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 田柴は、覚悟を決めていたが、次第に怖気づき始めていた。人間の内蔵をイメージすればするほど、全身に震えが走った。田柴は、あまりの不安から言葉が飛び出した。「今、返事しなければなりませんか?1時間ほど二人で相談したいのですが?」田柴は、崎山の青くなった顔を見つめた。崎山も頷き、白髪の男性に懇願する表情をした。「13時に、再度お越しください。そのときに、はっきりした返事をいただければ結構です」二人は、緊張した肩をすっと落とした。

 

 二人は、大手門ビルの近くのスタバで相談することにした。窓際のカウンター席に腰掛け、人に聞かれないように秘かに話し合うことにした。カウンターに腰掛けると、ビルの玄関ですれ違った二人組みが、すぐ隣に腰掛けていることに田柴は気付いた。崎山に目配せすると、崎山が席を立つかのように、腰を持ち上げた。そのとき、ひげを生やした40歳前後の男が、声をかけた。「さっきの方じゃないですか。お宅たちもあのアルバイトをされるんですか?私たちもなんです。よろしくお願いします」ひげの男性は、赤黒い顔に笑顔を作って挨拶した。

 

 突然の挨拶に崎山は、苦笑いをして腰を落とした。「いや、ま~、なんと言うか、その~。今、考慮中なんです。やれるかどうかの」崎山は、バイトの一組であることに気付き、ちょっと気まずくなってしまった。男性は、さらに話を続けた。「そうですよね。あんなバイトする人は、よっぽどお金に困ってなければ、やらないですよね。僕たちは、他にどこも雇ってくれない浮浪者ですから、すぐに、引き受けました」薄汚い二人は、何日も洗濯されてないような汚い作業服を着ていた。

 

 崎山たちも同じようにお金に困って、面接にやってきたので、身なりはきれいでも事情は同じであった。「いや、僕たちは、学生なんですが、お金が必要なのです。授業料を払えないと、退学なんで。それで、日当のいいバイトを探しているんです。でも、バイトの内容が、ちょっときついかなと思って、ちょっと、相談する時間をもらったんです」崎山と田柴は、目じりを下げて、ちょこんと頭を下げた。浮浪者風の二人は、頷き、コーヒーをすすった。

 

 コーヒーカップをカウンターの上に置いたひげの男性は、恥ずかしそうに話し始めた。「私たちは、お宅らと違って、社会からドロップアウトしたものです。以前は、原発の仕事をしていましたが、原発が停止になって、今、その仕事がないんです。どこも、浮浪者なんか雇ってくれません。浮浪者にとっては、ありがたい仕事でした。たまたま、ゴミ箱で拾った広告雑誌に奇妙なバイトがあったので、面接に行ったところ、幸運にも採用されました。一文無しで、公園で野宿していると言ったところ、ありがたいことに、前借までさせてくれました。人並みにスタバでコーヒーを飲むのは、何年ぶりですかね」ひげの男は、禿の男に振り向いた。

 

 禿の男は、顔は薄汚かったが、ひげの男より若そうだった。禿の男が、頷き目を崎山に向けると、ダミ声で話し始めた。「実のところ、僕はやりたくなかったんです。でも、残飯あさりはもう、こりごりです。寮に入って、人並みの生活ができるのならば、なんでもやろうと決意しました。僕たちには、人間ではできないような仕事しか残っていないのです。運命だとあきらめています」禿の男の目から涙が落ちていた。

 

 田柴と崎山は、あまりにも絶望的な話を聞いて、自分たちがどんなに幸せか実感していた。田柴が、禿の涙顔に向かって話し始めた。「僕たちは、学生なのですが、授業料を払うには、バイトをしなければなりません。他にも、バイトはあるのでしょうが、こんなに日当のいいバイトはそうありません。でも、仕事の内容が、気持ち悪いもので、躊躇しています。贅沢なんでしょうか?」田柴は、話し終えるとコーヒーをすすった。

 

 禿の男は、うらやましそうな顔で二人の顔をちらっと見て、窓の外を頻繁に走っている車をぼんやり眺め話始めた。「おたくらは、未来があっていいじゃないですか。僕たちは、ただ、その日を生きているだけです。僕は、派遣社員として、自動車組み立て工場で働いていました。でも、工場が閉鎖になって、仕事を失ってしまうと、派遣社員には、これと言った仕事はありませんでした。

 

無一文になり、公園で頭を抱えていたとき、こちらの菅原さんに声を掛けられたのです。原発の仕事は、どんな仕事かわかりませんでしたが、お金が欲しくて、ついて行きました。そうですね、7年ほどやったと思います。その仕事も、福島の原発事故のため原発は停止され、またもや、失業です。ついていません。このバイトもいつまで続くのやら」禿の男の目は、死んだ魚の目のようにどんより曇っていた。

 崎山は、社会から見放された原発労働者の話を聞き、自分たちは、いかに恵まれているかをしみじみと感じていた。崎山は、やる気でいたが、田柴の気持ちを確認することにした。「先輩、どうします?やりましょうよ、こんなにいいバイトは、他にありませんよ」田柴は、しばらく黙っていた。田柴は、いいにくそうに話し始めた。「確かに、こんなにいいバイトは他にない。それはわかるが、俺は、もともと気が弱いんだ。血を見ただけでも、気分が悪くなる。俺に、できるだろうか?」田柴は、俯いてしまった。

 

 気の毒そうに思った禿の男が、口を挟んだ。「ごもっともです。男のものを切り取るなんて、気持ち悪くてやってられませんよ。僕も、今からでも断りたいぐらいなんです。でも、僕たちには、このような仕事しかないんです。お二人は、他に人間らしい仕事を探されてはどうですか?」田柴は、思わず頷いてしまった。崎山も一瞬、禿の男の話は最もだと納得したが、この不景気に、このような高額の日当がもらえるバイトは他に無いと確信していた。

 

 崎山は、躊躇し始めた。無理にこのバイトを勧めて、二人の仲が悪くなり、漫才までダメになってしまうのではないかと不安になった。崎山は、俯いてしまった田柴にそっと声をかけた。「先輩、このバイト断りましょう。そう、警備のバイトでもやりましょう」田柴は、うつむいたまま、じっと黙っていた。気持ちの整理はつかなかったが、田柴は、やはり、お金が欲しかった。十日やそこら働いて、30万円にもなるバイトは、どこを探しても無いと思った。日当が安いバイトをやれば、それだけバイトの日数が増え、漫才の稽古ができなくなるのではないかと不安になった。

 

春日信彦
作家:春日信彦
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