐり開けた。
「確かに、鈴音の言い分にも一理あるな」
 葎が芳凛を後押しする。
「そうね…。自分が受け持っている生徒だと慣れすぎて気付かない場合もあるだろうし」
 咲矢が納得したところで、葎が締めくくった。
「じゃあ、明日の朝一で講堂に集合してくれ。それと、華艶はしばらく咲矢と一緒に行動させようと思っているんだけど、どうかな?」
 鈴音が速攻で答えた。
「私たちはいいわよ。でも元老員げんろういんたちにはどう説明するの? あいつらの口は簡単には塞げないわよ」
 葎は返事に窮した。
 元老員とは、長年に渡り功績を挙げた者の引退後の役職名だ。

 各部署に数名ずつ配置されており、可愛い後輩たちの善き相談相手になり、時には助言を行い、時には災いを成すと見なせば容赦なく総務課へとチクる。体は動かさずとも口は達者に動き、伊達に年は得ておらず、洞察力に優れ目聡く人の弱みを握る技をもつ厄介者の集まりだ。
 元老員独自に持つ情報網を用いて裏の裏まで全てを知り得る大きな目と、長い耳を持っていると噂されていた。
(――どうしたものか。あの手八丁口八丁の年寄りどもめ。なまじ年寄りに違いはないから扱いにくいったりゃありゃしない)
 年齢的な問題で能力は低下しても門番は門番だ。しかも実務経験は半端じゃないから、さすがの葎も口がたたないのだ。
「あの爺さん婆さんか……」
 頭痛がする。葎が目をぎゅっと閉じ腕組みをした。
(あぁ~、厄介事が盛り沢山…)
 お腹いっぱい胸いっぱいだ。 
「力づくで……なら説き伏せる自信はあるんだがね。事を荒げたくないのも事実だな」
 問題の中心となる華艶は、芳凛の横顔をぼんやり眺めていた。芳凛は無意識に華艶と一定距離を保っている。そのことに華艶は気付いていた。
 初めて芳凛を目にした時の感覚が、胸のうちでくすぶっている。

 そんな華艶と芳凛の様子を、葎は視野の端で窺っていた。
 異質な気を纏う子だと感じているのは葎だけではないだろう。鈴音や咲矢は医療の感覚で悟っているかもしれない。葎もまた、その理由に心当たりがあった。
(…たぶん――だろうな…) 
「しっかし、あれで総監というから笑えるわね」
 鈴音が軽蔑するように言った。

 悠里の説教を受け続ける大樹に、皆の視線が集中する。威信に欠けるどころの話ではない。
「そんな言い方すんなよ。今はちょっと格好悪いけど、大樹総監はすごい人なんだよ」

 ちょっと? かなり格好悪いだろ。
 准貴は皆から巻き付くようなじと目を受けたじろいだ。
「…しっかしまぁ――いつ終わるんだろな…あれ」 
  悠里の怒りは絶頂に達している。その勢いが収まる兆しは見られなかった。そんな時、さすがというべきか、咲矢が大きく手を打ち鳴らした。
「さ、お開きとしましょう!」
  悠里がはっと我に返ると、何を思ったのか大樹の襟首をガッシリ掴んだ。
  教員たちが呆然とする中、大柄な大樹を強引に引っ張ると、葎の前で直立不動の姿勢をとる。
「大っ変申し訳ありませんでしたっ!!」 
 真横に大樹を正座させ深々と頭を下げる悠里。張本人の大樹は悪ぶれる様子もなく、大袈裟だなぁとぼやいた。
  悠里のギラリとした眼光が大樹を射抜くと、その頭を容赦なく押さえつける。
「貴方も謝るんですよ!」
「何で――おぅっ!?」
 頭が床にぶつかっても、悠里はぐいぐい擦りつけた。日頃の鬱憤うっぷんが溜まっているのだろうか。
「……」  

 あり得ない光景に准貴は絶句した。

 開いた口が塞がらない。すごい人だと言った自分が急に恥ずかしくなった。
 葎は人当たりのいい笑顔で、まぁまぁと、悠里をなだめる。
「悠里さんも大変でしょう。私たちは慣れてますからあまり気になさらず。こんな総監ですが、どうか見捨てないでやってください」
 面の皮が厚いとはよく言ったものだ。

