てつんどの独り言 その2

第四章( 8 / 31 )

仮想難民 3.11

 

 実は僕は、3.11の東日本大地震から、間一髪、強運にも逃れた一人だ。

 本当に被災された方々には、申し訳ない気持ちもある。

 

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<二月堂の桜>

 

 311日、僕は仙台にいた。

 

 売りに出していたマンションに買い手がついて、2月末に契約し、311日が最終引き渡しの日だった。だから、地震の当日は仙台にいたのだ。

 

 前泊で仙台に入り、その夜、今度はいつ来るかわからないからと、友達が仙台に来ると良く連れて行っていた、三陸産の素晴らしい牡蛎の盛り合わせを食わしてくれる店を訪ねていた。

 

 志津川、松島、奥松島の三種類の牡蛎を盛り合わせた皿を前に、シャブリのよく冷えたグラスを手に、店の主人と話していた。

 

 やはり、森が牡蛎を育てているのだという。僕は、大ぶりな志津川のものより、形は一番小さいけれど、深い海の味がする奥松島の牡蛎が気に入って、シャブリのグラスの数が増えていた。すばらしい夜だった。

 

 翌朝、つまり3月11日の午前10時、僕は登記証書を買主さんに引き渡すため、不動産屋さんの事務所に座っていた。司法書士さんの立会いの下で、書類を渡し、何枚もの紙にハンコを押し、何枚もの領収書にハンコを押し、何枚もの書類を受け取った。

 

 金の送金のために、買主さんの取引銀行にみんなで移動し、約束の金額が振り込まれたのを確認して、マンションの鍵と権利書をその銀行で引き渡した。僕は、入金の確認のために、僕の取引銀行まで行って入金を確かめた。これで、引き渡しは完了だった。

 

 引き渡しの手続きは、午前中いっぱいは掛かると踏んで、僕は14:26の「はやて」を予約していた。終わって、不動産屋さんにありがとうと言って仙台駅に向かって歩き出して、時計を見たら11時半だった。小雪が舞い始めていた。

 

 こんな半端な時間、使いようがないなと思って、駅に着いて調べたら、12:26の「はやて」に空席があった。これに乗ろうと、すぐ変更した。

 

 「はやて」は12時半ごろ、僕を乗せて東京に向かった。

 

 東海道線で横浜へ。そこから京急。戸部から日ノ出町に向かう途中で電車が急ブレーキで止まった。がたがた、電車が揺れた。それが大地震だった。14:46だった。

 

 あとは帰宅難民。電車に閉じ込められ、結果、線路を歩いて地上に降り、横浜駅まで行って、いつものホテルを尋ねてみたがもう満杯。駅のコンコースに段ボールを敷いてたくさんの人が座り込んでいた。その中に僕もいた。

 

西区が設けてくれた、岡野中学の避難所でTVでしか見たことのなかった光景を体験し、翌朝、4時半にタクシーを捕まえて金沢に帰ってきた。

 

本当に強運で横浜まで帰ってくることができた。2時間の差が、せっかちの、たまものだとも言われている。

 

 しかしそのあと、TVに映し出される避難民の方々、福島原発の惨状などを見ながら、自分も東京電力の計画停電で生活がぶち切られたりしているうちに、精神的には難民になっていった。

 

 昔、あこがれていた奈良にでも移住しようかと思った。せっかちはネットで奈良のあるマンションを見つけた。行ってみようと思った。

 

 TVでは、連日、故郷を離れることを、“NO”と言い続けるお年寄りたちが写る。見るたびに、安心なところがあれば、移住してもいいのでは…と思っていた。

 

 しかし、ちょっと違っていた。

 

 東海道新幹線に乗って、大山、丹沢、富士山を見ながら進んでいると、もし奈良に住めば、こういう世界から切り離されるのだとの思いがジワリと湧いてきた。

 

 年取ってからの新しい場所での生活って、本当は過酷なのではないか。引っ越したばかりの新居で、お袋さんを亡くした知人たちのことを考えてたら、そう思えてきた。

 

 新しい環境に置かれたら、懐かしさが、きっとこみあげてくるに違いない。例えば、

 ・故郷を離れて、慣れない新しい場所での生活への不安

 ・社会的環境、近隣、友達と離れることへの不安

 ・知り合いを失う悲しさ

 ・気心の知れた店たちからの隔離

 

 ふと、それは僕にとっても同じことではないかと思い始めた、奈良での生活を選べば。

 

 生まれて住み慣れた場所、親しんだ場所である東京、横浜を簡単に吹っ切れるかということだ。なんだか懐かしくなって、僕もメゲルかもしれないと思はじめた。

 

 例えば、

  ・東京の谷中、上野、日暮里、浅草

  ・新宿の横丁、恋人と会っていたポルシェ、御苑、渋谷、宮益坂、

  ・銀座、浜離宮、箱崎、六本木

  ・小石川の植物園、サンシャインの池袋、瀬田

などなどが、ものすごい勢いで胸を駆けあがってきた、いっしょにそこに存在した友達たちのフラッシュバックとともに。

 

 もしかすると、奈良に篭るのは、僕にとって、精神的に深いところで、かなり深刻な問題ではないのかと気が付いた。やはり、いくらなんでもせっかちすぎる。

 

 奈良の地は、花真っ盛り。枝垂桜、木蓮、こでまり、菜の花が咲いていた。

 

 結局、奈良のマンションに引っ越すことを放棄して、東京・横浜への思いを吹っ切れず、仮想難民は横浜に戻ってきた。

 

 横浜は、好きなコブシが散って、新しい葉が芽吹いていた。放射能が横浜まで来てもへっちゃらさ、とうそぶいている。

 

 

P.S.

震災後、買主さんと連絡が取れ、ご本人、ご家族、買っていただいたマンション、すべて無傷でした。ホッとしています。

第四章( 9 / 31 )

斑鳩・三塔めぐり

 

 二年ぶりくらいになるだろうか、奈良を訪れるのは…。大震災の後、奈良にでも住んでみようかと奈良のマンションを下見に行って以降、初めてだから…。

 

 今回は、30年くらい訪れていない斑鳩の早い春を歩いて、斑鳩の三つの塔をゆっくり眺めたかったのだ。

 

 行く前に、斑鳩町観光協会に電話して、菜の花の咲く時期は何時ごろだろうかと聞いて、3月の中旬を選んだ。

 

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<法起寺>

 

 僕の頭の中にある斑鳩の春は、菜の花に囲まれた畑中の小道を、ゆっくり歩いていくと、背後に法隆寺の五重塔がせりあがってきて、中宮寺からの自分の歩みを確認することになる。そして、法輪寺の三重の塔が小道の先に現れてくる。右の方を少し意識してみると、これまた、法起寺の三重塔がかすかに見える…。こんな入江泰助の写真にありそうな絵の斑鳩だ。

 

 こんな斑鳩を、歩けるうちに歩いておこうと決めたわけだ。

 

 もともと僕は、法隆寺、そのものには魅力を感じたことは無くて、中宮寺への通過点という感じで存在している。勿論、百済観音は見落としてはならない。これは僕にとっての法隆寺の唯一の美しいものであるのだから。他に強いて言えば、今は無い焼け落ちた金堂の、天平の壁画の美しい天女の優しさくらいだろうか。他には、この寺には僕をひきつけるものはない。僕の頭の中にある天平のおおらかさがないのだ。

 

 築地塀を見ながら玉砂利の道を中宮寺に向かう。ここは、僕の好きな御仏のいらっしゃる場所だ。行ってみるとどこか様子が違う。大きな堂を池の真ん中に立てて、その中に弥勒菩薩さまはいらっしゃるようだ。以前はこんな大仰な感じではなかったと記憶がささやいてくる。

 

靴を脱いでお堂に上がると、以前より高い、遠い場所にいらっしゃる。しかも、暗い照明で、お姿やお顔が判然とはしない。愕然。もっと、身近に感じることのできた小柄な仏だったと記憶しているのだが…。

 

暗いから、目を凝らして美しさを想像するということになる。こんな接し方で、弥勒菩薩さまは、本当にいいのかと疑問がわいてくる。そういえば、法隆寺の百済観音も照明が暗すぎて、目鼻立ちがよく見えなかった。半眼のお姿だと、寺のものが答えてくれたけれど、その辺まで見る者に見せる照明であっても悪くはあるまい。

 

 中宮寺を出て、法隆寺を見帰って、もう再び来ることはないだろうなと思いながら、小道を法輪寺の方に白壁の間を歩み始める。

 

 しかし、中宮寺の集落を離れても、法輪寺の塔も法起寺の塔も見当たらないのだ。田んぼや畑には、たくさんの住宅が建て込んでいて、背の低い三重塔なんかは見えないという状況なのだ。急に元気を失くした僕。さらに悪いことに、法隆寺の方を振りかえってみても、法輪寺の方角を探しても、全く菜の花畑は見当たらない。殺風景な田の中の住宅と舗装された道が続く。わざわざ観光協会に電話して、確認していたのに、菜の花畑は見当たらない。さらに疲れが襲ってきた。

 

 法輪寺の塔が見えてきたとき、やっと探し物が見えたという感じだった。これが現実の姿なのだと、がっかりしてしまった。もう、昔のように、三つの塔が見られる場所なんて存在しない。仕方がない。

 

 バスの出る法隆寺門前までの4キロ強の行程を全部歩けるかどうか、自信がなかったから、事前に横浜で調べておいた斑鳩のタクシー会社に法輪寺への配車をお願いした。帰るにしても、法起寺は見ておきたかったので、法起寺に寄ってもらった。運転手さんも、「以前は三塔が見える場所があったのですが…」と、すまなさそう。ちょっと残念な斑鳩の三塔めぐりだった。

 

 それだけだはつまらないから、翌日、唐招提寺と秋篠寺を訪ねた。

 

 ここには、僕の期待を裏切らない天平の世界があった。唐招提寺は、風の通り抜けるエンタシスの美しい丸みが、のびやかな屋根のカーブがあった。

 

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 <唐招提寺>

 

 秋篠の邑には、これも美しいカーブの御堂の屋根。伎芸天さまは、まったく変わらず、天平の最高の美女として、微笑まれていた。

 

 この二つで、もう奈良に来てよかった、元は取れたと思った。

 

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<修二会>

 

 最後の夜、二月堂の修二会のお松明と、興福寺の阿修羅像で、元は取れたどころか、

こうやって奈良に来て本当によかったと満足して、京都へと旅立った。

 

 ひどい事が一つあった。それは、花粉。盆地の奈良故なのか、大量の花粉で僕のデリケート(?)な肌は、赤く腫れ、酔っぱらったような顔になって、横浜に逃げ帰ってきた。

第四章( 10 / 31 )

浅草・煮込み通り

 

深川・猿江の古い寺に用事があって、梅雨らしい霧雨の中を出掛けた。用事がすんで、北の方を見ると、霧にあたまを隠したスカイツリーがぼんやりと見えた。

 

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<浅草 煮込み通り>

 

今日はいつもより、少しは人の出が悪いだろうと、スカイツリーの工事が始まったころから避けていた浅草を、久しぶりに歩いてみようかという気になった。

 

何時だったか、ツリーの下半分が出来た頃に浅草に行ったら、吾妻橋の上は写真を撮る人、人、人。うんざりして、新仲見世に入ったら、何時もの浅草とは違う、またしても人、人、人。浅草も変わって来たなぁと思いながら、もうちょっと浅草には来れないなぁと思ったのは去年。

 

地下鉄を下りたら、霧雨は依然として降り続いている。都営地下鉄浅草駅は、僕の心臓君の具合など、全く考えて作られてはいないから、エレベーターを探して地上に出たら、もう駒形橋だ。駒形どぜうの店よりもっと遠い。

 

並木の藪蕎麦の前を歩いて、雷門に向かう。藪を試してみようかと思ったけれど、残念、今日は休ときた。あとは、いつもの十和田しかそば屋は知らない。長浦という店もあるけれど、永年お世話になっている十和田に入ることになる。店の前に、やげん掘りの店が出来たこともあって、ここまで戻った。

 

十和田の店も、少し様子が違う。何だか大きな朱色の鉢を前に、お客が蕎麦を食っている。顔がすっぽり隠れるほどの塗の蕎麦の入れ物で、天ぷらで蕎麦を囲んだように盛り付けられていた。いかにも、観光客向けのメニュー。

 

ちょっと嫌だなという気がして、ざる、一枚で、お勘定にした。蕎麦も、もうせんとちがって、白っぽく、蕎麦の味が薄くなったようだ。代が変わったようで、おばあちゃんの姿が見えない。スカイツリーの影響が味にまでやって来たようだ。

 

仕方がない。観音様にお賽銭を投げ込んで、花やしきを通って、いつもの飲み屋、鈴芳へ。

 

ここは、もう学生のころから通っているから、ウン十年だ。最初は、屋台に毛が生えたような、小さく、汚そうで、ちょっと入りにくい感じの店だった。ここの良いところは、近くに場外馬券売り場があって、予想の新聞を片手に男どもが昼間から酒をのんでいたから、昼間から酒が飲める店だった。

 

今は、女性客も増えて、雰囲気は変わった。変わっていないのは、古い方のおかみさん。愛想は無いけれど、客をちゃんと覚えているのが分かる。若いおかみは、そんな気配はない。いつもの、生レモンハイと、モツ煮、カシラ、タンの焼き物とおしんこを頼む。今日は雨だから、客が少ない。

 

雨の中、透明なビニールテントの下でタバコの煙を避ながら、変わらぬ味を楽しんだ。

 

そう、ここでは心にひっかかる体験をした。

 

もう45年前になるだろうか。一人で飲んでいたら、隣に中年の男性の二人組の先客がいて、けっこう大きな声で話していた。否応なく耳に入ってくる言葉に、オヤッと思わせる言葉が出る。キーワードはこうだ。

 

・DV(ドメスティックバイオレンス)

3人男の子

・有名国立大学出の役人から外資系のホテルマンに転身

・神戸へ単身赴任と現地での女性関係

・東京のホテルに支配人で戻ってきた

・カミさんがDVの被害者

・カミさんが精神疾患状態

・カミさんが最近まで長いこと実家へ帰っていた

・住まいは千葉 実家は大阪

・話題の男の人は心臓疾患

・男の人の最近のバイパス手術

 

どうも、話している男の大学の同期生の友達の話らしい。

 

じつは、僕の知っている人の中に、まさにそんな状況の人がいる。

Gさん。確信は、最近のバイパス手術だった。

 

キーワードが10個以上、一致するって、なかなか考えにくい。きっと、Gさんの家の話に違いないと思ったのは無理からぬこと。心に残った。

 

その時、もし話している人の相手がトイレにでも立ったら、隣から話してみようと思ったくらいだ。いくらなんでも、そんなにたくさんの類似点があるケースなんてないはずだ。しかし、二人は僕が居る間中、その話をしていた。もう一人の人は、話題になっている人を知らないようだ。

 

大学のボート部の話になって、僕は切り上げることにして、お勘定とおかみさんに頼んだ。何気ない飲み屋の会話。こんな偶然もあるんだと思った鈴芳だった。今日は、霧雨の中の昼酒、少し、酔って帰ってきた。

 

そういえば、この数年、Gさんの状況は聞こえてこない。何かあったのかもしれない…。

第四章( 11 / 31 )

イタリアのスローライフについて考える

 

2001年の日本・イタリア年から始まったイタリア・ブームは、一度その温度を下げたけれど、最近またブームのようだ。

 

イタリアはこの13年間、変わっただろうか? 答えは、もちろん変わっただ。そして、日本の中におけるイタリア観もかなり変わってきていると思う。

 

スローフード、スローライフなどのイタリア原産の言葉も定着してきたようで、日本の生活の表現の中でも使われている。つまり一般化したわけだ。特定の事象をさして話されるということではなくなったようで、それは良いことだろう。

 

スローフードについて書いてみようと思う。

 

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<スローフード協会>

 

書こうと思わせたのは、BS日テレの「小さな村の物語 イタリア」だ。数少ない僕の好きなテレビの番組の一つ。もう何年も見続けている。それは生のイタリア語を聞きたいとの思いからのスタートだった。

 

しかし、いつか、その番組に現れるイタリアの田舎の今日的な生活に対する羨ましさに、ハマッテしまった。今では、見逃すと残念…という気になる。

 

日テレという局は、地上波ではつまらないことばかりやっていて、見たい番組は全くない。昔ながらのアクの強い、お笑いを売りにしているからだ。

 

しかし、BS担当役員は賢明なのだろう。他のテレビ局に先駆けて、「小さな村の物語 イタリア」という質の高い番組に作くった。そこでは、地理学的な田舎への旅と、そこに暮らすイタリア人のリアルな物語をうまく組み合わせて、見る者の心をとらえている。

 

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<ちいさな村 イタリア>

 

単にテレビカメラを、その田舎に持ち込むだけではなく、そこに住む人の営みを鮮やかに浮かび上がらせてくれる。きっと、事前のロケーション・ハンティングが素晴らしいのだろうと思う。そして、それは外国のテレビクルーとしては、とても難しいことだとも思う。

 

小さな村は簡単に見つかるだろうけど、そこに住むイタリア人の家庭の物語を引き出すには、大変な努力が必要だろうと思うからだ。

 

この番組を見ていて、昔、スローフードという言葉について、日本スローフード協会のエッセイスト、NSさんと議論したことを思い出した。

 

NSさんは、ローマのスペイン階段の前にできたアメリカのマクドナルドのファースト(早い)フードに対して、イタリア伝統の手間のかかる、つまりスロー(ゆっくり)な食べ物として、スローフードという言葉を位置づけて講演を始めた。

 

それを聞いた僕は、僕はまったく違うスローフードの定義を信じていたから、講演後の公開Q&Aで、そのことを訊いた。彼女は、ネーミングについて、従来通りの答えを出した。僕は納得しなかった。逆に、後述する本を読むことをお勧めした。

 

僕の知っている定義は、イタリア人の書いたエッセイ集の中に在った。それは、マクドナルドの問題が起きた1980年代よりもっともっと前の、第二次大戦のイタリア軍の食事から始まっている。(参照:「アモーレ・ディ・ヴィーノ」ファブリッツオ グラッセッリ著200112月 トラベルジャーナル発行)

 

イタリアは、第二次世界大戦でドイツのヒットラーと組んで、ムッソリーニの指導のもと、ヨーロッパを戦火に染めていった歴史がある。

 

この大戦のイタリア軍の食事は、乾燥パスタと、カンズメのスゴ(スパゲッテイーソース)が主だった。簡単に軍隊を賄うことが容易だったからだ。そこには、無味乾燥な、画一的な味しかなかった。そして敗戦後、この食事は、おおぜいの人が集まる食堂、つまり大学の学食、企業の社員食堂などのメンサで用いられるようになっていった。

 

元々は地域性の強いイタリアの食事には、その地方、地方の味があり、食材があり、それを守って生きてきたお袋、すなわちマンマがいたわけだ。根っこには家族主義を持つ若者たちは、その事実を思い出し、軍隊で発明された乾燥パスタとスゴの食事、つまりファーストフードに対抗して、ピエモンテ州から、イタリアの食事のルネサンス(再生)を旗揚げしたと語られている。これがスローフードの始まりだった。

 

こうして、元々、地域にあった味がイタリアに戻ってきたわけで、マクドナルドとは直接は関係のないスローフードへの回帰が起っていた。だから、今のイタリアの食事は、大きな試練を乗り越えたマンマたちのオリジナルの味なのだ。いわば、お袋の味だ。世界中の人たちが、その固有の食べ物を愛しているわけだ。

 

トスカーナのマンマの味の一例をあげると、リボリータがあげられるだろう。堅くなったトスカーナの塩なしパンを、野菜や豆たちと一緒に煮なおした料理だ。トリッパも何のことはない、トマトソースのホルモン煮だ。素朴だけどうまい。

 

こうした考え方は、単に食べ物だけではなく、さらには生活の仕方までおよび、その土地、土地の本来の生活を大切にしようと、スローライフという言葉まで作られた。冒頭の「ちいさな村の物語 イタリア」は、そのスローライフの実証として、僕に訴えかけてくる。

 

今日、日本スローフード協会のホームページを見ると、依然として「ファーストフードを皮肉ったもの」と定義して書いている。残念。

徳山てつんど
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