(十一)
確かに、この愛というものが、脳内に湧きいずる喜ばしい興奮があればこそ、よく知らない者たちが懸念も抱かずひたすら喜びを信じて垣根を越えるのである。性格も信条も意に介さない。愛の喜びの中にすべての説明が含まれてしまうのである。
私もユリアンへの心の雪崩れを感じた。事実としての彼は違う人間であるかもしれない。それが私の思いを砕かない限り、雪崩れのままに彼の本を読み続けるのである。
植村が抱いたユリアンへの愛はこれとは異なるはずだ。性愛だろうか、普通それが根本であるように。しかし普通の性愛関係が可能なのか。ユリアンは私よりもいくつか年上であるわけだし。
そんなことに興味を抱く自分に辟易したが、解明したい不可思議なのである。まじめに知りたかった。
その家に着いた時にはもう暗くなっていた。夏時間の夜とはいえほとんど光は消えていた。明るい窓に向かって、植村は急ぎ足で突き進んだ。
ドアが開き、光が外にこぼれ出た。その中に女性の姿が現れた。ふたりは軽く抱き合って挨拶を交わした。私も付いていき、植村がさっさと部屋の奥に入っていくので自分からこの女性マリアに初めての挨拶をしたのである。いかにもオーストリア人らしい愛くるしさがまだ十分残っていて、灰色の髪が無造作にその輪郭をつつんでいた。
「さあ、どうぞ中へ」
「ハイ、アリガトウゴザイマス」
居間とおぼしきよくかたづいてものが少ない部屋に入った途端、私の足がとまった。植村が同じくらいの背丈で細い男性とぴったり身体をつけて、嬉しげに笑いながらこちらを見ていた。
確かにそれは写真で見た、老年のユリアン シュッティングであった。なめらかな顔の皮膚にはたくさんの皺があったが、それすら美しくて見つめざるを得なかった。植村の完璧な皮膚とその色艶と並べて、その独自性を受け入れて不都合がなかった。
私は、頭の中に並べていたドイツ語を呟きのように繰り出してなんとか自己紹介とお礼とを述べ、カバンの中をガサゴソさせて(その間にふたりは手を握り合ったまま、からだは相変わらずぴったりくっつけたまま、笑っては顔を見合わせじっと見つめあったりしていた)手土産の刺繍された鞠をいくつか出した。マリアが感嘆の声を発したのを聞いた。
彼女はとてもあっさりしていて、まるで少年のような振る舞いをした。女性的ではなかった。ユリアンとの関係は、長年暮らしているうちに性愛から人間の情へと変化したものらしい。別れる理由がないまま親しく家族として暮らしているのだろう。
「コウイウ訳デ、和訳ノ限界ガアリマシテ、訳本トシテハゴ著書ノウチ三、四冊シカ出セナイトオモイマス。トイウカ私ノ能力ノ限界トノゴ批判モ納得イタシマスガ」
「おっしゃる意味はよくわかります。ゴリ押しで和訳してもきっと無理なのでしょう。その他の私の文章については、今お書きの本の中で触れていただければ満足ですよ」
すでに植村の出版という前提ができているので、私とユリアンとの会話は念押しというような形だけの重みしかなかった。
仕事への情熱が湧いてきた。植村のような扁桃体への影響は感じなかった。意欲は湧いたがそれは別の感情だった。それでいいのだ、この二人のようにはなれない、こんなエネルギーはとても無い、私の感じたのを言葉にすればこうであった。
マリアが私のために一部屋準備している間、目の前の二人は触れあったり、見つめあったり微笑みあったり、髪を撫でたり、まるでペットを可愛がるような仕草を見せていた。確かに性的な感覚は感じられたがその点での熱情というより、お互いへの懐かしさ、親しさ、同一性のような形容しがたい関係性だった。
私には、ショック状態ではあったが、それが嫌なものではなく、たとえどんな接触が二人の間にあろうとも、その基盤として性愛以外のものがあるのだ。たとえたまたま性愛を交わそうとも、それはただの偶然の成り行きの一つである。私は完全にこの関係を受け入れていた。マリアもそうである様子だった。
「娘サンハ今何をシテイラッシャルノデスカ? 帰ッテコラレルノデスカ?」
私は最後の難問を浴びせた。マリアは少しうっとおしそうな眉になった。両腕をしきりに組み合わせながら、
「そうですねえ、ちょっと今は距離をおいていますわ。もう仕事をもっていますし、それに実の親とも会えるようになりましたし、もう自立した女性です」
「寂シイデスネエ」
「ええそれはねえ。でも親としての責任はもう果たしたんですもの。私は彼女を信じていますよ」
私は余程ここでマリア自身のことを尋ねようかと思ったのだが、お互いに気にしていることはわかっていただろうが一歩ふみこむことはやはり止めた。彼女の様子をみているとわかる、これまでの二人の関係の歴史の影響なのだろう、そこには家族の幸せを喜ぶ、という利他的な心が核心にあったと思う。
「あ、あさってね、私は娘のリーシーのところに一泊して私の姉のところに遊びにいくことにしてますの」
「ソウデスカ。ドチラヘ。アア、ザルツブルクノ近ク」
「特に意味はありませんよ。これまで彼をひとりにしておくことがなかったので、親戚にはご無沙汰してきましたから、やっと解放されたみたいな」
そう言って、マリアは小さく肩をすくめて見せた。少しは複雑な気分があるようだった。
翌朝はまたよく晴れていた。
明るくなったので部屋の様子がわかったのだが、私が寝かされた二階の部屋の窓からは菜園が見下ろせた。林檎とサクランボの樹が見えた。廊下の端が主寝室で、すでにドアが開け放たれ、その先の窓のカーテンが見えた。その手前に、ユリアンが書庫と呼んでいる書斎があるらしかった。階下の一室にマリアの居場所があるようだった。
身支度を済ませ、私が下へ降りていくと、コーヒーの香りがした。食器のあたる音も聞こえる。幸せな、そして穏やかな人々が私にそれぞれの言い方で朝の挨拶をしてくれた。この世とは思えないような気がした。
黒パンとひまわりパンが卓の真ん中に、ナイフがそえられている。
各自の前には農家風の皿がおかれてある。明るい黄色を基調にした、焼きの厚いものである。
別の大きな皿にはチーズが数種類とハムの類が並べてあり、大きなパプリカ、きゅうり、トマトが瑞々しい色彩を添えていた。
私の好きなスタイルの朝食である。小さなナイフで各自が好きなものを好きなだけ取りわけて、バターパンと一緒に食べる。もちろんゆで卵もある。基本的にホテルの朝食ビュッフェの素朴なバージョンだ。
恐る恐る、というか実は興味津々で二人の愛人たちをみると、昨夜ほどくっついてはいない。時々手やせなかや髪を触ったり、見つめ合い微笑みあったりするのみだ。熱い気持ちがどこまで高揚して、あるいはお互いを喜ばせたいという思いがつのって、どこまでの行為になったのか? それは第三者には立ちいることのできない部分であるが。
ともかく問題は無さそうだったので、仕事の話の先鞭をつけておかなくては、と私はユリアンに話しかけた。
「シュッティング博士、誠ニ申シ訳ナイノデスガ、イクツカワカラナイトコロガアリマシテ、ヨケレバアトデオ時間ヲイタダキタイノデスガ」
「わかりました」
ユリアンは青年のような、老年のような不思議な声音で青灰色の瞳を私に向けた。
「でも堅苦しく呼ばないでいいんですよ、君、僕の関係でいきましょう」
「ハイ、ドウモスミマセン」
と、私は言ったが困ったことになったと慌てた。
日本人にはこの親しい言い方がどうもぴったりこない。学生同士、あるいは同僚同士ならば可能かもしれないが、なかなか越えられない壁として今でも私が苦手とする変化なのであった。特に「ですます」で話すという想定であるとほとんど不可能であって、そのせいで寡黙になってしまうほどである。
心の中ではいつもユリアンと呼び捨てにしているので、私はまさに清水の舞台から飛び降りるような覚悟で、どもりながら「ユリアン」と口にしたのであった。
「デハ、ユリアン、今日午前中ハドウスルツモリダイ? イイ天気ダシ、散歩デモシテカラノ方ガイイノカナ?」
「そうだね、少しここら辺を一緒に見て回ろうか。静かでなかなか飽きないところだから」
それから植村を振り返って、「いいね、ごろう」と呼びかけた。「マリアもくるかい」「私はけっこうよ、あれこれすることがあるから」
「残りの日々」の中で詳しく描写されている家と庭なんだなあ、と私は懸命に見回した。できたら写真に収めたいものだ。
植村は自分ではあまり会話に入り込んではこない。彼は英語を使うことになるので、少しややこしくなる。私に対して日本語を使うとユリアンにはわからない会話になってしまうので、気を使うのだろう。しかし、植村の表情は、驚くほどに生き生きと豊かで、もちろん美しくて、私は目的であるユリアンを見たり、植村の顔を見たりして実はとても嬉しく気分が良かった。
少し野原に向かうと、家畜小屋の臭気ともちろん牛の声が聞こえた。羊の放し飼いという野原もある。首につけた鈴が揺れている。丘の斜面には葡萄棚がいく列もうねりつつ続いている。高さは二メートルもない。小さな房が下がっている。
いつものことながらその素朴で無駄のない懐かしさと美しさに驚くのだが、煉瓦をつかった古い建築方法が今も普通に踏襲されていて、家の内外の飾りつけもいわば伝統に則っている。日本でたとえば京都の軒並みが現代にまで使用されているようなものだ。
一軒の住宅で金蓮花が二階のベランダか地面まで咲きこぼれていたのは見事な眺めだった。夏の間、まさに絵本のなかのような世界が広がる。さらに女性たちの装い方が実に自由だった。ファッションやメイクなし、それにブラジャーすらもせずに素肌をさらしている。いわゆるムダ毛の処理なども、都会の住人ならいざ知らず、日光に金色に光らせている。そして、エプロンと呼ばれているものを紐で結わえつけて、朝のパンを買いに出たりする。割烹着の役割なのだが、前開きで着物風に打ち合わせるものだ。
私はおおよそ好みの間口が広く、緩いので計算し尽くされた大都会の佇まいも嫌いではない。しかし奥の深さや味わいとなると、洋の東西を問わず、年月をかけ生活を通じて形成されてきた伝統的なものの雰囲気に心惹かれる。日本とヨーロッパと行き来して暮らせたらとつい夢を抱く。
(十二)
ユリアンとともに時間を過ごすことにすっかり味をしめた私は、その後もホテルに飽きるとケルンテンを訪れた。
ユリアンが執筆している間、植村はとりあえずドイツ語の勉強に打ち込み、それから二人で庭の手入れをした。庭に果物が実り、鳥と競争して収穫するものが多かった。ついでにユリアンが家庭料理をつくると、植村は手伝いながらそれを学ぶのだった。特に、キッチンのテーブルに木綿の布をかぶせ、その上でつくるパスタ、あるいはケーキの類をこねる仕事を植村も好んでいるらしい。自家製の主食、というのは当たり前という社会だ。
女性は自然にその技を身につけるが(恐らくユリアンもかって)、そのことはフェミニズムとは関係しないらしい。男女問わず生きて行くための技なのである。
私がとうとう明日帰国するという時に、マリアがリーシーとともに戻ってきた。マリアより頭一つ背の高いリーシーは、あまり愉快そうにはみえなかった。自分なりに家族の変化を納得しようときたのであろう、植村の美貌にはっとしていたり、じっと観察したりするらしかった。植村より少し若く、とても知的な、むしろ鋭い眼光をしている。先端の遺伝子研究に携わっている精鋭なのだそうだ。
私の仕事がもっぱら父親の本の和訳であると聞くと、彼女は相好を崩して両手をとりにきた。
「翻訳は難しいでしょう、不可能じゃない?」
すでにくだけた口調である。私がなかなかに困難である由をいうと、
「でも内容的にわかりやすいのは猫の話、あ、あれ、いいでしょ。それに犬の話、もう情感たっぷりで父とは思えなかったの、最初読んだ時。でも人間はくびきにつながれていて厄介だけど動物はそのままだから、ここまで愛せたのかなって」
植村の視線を感じた。彼もリーシーを観察しているのだ。私は彼女の笑顔で一気に親しい気分になった。
別れの夜、全員が集まったときの話題がリーシーとの出会いの話になった。
両親の離婚の後、彼女は父子家庭で暮らしたのだが、環境的に適応できず、十歳までにできあがっているはずの社会化に問題が起こっていた。もともとの資質も影響したかもしれない。里親を何度か替えた後、ユリアンとマリアを両親とする家にやってきたのであった。これまでの里親と異なる環境で、社会化するべき規範がとっぱらわれていた。
「心地よかったわ。ここでは社会の根本ががんじ絡めじゃなかった。人並みの挨拶と配慮だけは要求されたけど、それ以上のことはまるっきり自由だった。するとあたしの本来の生命力と想像力と喜びが湧き上がってくる。そして初めて恋したのが男の子だった時ね、みんなでラッキーとお祝いをした。なにかとスムーズだし、惑いなく研究に打ち込める」
「デ、失礼ナ質問デスガ、恋人トカイル? 結婚ハ予定アル?」
私は単に興味から質問したのだが、反応は意外なほど強かった。
「ああ! それがね! 自由な開けた人物がいても、運悪く双方の好みがどうも一致しないのよ! 子供を育てたいと願っているのにねえ! うまくいかない」
リーシーの愛らしいところが次第に見えてきた。知的でしかも自然だった。
帰国すると、私は早速「犬の話」を見直してみた。
***
忠誠はお前の徳性ではないので、私とフランチスカの価値が異なるともほとんど同じに好いてくれるのはお前には造作もないことだ、
それはつまりたまたまお前が共にいる人物を少し多めに好きだということだが(そしてお前がフランチスカと居て実際はしばしば悲しそうにしているのは、
私と居てウィーンの森レストランへといっかな連れて行ってもらえない場合とほとんど違わない)。
短い散歩のためにお前を迎えに行くと、お前はあまり喜びをあらわさない、これは賢い魂の節約法だ、そしてそのかわりにマリアンネのところのおやつまでの散歩に変えようとする。
一日中預かりに行くと、まずお前は私の家へどうしても行きたがり、意気揚々と先に急いで小高い野原をこえ、住まいを我がものとして、すべて変わりがないかあるいはすぐに元のようにもどるかを確かめたあと少し休んでからもちろんたっぷりの散歩と食べ物屋へ、たいていは私とふたりきりだ、何故なら私がお前をこの一日中誰とも分かち合いたくないから(しかしときには誰かがお前がいることに驚いたりする、マリアンネだけはすぐに電話でお前を聞きわける)、
夜に帰るのはどちらも嫌いなのだが、さまざまな寄り道をお前は教えてくれる。
しかし望むよりより多く、お泊まりさせてほしい、あるいはしてもいいことがある、あの以前の楽しかった時のようにお前がまた夜空の下、小さな池で水を飲むのを見たり聞いたりする、そして遅くとも床に就くときには、ふたたび我々の時、まるで全然分離がなかったかのような。昼間かなり歩いてから最後にはもどり、ふたりとも、一日という日を我々のたくさんの日々にすることができたことに疲れて。
そしてより当然のこととしてフランチスカが一週間あるいはもっと長く旅行する場合、お前は完全にまた私のものだーー部屋全部がお前のベッド、すべてのそこらのものがお前を受け入れるために広げられている、サバの女王だ、友人たちに会い食べ物屋へいく愉快な生活がふたたびゆったりと進む、お前がここにいる時間を使わなきゃと思う必要もなく、仕事の時間を過ごす手伝いもしてくれ、これが永遠には続かないことをふたりとも忘れている。
いつもこう簡単にいくわけではないーー
時にお前は興奮して私の周りを跳びまわる、まるで用を足してお前を楽にするのにちょうどいい時に来たかのように
時に帰路の半分以上がすぎるまでお前は息を切らして歩く、そして長い間私と一緒に居なかったかのように魂の迷子になっている、やっとそうだ、我々の時なのだとはっと気づくまで。(確実にお前がわかるのは我々がフランチスカを駅まで送っていったときだ。彼女がスーツケースを詰めるのを見ると興奮し、私の開いたままのスーツケースは悲しくお前を眠らせる)
しかし本当の憂鬱が訪れるのは、フランチスカが居るときにわれを忘れるほどふたりの時間に没頭していて、彼女がお前を自分の犬だと文句を言うときーー
もちろんこれは君の犬さ、と私は言う、私の犬だったんだけど。ときどき忘れちゃうんだ、いつもそのことを思い出すのはとても辛いんだ、どうぞ私を君の出張のときの犬シッターとみなしていいよ!
そう言ってから私はお前をもう見たりしない、すぐに私の心から本当にお前は消えたかのように、ただもっとひどいのは、お前の愛着のようなものに出会うときだ(もっとも私が去るとき、我々はやっぱり真実を語る一瞥をかわすのだが)
できるだけユリアンの一言一言を忠実に再現したいと思うので、時にうるさい感じがする和訳だ、たしかに。文章はすらすら運ばなくて、ひっかかり逡巡し説明を尽くす、物事も心理もそう簡単ではない。もしそのすべてを書き表そうとすると、文章も重層となり、交錯する、錯綜する。
ここでは、犬も人も意識的に同じに取り扱ってある。犬にも心があり愛情があるという強調の仕方ではない、人と犬の垣根がないこと、それが表現されている。