大人のピアノ そのごじゅういち 朝子解放される
「武志と一緒に拉致されたお嬢さんに会わせていただきましょう」
南方は「会わせて欲しい」ではなく、当然の権利としてという表情で言った。静かな揺るぎない声だった。三浦がその口調に再び気色ばんだが、今度は藤井がそれを止めた。
「ああ、いいだろう。確かに武志は別として、武志と一緒にいたお嬢さんに関してはこちらもこれ以上ここにいていただく理由もない」
顎をしゃくるようにして藤井が三浦の隣にいた年の若い黒服の男に合図した。男は頷いて南方たちから見て左側の次の間の襖を開け放った。
武志と朝子が正座していた。二人とも極度に緊張した面持ちではあったが、何か危害を加えられた様子もなく、石橋の「何ともないのか」という声に小さく「はい」と応えた。
「昨日は食事も与えているし、風呂も自由だ。軟禁させてもらったが指一本触れちゃいない」
藤井の言葉を確かめるように石橋が目で二人に尋ねたが、二人は藤井の言葉を肯定するように頷いた。
「藤井さん」南方が藤井に語りかけた。
「ああ」
「あんたたちの早とちりのおかげで関係のない方を巻き込んでしまった。これについてはきちんと筋を通してもらいたい」
「筋を通すとは」
「まずはこのお嬢さんにきちんと詫びをいれていただきたい」
「うむ」
藤井はそれにはこだわりはないようだった。素人衆を巻き込んでの今回の強行に関しては、この世界の常識から言っても、本来藤井組のような歴史ある組織がやることではない。メンツの生き物のヤクザではあるが、ここで朝子に頭を下げるということは今回は止むを得ないところであった。
藤井がさっきの襖を開けた若者の方に歩み寄り、いきなりその若者を蹴り倒して朝子の前にひざまずかせた。
「お嬢ちゃん、こちらの早とちりので申し訳なかったね。完全にこちらの勘違いだったようだ。こいつの顔は覚えてるかね」
藤井は若者の頭をつかんで畳に擦り付けるようにして土下座させた。朝子は震えながら武志にしがみついた。
「こいつが昨日の実行犯だ。私も一緒にお嬢ちゃんにお詫びをする。悪かったね」
「申し訳ございませんでした」
手をついたまま強面の若者が大音声で朝子に詫びをいれた。どうしたらよいのかかえって恐怖にかられた朝子は目の合った石橋に救いを求めた。
石橋は朝子にツカツカと歩み寄り、中腰になって朝子に謝った藤井に対して「お嬢さんを自宅にお帰しして構いませんね」と言った。
「ああ」
藤井は短くそう言って再び日本武尊の真下の上座に戻った。
南方は石橋と目を合わせ、お互いに頷きあうと石橋はそのまま朝子を連れて大広間の襖を開けて外に出た。石橋はまず朝子を篠崎邸に送り届けるつもりだ。朝子は何度も武志を振り返ったが、そのたびに武志は「大丈夫」と口を動かした。
「さてと、じゃあお次だな。予定より早くなったが本題に入ろうじゃないか」
「ええ。しかしこの人数はいらんでしょう」
南方はあごで男たちをしゃくって睨みつけた。
「うむ。まあいいだろう」
藤井は三浦に合図して男たちを下がらせた。三浦はなお不満気な目を南方に鋭く向けたが、最後に黙礼をして部屋を退出した。
大広間には、藤井、南方、武志の三人が残された。
つづく
大人のピアノ そのごじゅうに ヤクザのけじめ
「武蔵小杉まで一時間弱で到着いたします」
黒塗りのセンチュリーの後部座席に案内された朝子は、横に乗った石橋にそう告げられた。運転手はたしか台湾屋台で武志と朝子を守ろうとして果たせなかった青年だ。
海神交差点から船橋インターに乗る時に、石橋が「一ノ橋ジャンクションを抜けて荏原で降りてすぐ武蔵小杉です」と教えてくれたのでこの車が確かに武蔵小杉方面に向かっていることが実感できた。大きな体といかつい顔つきにもかかわらず、そういう気遣いをしてくれる石橋は朝子にあまり怖さを感じさせなかった。
「武志さん、このあとどうなるんでしょうか」
大きめの膝掛けを腰から下に包むようにして少し背を丸めた朝子は、さっき別れた武志のことが気になって仕方がなかった。「大丈夫だよ」なんども口はそう動いたが、あの状況で大丈夫なわけがないという気がした。
「南方がいますので、すぐにどうこうということはありません。予定より早くなってしまいましたがあれは想定内のシーンではあります」石橋は静かに言った。
「そうなんですか…」
「武志自身は堅気ですからね。最終的にやくざ者のケジメの付け方を強要されることはありません」
「やくざ者のケジメ?」
「ええ、まあお嬢さんにはどぎつい話ですが、素人さんが考えがちな指を詰めるとか片腕落とすとか、埋められるとかね」
石橋はつとめて明るく笑いながら言った。朝子は武志がそうなるかもしれない、と武蔵小杉の篠崎邸で言っていたことが否定されて驚いた。
「そうなんですか?」
「ええ。武志がそんなこと言ってましたか」
「はい」
「そうですか」
石橋は静かに薄く剃り残したあごひげをジャリっと撫でた。
「武志がそう言ったのはもちろんお嬢さんを脅かすためでも同情を引くためでもありません。実際武志はその覚悟でいるんでしょう」
「はい。そのようでした」
「うむ、あいつらしいです。しかし武志自身はそういうことはありませんからお嬢さんもそこは心配なさらなくて結構ですよ」
石橋はそう言って柔和な顔で笑った。
「…あの、今武志"自身は"って言いましたよね」
「はい」
「じゃあ他に…」
「南方が最終的なケジメをつけることになるでしょう」
「え!?」
「ただ、藤井と南方は六四の盃で藤井が上とはいえ南方は蜷川会の直系です。しかも身内ないの喧嘩ですから、東京湾に沈むなんてことはあり得ません。直接手を下したわけでもなく監督不行き届きですから、せいぜいこじれて腕一本」
「腕が…」朝子は震えた。
「普通は指でおさまるでしょう」
「指…」
石橋は朝子の震えには気がつかない様子で話をおしまいまで続けた。
「ところが、今回の件に限らず藤井と南方は前から反目し合ってます。こんなことお嬢さんにお話してもしょうがないのですが、歴史ある藤井組と大きな後ろ盾のある新興の南方組。水と油なんですよ」
「はい」
「まあ、ここでこれ以上詳しい話はしませんが、普段の鬱憤を晴らすようにして藤井が南方と武志にあれこれ言ってくるのは間違いないでしょう」
「…というと」朝子はおさまりかかった動悸が再び早鐘のようの鳴り出すのを感じた。
「例えば南方が懸念していたのは、武志が極道のケジメを取れないのならばいっそ正式に武志を組に入れた上でケジメをつけさせろ、とか…いかにも言いそうですね、あの藤井なら」
「武志さんが正式に…」
「ええ。そうなると当事者だしなんの力も持っていない、ただ南方のお気に入りというだけの武志のケジメの付け方は、利き腕一本というところが妥当でしょう」
朝子が震え上がってむせるのを聞いて、石橋は初めてさっきから朝子が膝掛けの角をよじるように握りしめていたことに気がついた。
「あ、失礼しました。少し話しすぎたようです」
石橋は頭を下げてそのまま黙った。
「そういうことってあるんでしょうか」
少し落ち着いた朝子が石橋に訊いた。
「そういうこと、といいますと」
「武志さんが正式に…」
「武志の性格から言って南方の指落とさせるならば自分の腕、と…」
「そんな」
「多分藤井はそういう武志の性格も読んだ上で、ネチネチと締め上げてくるでしょう」
石橋は険しい顔をした。
朝子は膝掛けの角をきつく握りしめることで、かろうじて眩暈を押さえ込んだ。
つづく
大人のピアノ そのごじゅうさん 刑事の影
「ありがとうございます。お疲れ様でした」
篠崎は昼過ぎに思いがけなくも早く帰宅した朝子と送ってくれた石橋を玄関口に迎え、石橋と硬く握手をした。武志と南方の姿がないのが気になったが、とにかくも二人を家に入れた。
「本当にありがとうございました」
冴子もソファに座ってもらった石橋に深々と頭を下げた。
石橋は「こちらこそ、とんでもない事件にお嬢さんを巻き込んでしまい、申し訳ありませんでした」と手をついた。
「ともかく朝子は少し休みなさい。いろんなことはお前が一眠りして目が覚めたらゆっくり聞くとしよう」
朝子は冴子に肩をだかれ、二回の自分の部屋に向かった。リビングを出る時に石橋の方を振り返って「武志さんのことよろしくお願いします」と言った。
石橋はしっかりと「分かってます」と答えた。
「昨日は眠れなかったでしょう」
石橋が篠崎に語りかけると篠崎は苦笑して、向こうのテーブルの上の泡盛の『島唄』というボトルを指した。
「寝酒にと友達にもらってきたんですがね、眠れないままほとんど飲んでしまいました。女房には『朝子が大変な思いでいるのにお酒なんかで紛らわせて』ってかなり怒られたんですが、面目次第もありません」
結局昨日は平林が帰り際にあまりにも元気のない篠崎に、「奥さんとご相談の上」と苦笑しながらレジのお土産用泡盛を持たせたのだった。
「いやまあ、お気持ちはわかります」石橋も苦笑した。
「石橋さん、歯が…」苦笑した石橋の前歯が数本欠けていたのに篠崎は気がついた。
「ああ、久しぶりに喧嘩しました。といっても殴られただけで我慢してましたが」
「申し訳ありません」
「いえ、篠崎さんが謝らなくてもいいですよ。ある意味前歯が欠けるのも職業病みたいなものです。もっともこの前こんな風になったのがいつだったかは忘れましたが」
石橋は苦笑いをした。篠崎はもう一度頭を下げた。
「ところで武志君は…」
「少しもめそうだったので、南方が今お嬢さんの帰宅と分けて対応しています」
石橋はそう言って、車の中で朝子にさわりだけ聞かせた普段からの藤井組と南方組の因縁や責任の取り方などについて今度は詳しく説明をした。
「難しいものですね」
篠崎にはそれしか言葉が見つからなかったが、南方と石橋の苦労を察して頭が下がる思いだった。
30分ほど説明したあと、石橋はこの場から斎藤氏にも連絡したいと言った。
篠崎は昨晩斎藤氏と電話で話し、当初の予定に合わせて夜斎藤氏がここに再び訪れ、武志と朝子を迎えようという段取りにしてあった。予定が変わったので、篠崎もその連絡をしないといけないと思っていたところだった。
篠崎が斎藤のケータイに自分のケータイから電話をかけた。
「もしもし」
よそ行きの声がしたので、斎藤はまだ仕事中のようだった。昨晩の話では今日の夕方から休暇がとれる段取りらしかった。篠崎は事情を簡単に説明した。斎藤氏はただ事務的に「はい」を繰り返した。篠崎はすぐに石橋に電話を替わった。
しばらく話をしていた石橋はやがて通話を切り、ケータイを篠崎に返してよこした。
「斎藤さんが帰宅できるのが夕方ということでしたので、私はこの足で自由が丘の斎藤家におじゃますることとなりました」
「そうですか、ではなつみ先生も直接事情を聞けるわけですね」
「はい。斎藤さんもそのようにおっしゃってました。奥様も話を聞きたがっていると」
「それはそうでしょうね」
篠崎は京都の旧家の出だという武志となつみ先生のお母さんを想像し、さぞかしまいっていることだろうとその心痛を察した。
「それではまたご連絡いたします」
「私からもご連絡させていただきます」
篠崎はそう言って玄関口に石橋を見送った。
篠崎の家の前に路駐してあったセンチュリーがゆっくりと東京方面に消えて行った。
しかしその車を電柱の影から見送った二人組の男がいたことに石橋も運転手の若い衆も気がついていなかった。
二人は一昨日篠崎となつみ先生の事情聴取を行った刑事だった。
つづく
大人のピアノ そのごじゅうよん 武志の母
「どうぞ、お入りください」
センチュリーを運転してきた若い衆が石橋の到着を告げると、インターフォン越しになつみ先生の声がして、ガチャリと門のロックが外れた。
若い衆は後部座席を開いて石橋を降ろした。
「言ってらっしゃいませ」
深々とお辞儀をした若い衆は再び運転席に戻り、路駐で警察に職質されぬようセンチュリーを大通りに回した。
「先日は失礼いたしました」
玄関の内側からなつみ先生が沈痛な表情で石橋を招き入れた。父親から武志の帰宅が篠崎家の朝子よりも遅れる旨は聞いている。石橋も無言で頷いて二人は家の中に消えた。
しんとした古い洋館の廊下を案内された石橋は、廊下の奥の広々とした応接間に通された。家全体の外観も古い格式ある風情を醸し出していたが、廊下正面に飾ってある号数の大きな印象派の絵画や、重量感のある部屋のドア、室内の重厚感のある調度品などそのどれもが長年に渡って斎藤家の個性を形作ってきた様子が感じられた。
「父はまだ役所から帰宅しておりませんが、もうあと一時間もしないで帰れると先ほど電話がありました」
「はい。お待ちいたします」
なつみ先生が出してくれた熱いお茶の蓋をずらして、石橋がとりあえず喉を潤す。口に含んだ瞬間折れた前歯に激しい痛みが走ったが、事情を知らないなつみ先生の前で石橋はポーカーフェースを通した。
「今、母が参りますので少々お待ちください」なつみ先生はそう言って一旦席を立った。
程なくして部屋のドアが開き、武志の母親が現れた。
「この度は武志が大変にご迷惑なことをいたしまして」
小柄だが落ち着いた雰囲気の和服を着た武志の母親は、石橋に対してとりあえずは非難めいたそぶりは一切なく、柔和な顔をして口元に笑みを作って言った。
石橋はその気品すら感じさせる武志の母親の物腰に深く感銘の念を抱きながら、立ち上がって深々とお辞儀をした。
「とんでございません。こちらこそ大切なご子息をお預かりしていながらこれまでご挨拶もせずに、お初にお目にかかるのがこうした仕儀となってしまい面目次第もございません」
母親はそれに対して静かに石橋を見下ろしながら無言で軽く頷いた。それは石橋を非難するでもなく、へりくだった相槌を打つ様子でもなくただ、深い目で頷いただけであった。それはちょうど重大な報告を受けた殿様が家臣に対して「大儀であった」と頷く様に似ていた。家臣の方ではいったい自分の言葉を殿様がどう受け取ったのか気になって仕方が無い、あの深々とした目と、いかようにでも解釈できてしまう無言の頷き。
普段から人間の格の上下に肌感覚で生きている石橋は、このときはっきりと自分がこの武志の御母堂の下であることを意識した。そして、石橋にとってその感覚は南方に対して感じるような心地よいものであった。
「お疲れのこととは存じますが、主人が帰宅するまでお話は少しお待ちください」
「はい」石橋は心持ち下を向きながら、頷いた。
「なつみ」母親がなつみ先生に声を掛ける。
「はい。お母様」
「石橋さんに氷をお持ちしなさい」
「え?」
なつみ先生が石橋の顔を見る。かたや石橋はその意味を確かめるため、母親の顔を見上げた。
「石橋さん、武志のためにお怪我なさってますね」
「は?」
「いえ、いいんですのよ。あまり口をお開きにならないようになさってましたが、前歯のあたりがずいぶん腫れてらっしゃる」
石橋はびっくりした。不自然でないように欠けた前歯を隠していたのだが、そのことを母親はとっくにお見通しだったのである。
「あ、気がつきませんで大変失礼いたしました」
なつみ先生は立ち上がって急いでドアに向かった。
「待ちなさい、なつみ」
「はい」
「あなたがお出ししたこの熱いお茶を下げて、冷たいものをお持ちしなさい」
「ごめんなさい!あたし…」なつみ先生が少し赤い顔をして急いで石橋の前のお茶を下げた。
「すみませんですねぇ」
母親は昔からの斎藤家の客人をもてなすような表情でニッコリと石橋に笑いかけた。
石橋はただただ恐縮して黙って頭を下げるのみであった。
つづく