東野圭吾作品論

東野圭吾『魔球』謎と倫理(下)地獄のような欺瞞的空間の拒絶

『魔球』の結末は偽装自殺した甲子園投手須田武志が犯人だったという幕で終わる。

 自分の豪速球を唯一捕球することができ、自分の孤高をそっと見守ってくれる理解者でもあった捕手の北岡明を殺害したのは、須田武志だったのだ。

 須田武志は決して北岡明が嫌いだったわけではない。しかし、北岡の「ぬるい民主主義」にはこんな違和感を刑事に表明している。





「彼は主将としてはどうだったのだろう」と高間は訊いてみた。
「よくやっていたんじゃないかな。少し真面目すぎるところもありましたが」
「真面目すぎるって?」
 武志は首を少し横に傾けた。
一人一人の意見を尊重しすぎるんですよ。そんなことしてちゃ、
キリがないのに」







 須田の才能を認め、須田武志の能力なくしては甲子園出場など叶わないことは百も承知していた北岡だが、北岡は才能のない部員を含めた最大多数の最大幸福を常に理想としていた。
 そんな北岡の主将としての行動を須田武志は、多分無駄としか考えていなかっただろう。須田にとっては「全員野球」など弱者の言い訳にすぎなかったのだと思う。

 イソップ童話で葡萄を手にできない狐が「あれは酸っぱいぶどうだ」といじけているうちはまだいい。しかし、どうやったって須田に叶わない自分たちを直視するのに耐えられず、スポーツは勝ち負けよりも全員で楽しむものだという種類の、自分の弱者としての真実から目を逸らす醜悪な嘘を須田は許せなかったに違いない。

 そんなプライドもない弱者たちの「一人一人の意見を尊重」しようとする北岡には苛立ちを感じていて不思議はなかった。

 北岡への苛立ちは、どうせ打ち明けても同情することしかできはしない、そして肩を故障した弱い須田武志をやっと自分たちと同レベルだと認識して同じ狐同士醜悪な仲間意識を持とうとするであろうチームメイトや顧問にひた隠しにしてきた自分の右肩の故障を、約束を破って北岡が顧問に無断で相談したことで頂点に達する。






「武志君は、当然北岡君にも約束させただろう。絶対に右腕の故障のことをしゃべるなとね。だから、北岡君が森川先生に相談に行ったと知ったときにはショックだっただろう。しかしね---」

 高間は言葉を切り、勇樹の顔をじっと見つめた。

「武志君はそんなことで殺意を抱くような、低級な人間ではないよ。(中略)この事件は君の兄さんの強烈な個性を象徴していると思う。彼はね、約束を守らなかった相手に対しては、なんらかの報復が必要だと考えていたんじゃないだろうか。(中略)そして今回は北岡君の愛犬を刺すことで、報復しようとした。」

「そうなんだ。武志君の狙いは犬の方にあったんだ。多分犬を刺して、すぐに逃げようとしたのだと思う。だが北岡君は黙っていなかった。彼を追うと、取っ組み合いになったんだ。そしてそのはずみで、武志君の小刀が北岡君の腹を刺してしまったんだ。」

「犬の方が先に刺されていたということは、事件当初から分かっていた。その理由についていろいろ推論が出たけれど、どれもしっくりいくものではなかった。でもこの説明なら分かるだろ」







 これが真相である。

「別の世界」に生きる須田武志は、こうして「ぬるい民主主義」の世界との間に決定的な亀裂を生じさせてしまった。

 しかし、須田武志が顧問に説得され、プロ契約をして不幸な母親に楽をさせてやる夢も捨て、人当たりの良い顔で後輩の指導をするような「ぬるい民主主義」の住人に成り下がる姿を私は見たくない。

 内部世界に飼い殺されることを当然のように拒否し、外部世界に自らを放り出し死んで行く須田武志は少なくとも「酸っぱい葡萄の狐」にはない誇りがある。






「兄貴は」
 勇樹がぼんやりと窓の外を見ながらいった。「いつも一人だった」







 須田武志はほとんど地獄のような欺瞞的空間を拒否できる人間だった。

 その内部空間でしか生きられない自分を自覚している弟の勇樹にとって、兄はいつまでも最高の誇りであったのだ。





東野圭吾『魔球』謎と倫理 地獄のような欺瞞的空間の拒絶

了 (o^—^)ノ

東野圭吾『放課後』謎と倫理(上)見えない女子高生

放課後 (講談社文庫)/講談社
 校内の更衣室で生徒指導の教師が青酸中毒で死んでいた。先生を2人だけの旅行に誘う問題児、頭脳明晰の美少女・剣道部の主将、先生をナンパするアーチェリー部の主将――犯人候補は続々登場する。そして、運動会の仮装行列で第2の殺人が……。乱歩賞受賞の青春推理。






 前回取り上げた幻の傑作『魔球』で乱歩賞に落ちちゃった東野さんが翌年捲土重来を期して送り込んだ作品がこの『放課後』です。

 舞台は前作と同じ高校。ただし今度は女子高だ。登場人物は当然女子高生。犯罪を犯すのも女子高生。そして語り手は男性教師。追い詰める警察は当然男性刑事。これがこの作品の性格を決定づけています。

 つまり、見えない女子高生におじさん達が挑むわけだ。



 語り手役の数学教師前島教諭は、教師として教室で数学だけつつがなく教え、生徒とそれ以外の面倒な関わりを持たないことを信条としている。そんな前島は生徒から『マシン』だと言われてる。

 でも一人、この教師を男性として深く好きになった女生徒がいる。それはこのマシンが自分でも気が付かないうちにさり気なくこの女生徒に見せた、本物の、上辺だけ理解あるふりをした教師には伝えることのできない人間らしい側面だった。

 そんなエピソードを事情聴取の過程で聞いた大谷刑事は前島教諭にこう語りかける。






「ほんの小さなきっかけで先生のことを見直し好意を持つ人がいるのなら、当然その逆もある。つまりほんの些細なことから、先生を憎むということもあるのではないか・・・と」

「当然あるでしょうね」

 女子高というのはそういうことの繰り返しだと思っている。

「ではそのことが殺人事件に結びつく可能性はどうですか?あると思いますか?」

 大谷は真剣な眼差しで聞いてくる。難しすぎる問題だ。だが私は思ったままを答えた。

「ある、と思います」

「なるほど」

 大谷は思い入ったように薄く目を閉じだ。









 この小説のとても印象的な場面です。


 選考過程ではかなり揉めたようでこんな逸話があります。

「『放課後』の犯人が連続殺人に踏み込むに至った動機をつまびらかに述べると、正体が露見してしまうので、ここでは「学校」ならではの独特のものだった、とのみ述べておこう。
独特なものゆえ、乱歩賞選考時には動機が議論の的となった。選考委員五名中四名が言及し、そのいずれもが「動機や小道具の使い方などの点で、疑問がないわけではない」(小林久三)「説得力に乏しい」(土屋隆夫)「推理小説では最も大切な動機が、なんとしてもおかしい」(伴野朗)「惜しむらくは動機が弱い」(山村正夫)といった否定的な評価であった」

        『僕たちの好きな東野圭吾』別冊宝島編集部




 でも、この小説そのものが「動機への疑問」「動機への弱さ」「頭の硬い人にとっての動機の説得力の無さ」「動機の普通の意味でのおかしさ」という、女子高生の深層心理を読めない、見えない教師や刑事たちが翻弄される小説なのだからわざとそう書いているように思えるのですが…。


 さて、その動機とは何なのでしょうか?

 実はかなりの純度でエロちっくなものです。

 それにしびれちゃう人は、とてもエッチな人ですこの作品のよき理解者でありましょう。

東野圭吾『放課後』謎と倫理(下)世界初の苦悩あるいは検索不可能な「真相」とは何か


「のぞき……」

 私は茫然としながら、彼女の肩から手を離した。「それが動機か」

「先生たちから見れば、大したことないかもしれない。今頃の女子高生は買春するくらいだからっていう意識があるものね。でも、それとこれとは全く違う。あたしだって、買春をしてやろうかなと思った時期はあったけれど、無警戒なところをのぞかれたりするのは絶対にイヤ。それは心の中に、土足で入って来られるようなものよ」

「しかし……何も殺さなくても」

「そう?だけど、もしのぞかれた時、恵美がオナニーをしていたとしたら」

 その言葉は、直接脳に響いたように鋭い感覚を私に与えた。







 内容が衝撃的で一瞬思考停止状態になるので別の例を考えてみる。

 親が子供の日記をこっそり盗み見たら、そこに買春の事実が書いてあった。親は子供を問い詰める権利はありそうだ。しかし、日記を盗み見たということに対して子供は親に抗議する権利があるだろう。それがもしないのならば、世界中の警察の違法捜査はすべて正当化されてしまうだろう。

 苦し紛れの親にしてみたら「売春なんやましいことをしていなければ、日記を見られたって別に痛くも痒くもない、日記を見られて困るようなことをしているお前が悪い」という論理かもしれない。

 しかし恵美のしていたことは、犯罪でもないし、犯罪に発展する危険性もない。非難されるべきは一方的に盗み見た方にある。
 恵美の感じた思いは多分、レイプされたことを告訴する時のジレンマと似てるようにも見える。法廷で二度レイプされることを覚悟で事実を明るみにすることはすべての女性にとって躊躇われるはずだ。

 でも少なくともレイプ告訴の場合には、被害者には「世間」の同情が集まるだろう。この場合の悲劇は、恵美は悪くないにもかかわらず、事実を公にすれば同情を買うどころか好奇な嘲笑を買うことだろう。



 そしてそっちこそが「世間」の正体だ。

 法廷では裁判官が法律の条文と過去の判例を検索して量刑を課す。

 精神科医やカウンセラーは、精神障害の診断と統計の手引き(DSM) - Wikipedia http://bit.ly/VUfdT1 を検索して病名を決定する。

 だが、この時の恵美の苦しみは検索しても決して見つからない。データベースに登録されていないからだ。そしてレイプが世間の人の同情を集めるのは、検索可能な形で感情のデータベースに登録されているからだろう。

 しかし、データベースに登録されている社会的に認知された苦しみが苦しみのすべてではない。そして、データベースに登録できない感情とは、苦しむに値しない苦しみというわけではない。

 私はむしろこのデータベースに登録できず、人から検索もされない苦しみこそ人間にとって一番救われるべき苦しみなんじゃないかと思う。





「 二学期が始まって、ある日恵美が電話をかけてきたわ。『今目の前に青酸ソーダがあります。飲んでもいいですか』って彼女は言ったの」





 恵美は新学期が始まってからのぞきをされた教師たちに、授業中にも「あの夜のあられもない姿を思い浮かべている目」で視姦され続けていたのだった。

 読者はここに至って殺人の動機に慄然とする。なぜか?読者もまた、過去の判例を職業的に想起する法廷の裁判官や、マニュアルを参照するだけの治療を行う精神科医のように、犯人の犯罪をデータベースの検索で読み解こうとしていた自分の無力を発見するからだ。


典型的な探偵小説マニアは、読みながら推理などしない。彼らはこれまでの読書体験に基づいた、トリックを格納したデータベースを持っていて、それを検索するだけなのだ。
 例えば、密室ミステリを読む時、「ドアのしたに隙間があった」という描写が出てくると、読者は、自分が過去に読んだミステリから、ドアの隙間を利用した密室トリックを検索する。
飯城勇三『エラリー•クイーン論』



 犯罪を犯す人間の動機、精神を病んでしまう人間の魂の姿は、本来常に「世界初の苦しみ」なのではないかと私は思う。

 しかしこの苦しみは「共感」などという手垢のついた薄っぺらいツールで捉えられるようなシロモノでは決してないのだ。


 前島先生に犯罪の告白をした恵美の親友のケイは、恵美の苦しみに「共感」などしたのではない。検索不可能な苦しみを「共犯」で引き受けたのだ。

 
 検索不可能な「真相」に直面した時、もしその対象をそれでも理解したいと思ったら、その時人は自分相手の人生の共犯者になることを覚悟せねばならないだろう。

 果たして日記を盗み見る親に、子供の人生の共犯者になる覚悟があるのかどうか…。

 社会化できない苦しみを目の当たりにした時、検索不可能な真相は他人事でない真実として発見者の目の間に立ち現れる。

 しかし大抵の人は、それを新しいデータとしてデータベースに登録してしまう。司直に委ねたりカウンセラーに委ねたり。

 そして言うまでもなく検索可能になったデータはもはや真実の姿を失っているのだ。


 検索時代を生きる我々は、真実忘却、存在忘却の時代(ハイデガー)を今日も生きている。





東野圭吾『放課後』謎と倫理(下)検索不可能な「真相」とは何か

(*v_v)

東野圭吾『同級生』謎と倫理(上)嘘つきな西原壮一

同級生 (講談社文庫)/講談社
 宮前由希子は同級生西原荘一の子を身ごもったまま、そしてその愛が本物だったと信じたまま事故死してしまった。西原荘一は自分が父親だと周囲に告白し、疑問が残る事故の真相を探る。やがてある女教師が事故に深く関わっていたことを突き止めるが、彼女の絞殺体が発見されるや、一転は容疑者にされてしまう。
(Amazon紹介文より)


『魔球』『放課後』ときましたので、初期傑作の締めくくりとして『同級生』を書かなくては(^^)。

 舞台はまた高校です。今回は主人公の西原荘一の行動が全体を動かしているみたいです。


 そこでまず主人公西原荘一のとった行動を中心にこの小説のストーリーをみてみよう。

 事故死した恋人由希子が妊娠していたと通夜の席で聞く
 野球部に仲間と共に不審な死を解明しようと誓う
 そのために由希子の両親にあって話を聞こうとする
 そんな大事な話を同級生にすぎない西原荘一にする訳がないと部員に言われる
 俺が由希子の子供の父親であることを告白すれば問題ないはずだと宣言する
 実際に由希子宅を訪問し、両親に謝罪する
 学校では教師やクラスメートの白い目に耐える
 その後由希子の死に関係する教師殺人事件の容疑者となるも真相解明に努力
 事件解決

 ここだけ取り出すと西原荘一という人間は、およそ考えられる限り最高度に「男らしい」人物です。出来過ぎなくらいに嘘くさい完璧なキャラですが・・・


 そうなんです!

 何の事はない、嘘なのです。

 明白な嘘はついてないけど、必要なことを言わずに自分の有利な方向に状況を持って行く種類の巧みな嘘。

 以前江戸川乱歩の「二銭銅貨」で引用した本(リンクドア)のこんな感じに。

探偵小説と叙述トリック (ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?) (キイ・ライブラリー)/東京創元社
 言い落としはコミュニケーションの消極的な必然性ではなく、目的化されたディスコミュニケーションの、要するに積極的な欺瞞と隠蔽のために極めて有効な手段となる。
 赤い服を緑だといえば明白な虚偽だ。しかし服の色を口にしなければ、たんなる語り落としにすぎない。話を聞いた者が、自分から赤い服を緑の服だと思い違えても私の責任ではない。何かを語り落とすだけで、語り手は聞き手を欺瞞することができる。あとから、意図的に嘘をついたと非難されることもない。私は虚偽を語ったのではなく、それについて語るのを忘れたにすぎない。誤解したのは聞き手の方なのだ。

笠井潔『探偵小説と叙述トリック』


 面白いのは江戸川乱歩の「二銭銅貨」と違って、この騙しを読者は知っていて、作中の西原君の周りの人たちがその嘘に翻弄されるという作り方になっていることです。


 東野圭吾『同級生』謎と倫理(下)では、その辺りの作者がしかけた読者の読んだ時の印象の違いなどについて書いてみようと思います。


つづく(o^—^)ノ
ゆっきー
東野圭吾作品論
0
  • 0円
  • ダウンロード

3 / 11

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント