東野圭吾作品論

東野圭吾『放課後』謎と倫理(下)世界初の苦悩あるいは検索不可能な「真相」とは何か


「のぞき……」

 私は茫然としながら、彼女の肩から手を離した。「それが動機か」

「先生たちから見れば、大したことないかもしれない。今頃の女子高生は買春するくらいだからっていう意識があるものね。でも、それとこれとは全く違う。あたしだって、買春をしてやろうかなと思った時期はあったけれど、無警戒なところをのぞかれたりするのは絶対にイヤ。それは心の中に、土足で入って来られるようなものよ」

「しかし……何も殺さなくても」

「そう?だけど、もしのぞかれた時、恵美がオナニーをしていたとしたら」

 その言葉は、直接脳に響いたように鋭い感覚を私に与えた。







 内容が衝撃的で一瞬思考停止状態になるので別の例を考えてみる。

 親が子供の日記をこっそり盗み見たら、そこに買春の事実が書いてあった。親は子供を問い詰める権利はありそうだ。しかし、日記を盗み見たということに対して子供は親に抗議する権利があるだろう。それがもしないのならば、世界中の警察の違法捜査はすべて正当化されてしまうだろう。

 苦し紛れの親にしてみたら「売春なんやましいことをしていなければ、日記を見られたって別に痛くも痒くもない、日記を見られて困るようなことをしているお前が悪い」という論理かもしれない。

 しかし恵美のしていたことは、犯罪でもないし、犯罪に発展する危険性もない。非難されるべきは一方的に盗み見た方にある。
 恵美の感じた思いは多分、レイプされたことを告訴する時のジレンマと似てるようにも見える。法廷で二度レイプされることを覚悟で事実を明るみにすることはすべての女性にとって躊躇われるはずだ。

 でも少なくともレイプ告訴の場合には、被害者には「世間」の同情が集まるだろう。この場合の悲劇は、恵美は悪くないにもかかわらず、事実を公にすれば同情を買うどころか好奇な嘲笑を買うことだろう。



 そしてそっちこそが「世間」の正体だ。

 法廷では裁判官が法律の条文と過去の判例を検索して量刑を課す。

 精神科医やカウンセラーは、精神障害の診断と統計の手引き(DSM) - Wikipedia http://bit.ly/VUfdT1 を検索して病名を決定する。

 だが、この時の恵美の苦しみは検索しても決して見つからない。データベースに登録されていないからだ。そしてレイプが世間の人の同情を集めるのは、検索可能な形で感情のデータベースに登録されているからだろう。

 しかし、データベースに登録されている社会的に認知された苦しみが苦しみのすべてではない。そして、データベースに登録できない感情とは、苦しむに値しない苦しみというわけではない。

 私はむしろこのデータベースに登録できず、人から検索もされない苦しみこそ人間にとって一番救われるべき苦しみなんじゃないかと思う。





「 二学期が始まって、ある日恵美が電話をかけてきたわ。『今目の前に青酸ソーダがあります。飲んでもいいですか』って彼女は言ったの」





 恵美は新学期が始まってからのぞきをされた教師たちに、授業中にも「あの夜のあられもない姿を思い浮かべている目」で視姦され続けていたのだった。

 読者はここに至って殺人の動機に慄然とする。なぜか?読者もまた、過去の判例を職業的に想起する法廷の裁判官や、マニュアルを参照するだけの治療を行う精神科医のように、犯人の犯罪をデータベースの検索で読み解こうとしていた自分の無力を発見するからだ。


典型的な探偵小説マニアは、読みながら推理などしない。彼らはこれまでの読書体験に基づいた、トリックを格納したデータベースを持っていて、それを検索するだけなのだ。
 例えば、密室ミステリを読む時、「ドアのしたに隙間があった」という描写が出てくると、読者は、自分が過去に読んだミステリから、ドアの隙間を利用した密室トリックを検索する。
飯城勇三『エラリー•クイーン論』