 大樹は腹の底から思った。
 なぜか感銘を受けた悠里は涙ぐんで、葎の手を両手でがっしりと握り締める。
「葎管理官! 僕は貴方を尊敬します。上部の者がなんと言おうと僕は、僕は貴方の味方でありたいですっ いえっ味方ですから!!」
  いやいや…それこそ大袈裟な…。とは口にせず、葎は「ありがとう」と、短いお礼を述べた。
  上部の者が何とか…あたり若干引っ掛かりを感じたが、葎はその場の空気を読んで悠里の手をぐっと握り返した。

 爽快な作り笑顔もそろそろ限界に近付き掛けた頃、悠里は大樹を引き連れ去った。

 ようやく訪れた静けさに安堵しかけたその時。今度は芳凛が突飛なこと言い出した。「

「華艶は私が預かる」    
 びっくり仰天。

 状況が読めず立ち尽くす四人にお構いなく、芳凛は颯爽と華艶の手を引きその場を離れた。まさに嵐の後のなんとやらだ。一方的な申告に、ギクシャクと鈴音が話を振った。
「あぁ……えっと……よかっよかったじゃない! ねぇ咲矢?!」
「え?! あ、そそうね。芳凛なら元老員も文句言わないだろうし。これで一つ解決したわね、葎」
 咲矢は鈴音に振られた話を葎へと流した。だが葎は無言で受け止める。
 芳凛らしいと言えばいいのか、悩むところだった。
 話の趣旨が掴めない准貴が葎へ問うた。
「なんで芳凛ならいいんだ?」
「ああー…。芳凛は元老員の受けが良くてね」
 葎が涼しげに答えると、准貴は信じ難いといった顔をした。
「無愛想に見えるけど、芳凛はご老体に優しいから」

(やさしいってなんだ…!?) 
 追い打つその一言で、准貴の中の芳凛の秘密が増えたのは間違いなかった。 


  

 

               ◇◇◇ 

 


 太陽が地底へと身を沈め月光が仄かに闇夜を照らした。今宵は上弦だ。

 ほろほろと零れるような月の滴は、人の心を浮き上がらせる。

 静寂が夜を包み心の闇を蠢かす時を刻んでいた。
「―――貴方の思惑通りに事が運ぶと思ったら大間違いですよ」
 戦闘課総監室に戻った悠里が大樹と相対していた。大樹は悠里に背を向け窓辺に立つ。
「さぁ、わからんぞ? 来年の今頃は肩を並べて仲良く月見してるかもしれん」
 午後八時。戦闘課の門番の動く時刻だ。
「まったく……貴方っていう人はどこまで腹穢いんです。良心ってものはないんですか? 散々こき使った挙句使えなくなったらポイと捨てて、今更都合よすぎますよ」
 会話は冷静に進められた。だが、傍若無人な上司の振る舞いは今に始まったことではない。
「再利用してるだけだろ。エコだエコ」
 悠里が額に手を当て嘆息する。
「驕りがすぎると不運を招きますよ、総監」

 大樹が高らかに嗤った。
「不運か。ははっ そんなもんクソくらえだな」
「今回も言っておきますが、僕を巻き込まないでくださいね。貴方と心中する気は毛頭ありませんから」 
「何を言う。本当は俺の事が好きでたまらんくせに」
 おどけた口調の大樹だったが、悠里は流されることなく丁寧に厭味を返した。
「ばかな子ほど可愛いとはよく言ったものですが、僕はばかな子は嫌いなんです」
 悠里は目許に微笑を刻んだ。
 好きでたまらないとまでいかないが、嫌いでは、ない。

 この男に惹かれたのは事実だった。そして今もまだ惹かれ続けている。
 強靭な肉体と精神を兼ね備え悠然たる立ち姿は、凄烈な戦いを越えて来た武人の如く威厳に満ちていた。その陰でどれほどの人たちが苦水を飲まされてきたことか。確実に自分もその中の一人だと思うのに、離れる気持ちにならないから不思議だった。
  ――憧れ? 尊敬? 
 そんな軽い言葉では表現できない感情だった。
『闇に呑まれず、輝き保つ月の虜になった神様――』
 もしかしたら、そんなお伽話の神のように月に魅了されたのかもしれない。
「――それにしても、葎管理官にはほとほと頭が下がりますよ」 
「あぁ~葎か。アイツには気をつけろよ、悠里。アイツは俺に匹敵する腹黒さを持ってるからな」
「……ご自分で腹黒いと思っているのはどうかと思いますけど。でも僕は結構彼が好きですよ。貴方とは違って純粋に彼女を想ってるし」
 悠里の表情が翳った。そう。彼はきっと純粋すぎる。だから危険。だから恐い。だから。
「葎は託真と違って優しいからな」
 大樹は低い声で笑った。
 瞼を伏せるといつだって浮かぶ面影は、忌まわしき緑眼りょくがんを持つ一人の少年だった。
 自分が運命の歯車を狂わせたというなら、壊したのは一体誰だろうか。
 大樹は神妙に眉をひそめた。瞼をあげると鼻先に悠里の顔があり、大樹はぎょっとして思わず仰け反った。
「なな、なんだっ」 
 悠里は憮然たる面持ちで、大樹の双眸を睨みつけた。
「物思いにふけるなんてガラにも無いことしないで下さい。貴方の辞書に後悔という文字は無いんでしょう? 奪った命がどれほど重くても貴方に懺悔は許されない」
 そしてすべて見てきた自分もだ。
「貴方がしたら、僕もしなければならないでしょうが」
「でも、託真を殺したのは俺じゃないぞ」
「でも、そうさせたのは貴方ですよ」
 今宵は上弦の月。戦場では今もまた誰かが命を落としているかもしれない。
「ん――そうかもしれんが、そうでないかもしれん」
「は? 何わけのわからない事を言ってるんですか。責任転換は見っとも無いですよ」
「いやいや、転換じゃなくてな……」
 意味深に言葉を残すと、窓辺から見える月へと目を馳せた。 
 

 


 闇夜に際立つ光を放ち、闇を更に引き立てる月。
 吸い込まれた者が見る夢は儚げだ。
 闇を衣にまとい、行く先は世界の果て。
 扉の前で月は夢を見る。
 闇を纏いし一人の門番、選ばれし者。
 己が運命に逆らい月を闇に封じた。
 それは悲しいくらい歪な月だった。
  
 

流真と明士と彩

 聞き慣れた歌のようにしんみりと心を満たすそのうたは、まるでお伽話のようだった。
「あれ……?」 
 目覚まし時計よりも早く目が覚めた明士めいしは、目尻を伝う滴を感じて自分が泣いていると気付いた。
 妙な夢を見た気がする。悲しい。寂しい。それでいて悔しい。内容は覚えていないのに無力感のような余韻だけが残っていた。

 保護された選ばれし者たちは、門番としての力量を審査され候補生となる。 

  候補生として選ばれなかった者たちの行く末は様々だ。制御装置を付けて普通の人間として生きる道を与えられるものや、長城の職員として教育を受ける者。も しくは記憶を消すことで力を失くすことができる者もいる。だが、候補生と選ばれた者たちは教育課の養成所で門番としての知識を叩きこまれることとなるの だ。

 門番の養成所は年に一度しか候補生を受け入れない仕組みになっている。と言うのも、教員たちには別の職務もあるからだ。

  候補生には年度別にそれぞれ呼び名があった。一年生は初年組、二年生は加年組、三年生は修年組、最終段階の四年生は見習いと呼ぶのだ。そして門番の世界で 重要視されるのは、年齢、性別の差別は禁じられていることだ。男であろうと女であろうと、力の大差はないとされていた。

 養成所では、生徒二人もしくは三人に対して一人の教員が担当に就くが、その際振り分けられた生徒たちは、一人前の門番になるまで共同生活を送るチームメイトとなるのが規定だった。

 チームメイトとは、候補生生活を寝食ともに過ごす仲間のことである。もちろん年齢性別の差別はないので、男女混合となる。

 明士のチームメイトは流真と彩である。彼らの寝室には三人分のベッドが川の字に置かれていて、明士は真ん中のベッドを使用していた。ちなみに、生徒たちの部屋は思うほど広くはない。

 入り口を入ると正面に台所と居間があり、居間を抜けた奥には寝室である一部屋だけだ。窓と反対側にある壁は一面クローゼットになっていて衣類などの収納庫となっているが、三人分の衣類となると足りないくらいだ。
 生徒たちの持ち物である衣類や日用品などは長城から支給されている物がほとんどだった。なぜなら、保護された状態の着の身着のままで受け入れられることが多いからだ。後日家族から荷物が送られてくる場合もあるがそんなことは極めて稀であった。 

 明士は、両サイドで眠る二人を起こさないようにと、布ずれの音に気遣いながら緩やかにベッドから滑り下りた。

 まだ春先。朝方は冷え込んだ。

  明士は、髪と瞳の色が藍色の柔和な顔立ちの十七歳の少年だ。成長段階の明士の体はまだ子供臭さが抜けておらず、背も百六十センチを少し超えたくらいだっ た。緩くパーマをかけたようなくせ毛と優しい目元が彼のチャームポイントと言えた。実際、明士は物静かで落ち着いた子供であった。

 明士は 白いTシャツに深緑色のカーディガンを羽織って台所へと向かうと、一人分のコーヒーを用意し始めた。彼は毎朝、チームメイトである二人を起こす役目を担っ ているのだが、流真と彩の起床予定時間はまだ先だ。吐息すらも沈黙を崩す静けさの中で誰にも邪魔をされずに珈琲を飲むこの時間が、明士は何気に好きだっ た。同じ境遇の者がいると感じるだけで、日常的に襲ってくる不安は随分解消されたと思えても、正直なところ男女混合の共同生活には不都合な部分が多いの だ。 

 ――約一時間後。

 寝室内で鳴り響く機械音が彼らに一日の始まりを告げていたが、けたたましい音は鳴り止む気配はなかった。
「流真、彩。そろそろ起きてよ」
 悲しいかな。寝室の入り口から掛けられる明士の声に反応を示したのは彩だけだった。
「んー…………起きるよ~……起きるぅぅぅ~……」
 一方、流真は微動だにしない。

 とりあえず先に彩を起こそうと、明士は彼女の肩を掴んで優しく揺さぶった。
「彩。ちゃんと起きて、もう時間だよ」
「んんん……ちゃんと起きるよ~起きる~……うんん」 
 もそもそと布団が動いた。彩は寝ぼけ眼を手の甲でこする。細い栗色の髪は寝ぐせでぼさぼさだ。

 虚ろな足取りでベッドを下りた彩は水玉模様のパジャマを脱ぎ始める。明士は咄嗟に背中を向けた。

「き、着替え終わってからでいいから、流真も起こしてね」

「わかったぁあ……はふ…」 

 彩は欠伸をしながら返事をした。彼女は明士の三つ年下の十四歳だ。小柄な少女だが身体的には成長途上の女子だった。
 同室になって三ヵ月あまり。彩からは気にする様子は全く感じられないが、男としては戸惑いを隠すのが精一杯といったところだった。男女差別はしないと大声で叫んだとしても、実際男と女は違う。
 流真の起こし役は彩に頼んで、明士は朝食の準備に取り掛かった。

 ベーコンと玉子をかき混ぜる手がぎこちない。

「……」
 顔が熱い。胸もどきどきしてる。緊張していないと言うと嘘になるのを明士は分かっていた。
「――流真~起きて。もう朝だよ~。起きてってばぁ~」
 彩の厭味のない笑顔と子供じみた言動が、明士は可愛いくて仕方がなかった。

 なかなか起きない流真を見かねてか、彩がカーテンを勢いよく開け放った。

「まぶッ!?」

 眩しい光が室内を満たすと、流真は頭から布団を被りこむ。すると彩はにやりと不敵な笑みを浮かべ、勢いよく流真へと飛び掛かった。
「とおぅっ!」
 古い掛け声に思わず明士が笑いをこらえる。
「――いぃぃぃ~っっ!?」
 彩は流真の体をまたがり馬乗りになった。勢いよく布団を剥ぐと黒髪の少年のしかめっ面が現れる。流真だ。深い緑色の瞳が彩をじろりと睨んだ。
「おまえー……重い…また太ったんじゃねーの?」
「なっ!? 何よッ 太ってなんかないもんッ」
 彩はぷぅっと頬を膨らませる。
「いやいやいや……これは明らかに昨日より重い気がす……ふ…ちょ、ちょっと叩くなって…」
 ポカポカ流真の体を叩くと彩は流真の頭を胸に抱え込んで、ぎゅうぅーっと力いっぱい締め付けた。
「いいい、いいたいっ! 痛いってっ! 起きるからっ!! 起きるからっ」
 じたばた手足を激しく動かす流真に彩は全体重をかけて締め上げた。
「あははは。じゃあ、もう失礼なこと言わない? ねえ、言わない?」
「わかったって! 明士ッ 明士ッ!」

「だめよ! 流真はすぐ明士に頼るんだからぁ」

「ちが……本当に苦しいってッ」

 悲痛な叫びが準備体操の終わりを告げている。…が、明士はあえて聞こえない振りをしてかわした。
「ギブッ! ギブアップだってッ 明士早くッ! 窒息しす……る」

「大袈裟だなぁ流真はぁ!」

 彩が体を揺らして流真に負荷を掛けている。 
 明士は鼻歌交じりに調理を済ませると、ワザとらしくさわやかな笑顔で流真救出に向かったが、

「ちゃんと起きないからぁ…………………」

 明士が耳まで真っ赤にして言葉を失った。

「どうしたの、明士?」

 彩がパンツ一丁で流真に載りかかっていたからだ。

 

 

 

 

熱い男、准貴

 教育課管轄の施設は全部で四棟ある。

 その内一つは校舎だが、生徒の集合場所として使われる講堂と校舎の間には、第一、第二棟があり生徒と教員の住まいとなっている。

 第三棟は第一棟と繋がっており、会議室や警備事務局などが設けられていた。
 非常に不思議なことだが、長城の食堂は各地区に一箇所しか存在しない。

 二十四時間稼動しつづける調理場は戦場さながら常に凄まじい気迫で満ちていた。
 遠方の部署の門番たちは食堂へ直行できる独自の通路を利用し訪れるため教育課館内での混雑は見られなかったが、長城には一般の職員も受け入れられているため食堂は特殊回路内ではなく校舎の地下に設置されいた。
 中央区に属する者が一斉に集まる食堂は激烈な争奪戦を繰り広げる場所でもあった。
 そんな騒々しい雰囲気に呑まれることなく、食堂の片隅で悠長に朝食を玩味している者が一人いる。
「葎。ここいいか?」
 目を上げると准貴が盆を片手に立っていた。

 准貴は葎の返事を待たずに向かいの席に着く。すると、葎が露骨に眉間を寄せた。
「……席なら他にもあるじゃないか」
「あらかさまに嫌な顔をするなよ。傷つくだろ」
「そんなやわな心を持っているようには見えないが? ………まぁいいだろう。なんだ? 何か用なのか?」
「一緒に飯食うのに理由がいるのかよ」
 葎の素っ気無い態度に動ぜぬ准貴。葎はぴくりと頬を引きつらせた。
 葎は途中で箸を置いた。食べる気が失せたのだろう。
「……話があるなら早く言え」
 葎が眼鏡越しに准貴を正面から見据えた。葎は話を聞く体勢だ。准貴が朝食を食べかけで終えた。
「その、芳凛のこと、なんだけど…」
 葎が唇を硬く閉じた。やっぱりろくな事じゃない。
「お前は芳凜とチームだったよな?」
「だからなんだ?」
 凄んだわけではないが葎の放つ気質が鋭いものへと変わった。だが准貴の瞳は揺るがない。
「俺は芳凜とチームが組みたい。だから教育課への異動を願い出たんだ」
 准貴のような灼熱熱血タイプの門番が、教員になることはまず少ない。まして現役真っ盛りなのにだ。
「理由を聞いても?」
 訊ねながらも葎は察していた。

 行き詰ったらきっと自分に聞きにくるだろうと。まさか朝一で来るとは思っていなかったが。
「俺は『あの時』の事は噂でしか知らない。だけど、あの日からしばらくはお前とチームを組んでたって聞いて…その、意外だったよ」
 葎が目を伏せた。その訳は聞かずとも分かっていた。
「芳凛が……託真以外の奴と組むと思わなかった」
「そうだな」
 確かに託真は周囲に見せ付けるかのようだった。葎とはまるで正反対の気質の託真。

 葎は今も昔も変わらずひっそりと影から見守る者だ。しかし託真は違った。

 以前、前線の管理官に言われたことがあった。
『託真が太陽なら、お前は月だな』
『月は太陽ほどに目をすがめる強い光はないが、ほのかに照らす優しい月光は癒しを与える』
 昔の事を思い出して懐かしさから葎の口許に笑みが刻まれる。
「―――――――――お前は勘違いしてるだけだ。俺は組んでないよ」
 葎は軽く答えたが、内心では喉元を締め付ける息苦しさに似た感情が込み上げていた。
 嘘ではない。嘘ではないが…
 託真亡き後、葎は芳凜と共に前線へ立ったことがあるのだ。
 異形が湧き出る月の欠ける夜。薄っぺらな月が弱弱しくわずかに照らす明かりの下で、一人で立つ芳凜を見守った。

 ――そう、見守っただけだ。葎は芳凛を止める事ができなかった。あの時ほど自分を情けないと思ったこともなかった。
「無理だよ准貴。お前に芳凜は扱えない」
 沈黙が流れ空気が張り詰めた。
「やってみなきゃわかんねーだろ」
 自信満々に言葉を返す准貴に「無理だよ」と葎が断言した。准貴の拳に力が入るのが見てとれた。
「芳凜はやさしい奴なんだ。だから強い、だから弱い」
 言葉の意味が准貴には分からなかった。まるでお前では芳凜に釣り合わないと言われている気さえした。
「俺は強い。芳凜が『暴走』したとしても止めてみせる」
 威勢はいい。それなりに努力もしてきただろう。葎は額に手を当て俯いた。
「暴走とはまた……ちまたではそういう話になっているのか? はは……なかなか興味深い話だ」
 准貴がむくれ面で葎を睨んだ。
「悪い。別にお前を馬鹿にしてるわけじゃないんだ。そうだな、お前は強い。けど俺もそこそこ強いよ?」
 葎は落ち着いた笑みを浮かべ准貴を直視する。准貴はなぜか、葎に子供扱いをされている気がしてならなかった。
「知ってるさ、そのくらい」
 准貴の経験は彼らに比べれば半分だ。でも年数は関係ない。この世界は実力が物を言う世界だ。准貴の表情が真剣さを増した。
「俺はあいつと組みたいんだ。だからあいつのことを知る必要があると思う」
 准貴が言う『あの日』の出来事は正確に記録されていない。それは誰にも知られないようにと何者かが改ざんしたのか、そもそも『あの日』なんてものは存在しなかったのか。
「なるほど。その意見には同感だな。相手を知らずしてチームは組めない、だが」
「だが、じゃねぇよ。俺は『あの日あの時』のことが知りたいんだ」
「芳凛がお前と組まないのは『あの日あの時』の事が原因ではないよ。それにもう過ぎたことだ」
 そうだ。五年前に過ぎ去ったものだ。
「そりゃ過去かもしれない。でもまだ続いてるかもしれない。そんな気がするんだ。あの直後も門番の任務は続いてたんだろ?」
 葎は軽く訝る目を向けた。
「……人の古傷を抉ってまで何が手に入ると言うんだ?」
 葎に睥睨され准貴は口ごもる。
「――それは………」 
 言葉は准貴の喉の奥で消えた。うまく言えなかった。葎の言っていることは間違いじゃない。だからと言って自分が間違っているとも思えない。そう悩んだ末に決心したのだ。なのに、准貴は急に葎の顔を見るのが辛くなった。
 彼が聞こうとしているのは芳凛の辛い過去の出来事――それは葎も関係している事だ。
 自分だったら――と、准貴なりに何度も考えを巡らせた。足らない頭で彼らの思いに自分を重ね合わせた。

 苦しいだろう。辛いだろう。逃げることもできない世界で、行き場のない悲しみと怒り。

 想像することはできるのに、彼らの心理は理解できなかった。
 全門番に関する記録は調べたが記録上記されていたのは事務的な文字の羅列。
 日常茶飯事に消えいく門番の一人が戦死したとだけ。
 

『戦闘課前線部。託真。死亡確認済み』

 

 託真の生きた証は、最後たった一行で締めくくられていた。

 詳しい死に様も記されていない。どうして死んだのか。なぜ、死ななければならなかったのか。共に戦場へ出た事はなかったが、彼ら三人の名を知らぬ者はいないほどの有名な門番だったのに。
 准貴は最期があまりにも単純すぎると疑問を抱いたのだ。しかも、相方の芳凛は葎と共に教育課への異動を受けたと耳にして問いは疑惑へと変わった。
 強い、なんて一言ではおさまらない門番だった。長けた洞察力に並外れた能力。力量すべてにおいて無敵と称される三人だった。なのに――。
「託 真が死んでお前と組んでなかったのなら、芳凜は一人で戦っていた事になるよな。なんで一人で戦えるんだ? 役割を全部一人で背負うんだぜ? どうやってっ て……そう思ったらもっと知りたくなった。全部背負える強さを持つ門番の事が知りたくなったんだ。最強の門番と言われた歴代ですら、一人で戦った門番はい ないんだ」
 葎は活き活きと喋る准貴に苛立つ気持ちを持ち始めた。
「お前が歴史に興味があったとは初耳だな」
「茶化すなよ。俺はマジで言ってんだから」
 言葉の代わりに葎は微笑んだ。

 そして、誰かが言っていた気がした。


 人の心の中を知るには、それ相応の覚悟と対価がいると。
 心の扉には最初から鍵など存在しないのに、扉が開かないのは開くことを拒む力に勇気が足りないからだと。
 
 葎の笑みが消え彼は席を立った。見上げた准貴は双眸に映る葎を見て思わず息を呑んだ。
 葎の肩越しに揺らぐ空気の流れが見て取れた。彼は怒っているのだろうか。准貴はぞくりとした。心臓を鷲づかみにされる感覚と背筋を通る悪寒に肌が泡立つ。
「お前は人の心の中を知るために何を代償にするつもりだ? ただ知りたい。聞きたい。そんな理由で芳凛の心を乱さないでくれ」
 そう告げると葎が颯爽と立ち去った。准貴は葎を追うことができなかった。
 散々迷った挙句、やっと決心して踏み込んだ領域だったのに。
 古傷を抉ってまで知りたい、そう答える事ができなかった。
『――何を代償に…』
 准貴は居た堪れなくなって頭を抱え込む。
(――葎を傷つけた……ッ)
 彼は芳凛の心を知るために何を犠牲にしたのだろう。そして、彼女を守るために何を代償にしてきたのだろう。

 准貴は自分の思いの強さをちっぽけなものに感じた。
 
 勇気が足りないから、心は鍵を作る。
 それは壊すことも可能なガラスの鍵なのに。
 
 准貴は己の弱さを突きつけられたような痛みを、この時初めて感じたのだ。

プロローグ、三

 ――――熱い。

 

 

 


 体は氷のように冷えているのに、両の手が熱い。
 ――――ここは、どこだ?
 血溜まりの中、濡れた両手は滑稽なほど赤黒く染まっていた。
「……あぁ……」
 自らの手に視線を落とすと、男は震える声で言った。
「………神様…どうか――――」
 記憶から消えてくれない過去の出来事。あの日あの時――真実は闇の中。知る者はガラスの鍵を持っている者だけ。
 『…を守るよ』
 声だけが聞こえる。
『例え……ても…』
 この声は誰のものだったのだろうか?
 
 いつだって夢は望むものを見せてはくれない。

 過去の残像がいつまでも苦しめる。記憶は時として、夢という形で責め続けた。

 だけど『彼女』は選んだのだ。
 孤独という檻に身を潜め、時が過ぎるのを待つこともできたのに。
 どのような犠牲にも目を瞑り、耳を塞ぎ、口から洩れる声を殺すためなら、自ら喉を掻っ切るくらいのこと造作もないことなのに――――だけど。


 誰か、誰でもいい。存在しない神にも祈った。
 翼をもがれた天使が神に慈悲を求めるように、泣きすがり願ったあの時、男は祈った。
『どうか…』
 残された片翼ではもう飛べない。
『どうか…どうか』
 硬く瞑る男の瞳に溢れる涙はなかった。

糸倉万葉(いとくらかずは)
壊れた月が見る夢の果て~第一章:時の
3
  • 0円
  • ダウンロード

8 / 22

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント