女優

 崎山は、社会から見放された原発労働者の話を聞き、自分たちは、いかに恵まれているかをしみじみと感じていた。崎山は、やる気でいたが、田柴の気持ちを確認することにした。「先輩、どうします?やりましょうよ、こんなにいいバイトは、他にありませんよ」田柴は、しばらく黙っていた。田柴は、いいにくそうに話し始めた。「確かに、こんなにいいバイトは他にない。それはわかるが、俺は、もともと気が弱いんだ。血を見ただけでも、気分が悪くなる。俺に、できるだろうか?」田柴は、俯いてしまった。

 

 気の毒そうに思った禿の男が、口を挟んだ。「ごもっともです。男のものを切り取るなんて、気持ち悪くてやってられませんよ。僕も、今からでも断りたいぐらいなんです。でも、僕たちには、このような仕事しかないんです。お二人は、他に人間らしい仕事を探されてはどうですか?」田柴は、思わず頷いてしまった。崎山も一瞬、禿の男の話は最もだと納得したが、この不景気に、このような高額の日当がもらえるバイトは他に無いと確信していた。

 

 崎山は、躊躇し始めた。無理にこのバイトを勧めて、二人の仲が悪くなり、漫才までダメになってしまうのではないかと不安になった。崎山は、俯いてしまった田柴にそっと声をかけた。「先輩、このバイト断りましょう。そう、警備のバイトでもやりましょう」田柴は、うつむいたまま、じっと黙っていた。気持ちの整理はつかなかったが、田柴は、やはり、お金が欲しかった。十日やそこら働いて、30万円にもなるバイトは、どこを探しても無いと思った。日当が安いバイトをやれば、それだけバイトの日数が増え、漫才の稽古ができなくなるのではないかと不安になった。

 

 もし、ここで断ってしまえば、他の誰かにすぐに決まってしまうように思えた。田柴は、ゆっくり顔を持ち上げた。「そうだな~、警備のバイトか?そんなバイトで毎月15万円の授業料が払えるのだろうか?漫才の稽古はどうする?性根を入れてやらないと、漫才師の夢は水の泡になってしまう。俺らに残されたチャンスは、あと一年。この一年で、卒業できなければ、もう、コンビは解散だ。崎山、人生をかけて、このバイトやろうじゃないか」田柴は、崎山の右肩をポンと叩いた。

 

                悪霊

 

 退学寸前に追い込まれていた田柴と崎山に舞い込んできた幸運のバイトのおかげで、どうにか大学に残ることができた。しかも、奇妙なバイトのおかげで、自殺ネタがバカ受けし、漫才の未来も見えてきた。気持ち悪いバイトで落ち込んだ気持ちを跳ね除けるべく、死体と原発労働者をヒントに自殺をネタとした面白い漫才を崎山は考えだした。崎山は、奇妙なバイトに感謝し、できる限り、このバイトを続けたいと思うようにまでなっていた。

 

 二人は、バイトが無い日であったが、幸運のバイトを決心した大手門のスタバにやって来た。浮浪者と同席したかつてのカウンターに腰掛けた。バイトを始めて4ヶ月がたち、留年一年目を迎えた二人は、漫才師への夢を語り始めた。「先輩、この調子だと、M-1にも出られそうですね。田森教授にも褒められたし、絶対に億万長者になりましょう。それにしても、自殺ネタがあんなにバカ受けするとはな~」崎山は青空を見上げ、目を輝かせコーヒーを飲み干した。

 

 田柴は、最近体調を崩していた。バイトを始めるようになって、下痢や頭痛がするようになっていた。「先輩、最近、顔色が悪いじゃないですか。一度、病院に行かれてはどうですか?先輩が入院でもしたら、漫才もバイトもできなくなりますよ。先輩、どこか具合でも悪いんじゃないですか?」崎山は、田柴の様子が気にかかっていた。田柴は、上の空で崎山の話を聞いていた。なぜか、ぼんやりとした不安が襲いかかり、田柴の心は晴れなかった。気分が晴れず、いつも胸がムカムカするような不快感が襲ってくるのだった。食欲も無くなり、好物のカツ丼までもおいしいと思わなくなってしまった。

 

 「いや、よく分からないんだが、最近食欲が無いんだ。心配かけて悪いな。崎山のおかげで漫才も受けるようになってきたって言うのに、俺はだらしないよ。気合がたりないんだな。二人で天下を取ると約束したのにな」崎山は、田柴の強がりが心配であった。崎山は、田柴の身体に異変が起きているんじゃないかと憶測していた。バイトを始める前にはあった覇気が、今ではまったくなくなっていたからだ。話し声まで、気迫がなくなっていた。

 

 漫才では、自殺ネタがバカ受けしていたが、田柴の悪霊に取り付かれたような表情が、漫才のリズムを時々狂わせていた。「先輩、そうじゃないっすよ。心配なんです。ヤッパ、どこかおかしいんじゃないかと思うんです。一度、精密検査を受けてください。先輩に万が一のことがあったら、俺は、どうすりゃいいですか?相方は、先輩しかいないっすよ。とにかく、病院に行ってください」田柴は、しばらく何も言えなかった。

 田柴は、二人のコーヒーが無くなっていることに気付き、もう一杯飲むことにした。田柴が、二つのコーヒーを運んでくると、静かに崎山の前に置いた。「心配かけてすまん。実を言うと、このバイトを始めてから、体調がおかしくなったような気がする。でも、このバイトをやめるつもりは無い。このバイトのおかげで大学に残れたし、漫才も受けるようになった。このバイトに、本当に感謝している。俺は気が弱いから、死体を見たショックで、体調を崩したに違いないと思う。もうしばらくやっていれば、死体にもなれて、またもとの体調に戻ると思う。俺は、どうしてこんなに気が弱いんだろうな」田柴は、コーヒーを一口弱弱しくすすった。

 

 崎山もコーヒーをすすると笑顔を作った。「そうすか。ガンバっすよ。二人で天下を取りましょう。もし、気分が悪い日は、俺が一人で何でもやりますから、先輩は、横で目を瞑って、休んでいてください。摘出の要領は、もう完璧です。まかしてください」崎山は、神経が図太いのか、まったく、死体を見ても、臓器の摘出にもまったく動じなかった。ほんの少し笑顔を作った田柴は、小さな声を放った。「すまん。漫才日本一になろう」田柴は、弱弱しいガッツポーズを作った。

 

 二人は、今年に入り、生活費を切り詰めようと、寮での同居を始めていた。同居をするようになり、稽古もやりやすくなり、二人にとっては、好都合であったが、二人が寝ているとき、田柴が真夜中に、突然、大きな叫び声を発するのには困惑していた。目を覚ました崎山は、田柴の様子を窺っては見たが、田柴は、気持ち悪い夢を見たと言うだけであった。稽古をやっているときも、時々、とんちんかんなアドリブを言うようにもなっていた。

春日信彦
作家:春日信彦
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