 犯罪を犯す人間の動機、精神を病んでしまう人間の魂の姿は、本来常に「世界初の苦しみ」なのではないかと私は思う。

 しかしこの苦しみは「共感」などという手垢のついた薄っぺらいツールで捉えられるようなシロモノでは決してないのだ。


 前島先生に犯罪の告白をした恵美の親友のケイは、恵美の苦しみに「共感」などしたのではない。検索不可能な苦しみを「共犯」で引き受けたのだ。

 
 検索不可能な「真相」に直面した時、もしその対象をそれでも理解したいと思ったら、その時人は自分相手の人生の共犯者になることを覚悟せねばならないだろう。

 果たして日記を盗み見る親に、子供の人生の共犯者になる覚悟があるのかどうか…。

 社会化できない苦しみを目の当たりにした時、検索不可能な真相は他人事でない真実として発見者の目の間に立ち現れる。

 しかし大抵の人は、それを新しいデータとしてデータベースに登録してしまう。司直に委ねたりカウンセラーに委ねたり。

 そして言うまでもなく検索可能になったデータはもはや真実の姿を失っているのだ。


 検索時代を生きる我々は、真実忘却、存在忘却の時代(ハイデガー)を今日も生きている。





東野圭吾『放課後』謎と倫理(下)検索不可能な「真相」とは何か

(*v_v)

東野圭吾『同級生』謎と倫理(上)嘘つきな西原壮一

同級生 (講談社文庫)/講談社
 宮前由希子は同級生西原荘一の子を身ごもったまま、そしてその愛が本物だったと信じたまま事故死してしまった。西原荘一は自分が父親だと周囲に告白し、疑問が残る事故の真相を探る。やがてある女教師が事故に深く関わっていたことを突き止めるが、彼女の絞殺体が発見されるや、一転は容疑者にされてしまう。
(Amazon紹介文より)


『魔球』『放課後』ときましたので、初期傑作の締めくくりとして『同級生』を書かなくては(^^)。

 舞台はまた高校です。今回は主人公の西原荘一の行動が全体を動かしているみたいです。


 そこでまず主人公西原荘一のとった行動を中心にこの小説のストーリーをみてみよう。

 事故死した恋人由希子が妊娠していたと通夜の席で聞く
 野球部に仲間と共に不審な死を解明しようと誓う
 そのために由希子の両親にあって話を聞こうとする
 そんな大事な話を同級生にすぎない西原荘一にする訳がないと部員に言われる
 俺が由希子の子供の父親であることを告白すれば問題ないはずだと宣言する
 実際に由希子宅を訪問し、両親に謝罪する
 学校では教師やクラスメートの白い目に耐える
 その後由希子の死に関係する教師殺人事件の容疑者となるも真相解明に努力
 事件解決

 ここだけ取り出すと西原荘一という人間は、およそ考えられる限り最高度に「男らしい」人物です。出来過ぎなくらいに嘘くさい完璧なキャラですが・・・


 そうなんです!

 何の事はない、嘘なのです。

 明白な嘘はついてないけど、必要なことを言わずに自分の有利な方向に状況を持って行く種類の巧みな嘘。

 以前江戸川乱歩の「二銭銅貨」で引用した本(リンクドア)のこんな感じに。

探偵小説と叙述トリック (ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?) (キイ・ライブラリー)/東京創元社
 言い落としはコミュニケーションの消極的な必然性ではなく、目的化されたディスコミュニケーションの、要するに積極的な欺瞞と隠蔽のために極めて有効な手段となる。
 赤い服を緑だといえば明白な虚偽だ。しかし服の色を口にしなければ、たんなる語り落としにすぎない。話を聞いた者が、自分から赤い服を緑の服だと思い違えても私の責任ではない。何かを語り落とすだけで、語り手は聞き手を欺瞞することができる。あとから、意図的に嘘をついたと非難されることもない。私は虚偽を語ったのではなく、それについて語るのを忘れたにすぎない。誤解したのは聞き手の方なのだ。

笠井潔『探偵小説と叙述トリック』


 面白いのは江戸川乱歩の「二銭銅貨」と違って、この騙しを読者は知っていて、作中の西原君の周りの人たちがその嘘に翻弄されるという作り方になっていることです。


 東野圭吾『同級生』謎と倫理(下)では、その辺りの作者がしかけた読者の読んだ時の印象の違いなどについて書いてみようと思います。


つづく(o^—^)ノ

東野圭吾『同級生』謎と倫理(中)『ノルウェイの森』の言い落とし

 前回、江戸川乱歩「二銭銅貨」の読者へも向けられた(対読者言い落とし)と違って『同級生』では作中人物が、西原君の言い落としにやられてる(対作中人物言い落とし)と書きました。

 ここで余談的(*)に、村上春樹『ノルウェイの森』の中の対作中人物言い落としを見てみましょう。


『ノルウェイの森』では、ふつうだったら三角関係になるはずの男女三人の関係が、三角関係になっていない。何かを隠蔽するというか、真空化することによって三角関係にならない小説になっている。そこが実をいうとなかなか不思議なところなのだと思う。
 あれは「僕」がいて直子がいて、そこに緑という女の子が登場してきて、「僕」が直子を捨てる話ですよね。でも三角関係にはなっていない。ここにあるのは、どういう問題なのか。
(発言者:加藤 典洋)

村上春樹をめぐる冒険〈対話篇〉: 笠井 潔, 竹田 青嗣, 加藤 典洋: http://amzn.to/RQxgGI


 故意になにか重大なこと言わないでおくわけですね。実際の『ノルウェイの森』の該当箇所をみてみましょう。


 直子は僕の生活のことを知りたいと言った。僕は大学のテストのことを話し、それから永沢さんのことを話した。僕が直子に永沢さんの話をしたのはそれが初めてだった。彼の奇妙な人間性と独自の思考システムと偏ったモラリティーについて正確に説明するのは至難の技だったが、直子は最後には僕の言わんとすることをだいたい理解してくれた。僕は自分が彼と二人で女の子と盛り場に行くことは伏せておいた。ただあの寮において親しく付き合っている唯一の男はこういうユニークな人物なのだと説明しただけだった。そのあいだレイコさんはギターを抱えて、もう一度さっきのフーガの練習をしていた。彼女はあいかわらずちょっとした合間を見つけてはワインを飲んだりタバコをふかしたりしていた。
村上春樹『ノルウェイの森』


 加藤氏の説明を引用します。

 僕の言い方でいうと、レティサンス、故意の言い落としがここにある。
 後で、最後近く、自分は緑を愛していた、たぶんそのことはもっと前にわかっていたはずなのだ、ただその結論を回避していただけなのだ、と「僕」が語る箇所がありますが、そういうなら、このときすでに、「僕」は緑に惹かれはじめている、ただそのことは、小説の奥深く、見えない形で定置網のように沈められている。つまり三角関係的葛藤が二十歳の主人公「僕」中にないのではない。しかしそれは小説には現れない。それはないこととされている。そしてこのことは、たぶんこの小説にとって本質的な意味をもっているという感じを受けます。

村上春樹をめぐる冒険〈対話篇〉: 笠井 潔, 竹田 青嗣, 加藤 典洋: http://amzn.to/RQxgGI



 <言い落とし>が推理小説のみならず、純文学でも大きな仕掛けになっているようです。

 というわけで今回は寄り道でしました(実は重大な寄り道なんですがそれはまた後ほど。文末の(*)をご参照下さい)。

 (下)で再び『同級生』に戻ります。

つづく(o^—^)ノ




(*)「探偵小説•カチンコ問題」の、なぜ村上春樹の「謎」は解かれないのか(人間の謎、ミステリの謎|【音の風景第二別館】ゆきちゃんの創作の秘密ブログ http://amba.to/QDaLXB)にも関わってきますが、今は比較だけとします。それとこの東野圭吾シリーズで『パラレルワールド•ラブストーリー』の三角関係について書くときまたこの『ノルウェイの森』のこの部分を参照予定です。

東野圭吾『同級生』謎と倫理(下)作中人物の自意識に回収される嘘

ネタバレあり

 西原荘一がなぜああいう嘘をつき続けていったのか。西原荘一本人の言葉を聞いてみよう。




 緋絽子、と俺はもう一度呟いた。だが今度は声にならなかった。
 俺は認めなければならない。今度の一連の出来事を通じて、わざと緋絽子を苦しめようとしていたことを。由希子の妊娠の相手が自分だと名乗り出たのも、殺人事件の容疑者にされたときもなお由希子の恋人のふりをしたのも、緋絽子に見せつけるという目的を含んでのことだった。おまえのために俺はこんなひどい目にあってるんだぞ、そういう見苦しい主張をしていたわけだ。何のことはない。ふられた腹いせに嫌がらせをするのと、大差なかった。
『同級生』




えーーーーー(ノ∀`)
ちょっと待ってよ、じゃあ妊娠させて中絶のために病院に行って事故死した由希子ちゃんのことはどう考えてたのよ!?





(ふられた後)それから俺のやけっぱちの日が流れた。俺は嫌なことを忘れようと野球に熱中し、練習が終わってからもなかなか家に帰らなかった。世の中すべてに腹を立てていた。
 そんな時宮前由希子が、俺の心の隙間に入ってきたのだった。
『同級生』




 って…。おいおい¤\(๑•ૅㅁ•๑)/¤
 はっきり言ってこの真相は許せない!

 東野圭吾シリーズを始める時に私はこう書きました。

 ミステリ面白いところはいろいろありますが、私は日常世界にどっぷりつかった読者が、登場人物の(多くは犯人の)何か全く別の世界に触れて、自分が無意識に当たり前と思っていたことが、「あ、そうじゃなかったな」と思える瞬間が好きです。

 単に犯人が分かっただけじゃなくて、それまで見えていなかった何か全く別の世界が、すぅっと目の前に広がって、自分の社会常識みたいなものが揺さぶられたり、壊されたりする快感かも。

東野圭吾『魔球』謎と倫理(中)別の世界|【音の風景第二別館】ゆきちゃんの創作の秘密ブログ http://amba.to/W5eTMH




 東野圭吾作品にはこれを感じることが多いのですが、『同級生』にはまったく感じませんでした。

 読んでる途中でも、この西原荘一ってヤな男だな~と思いながら読んでたのですが、その真相を知ってイヤ!にとどめが刺された(爆)。



 「二銭銅貨」の怒りと違うのは、叙述トリックに騙された自分に戸惑いながらも、「うまくやられたな。ニヤリ( ̄▽ ̄)」という感触、つまり騙される自分も悪いな~という思いがあったのですが、この場合にはそれがありません。

 徹底的に自分のためだけに嘘を突き通して捜査を混乱させた西原荘一みたいな人物をよくぞ東野圭吾さんは書き上げたなあ、という敬意(?)で、いちおー初期傑作群というくくりにしてるんですが、『魔球』『放課後』とはちょっと違う思いです(笑)。

 この私の思いを一言でいうならば、表題の作中人物の自意識に回収される嘘ということになります。
 嘘には騙されても何か何か全く別の世界を垣間見せてくれるような嘘があるのだと思います。それは作中人物の自意識に回収されない嘘=読者に向けられた、読者を巻き込んだ嘘と言い換えられると思います。

 それが叙述トリックの可能性じゃないかなと思うのですが、それについてはまた稿を改めたいと思います。



東野圭吾『同級生』謎と倫理(下)自意識に回収される嘘

(o^—^)ノ
ゆっきー
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