大人のピアノ そのごじゅうさん 刑事の影
「ありがとうございます。お疲れ様でした」
篠崎は昼過ぎに思いがけなくも早く帰宅した朝子と送ってくれた石橋を玄関口に迎え、石橋と硬く握手をした。武志と南方の姿がないのが気になったが、とにかくも二人を家に入れた。
「本当にありがとうございました」
冴子もソファに座ってもらった石橋に深々と頭を下げた。
石橋は「こちらこそ、とんでもない事件にお嬢さんを巻き込んでしまい、申し訳ありませんでした」と手をついた。
「ともかく朝子は少し休みなさい。いろんなことはお前が一眠りして目が覚めたらゆっくり聞くとしよう」
朝子は冴子に肩をだかれ、二回の自分の部屋に向かった。リビングを出る時に石橋の方を振り返って「武志さんのことよろしくお願いします」と言った。
石橋はしっかりと「分かってます」と答えた。
「昨日は眠れなかったでしょう」
石橋が篠崎に語りかけると篠崎は苦笑して、向こうのテーブルの上の泡盛の『島唄』というボトルを指した。
「寝酒にと友達にもらってきたんですがね、眠れないままほとんど飲んでしまいました。女房には『朝子が大変な思いでいるのにお酒なんかで紛らわせて』ってかなり怒られたんですが、面目次第もありません」
結局昨日は平林が帰り際にあまりにも元気のない篠崎に、「奥さんとご相談の上」と苦笑しながらレジのお土産用泡盛を持たせたのだった。
「いやまあ、お気持ちはわかります」石橋も苦笑した。
「石橋さん、歯が…」苦笑した石橋の前歯が数本欠けていたのに篠崎は気がついた。
「ああ、久しぶりに喧嘩しました。といっても殴られただけで我慢してましたが」
「申し訳ありません」
「いえ、篠崎さんが謝らなくてもいいですよ。ある意味前歯が欠けるのも職業病みたいなものです。もっともこの前こんな風になったのがいつだったかは忘れましたが」
石橋は苦笑いをした。篠崎はもう一度頭を下げた。
「ところで武志君は…」
「少しもめそうだったので、南方が今お嬢さんの帰宅と分けて対応しています」
石橋はそう言って、車の中で朝子にさわりだけ聞かせた普段からの藤井組と南方組の因縁や責任の取り方などについて今度は詳しく説明をした。
「難しいものですね」
篠崎にはそれしか言葉が見つからなかったが、南方と石橋の苦労を察して頭が下がる思いだった。
30分ほど説明したあと、石橋はこの場から斎藤氏にも連絡したいと言った。
篠崎は昨晩斎藤氏と電話で話し、当初の予定に合わせて夜斎藤氏がここに再び訪れ、武志と朝子を迎えようという段取りにしてあった。予定が変わったので、篠崎もその連絡をしないといけないと思っていたところだった。
篠崎が斎藤のケータイに自分のケータイから電話をかけた。
「もしもし」
よそ行きの声がしたので、斎藤はまだ仕事中のようだった。昨晩の話では今日の夕方から休暇がとれる段取りらしかった。篠崎は事情を簡単に説明した。斎藤氏はただ事務的に「はい」を繰り返した。篠崎はすぐに石橋に電話を替わった。
しばらく話をしていた石橋はやがて通話を切り、ケータイを篠崎に返してよこした。
「斎藤さんが帰宅できるのが夕方ということでしたので、私はこの足で自由が丘の斎藤家におじゃますることとなりました」
「そうですか、ではなつみ先生も直接事情を聞けるわけですね」
「はい。斎藤さんもそのようにおっしゃってました。奥様も話を聞きたがっていると」
「それはそうでしょうね」
篠崎は京都の旧家の出だという武志となつみ先生のお母さんを想像し、さぞかしまいっていることだろうとその心痛を察した。
「それではまたご連絡いたします」
「私からもご連絡させていただきます」
篠崎はそう言って玄関口に石橋を見送った。
篠崎の家の前に路駐してあったセンチュリーがゆっくりと東京方面に消えて行った。
しかしその車を電柱の影から見送った二人組の男がいたことに石橋も運転手の若い衆も気がついていなかった。
二人は一昨日篠崎となつみ先生の事情聴取を行った刑事だった。
つづく
大人のピアノ そのごじゅうよん 武志の母
「どうぞ、お入りください」
センチュリーを運転してきた若い衆が石橋の到着を告げると、インターフォン越しになつみ先生の声がして、ガチャリと門のロックが外れた。
若い衆は後部座席を開いて石橋を降ろした。
「言ってらっしゃいませ」
深々とお辞儀をした若い衆は再び運転席に戻り、路駐で警察に職質されぬようセンチュリーを大通りに回した。
「先日は失礼いたしました」
玄関の内側からなつみ先生が沈痛な表情で石橋を招き入れた。父親から武志の帰宅が篠崎家の朝子よりも遅れる旨は聞いている。石橋も無言で頷いて二人は家の中に消えた。
しんとした古い洋館の廊下を案内された石橋は、廊下の奥の広々とした応接間に通された。家全体の外観も古い格式ある風情を醸し出していたが、廊下正面に飾ってある号数の大きな印象派の絵画や、重量感のある部屋のドア、室内の重厚感のある調度品などそのどれもが長年に渡って斎藤家の個性を形作ってきた様子が感じられた。
「父はまだ役所から帰宅しておりませんが、もうあと一時間もしないで帰れると先ほど電話がありました」
「はい。お待ちいたします」
なつみ先生が出してくれた熱いお茶の蓋をずらして、石橋がとりあえず喉を潤す。口に含んだ瞬間折れた前歯に激しい痛みが走ったが、事情を知らないなつみ先生の前で石橋はポーカーフェースを通した。
「今、母が参りますので少々お待ちください」なつみ先生はそう言って一旦席を立った。
程なくして部屋のドアが開き、武志の母親が現れた。
「この度は武志が大変にご迷惑なことをいたしまして」
小柄だが落ち着いた雰囲気の和服を着た武志の母親は、石橋に対してとりあえずは非難めいたそぶりは一切なく、柔和な顔をして口元に笑みを作って言った。
石橋はその気品すら感じさせる武志の母親の物腰に深く感銘の念を抱きながら、立ち上がって深々とお辞儀をした。
「とんでございません。こちらこそ大切なご子息をお預かりしていながらこれまでご挨拶もせずに、お初にお目にかかるのがこうした仕儀となってしまい面目次第もございません」
母親はそれに対して静かに石橋を見下ろしながら無言で軽く頷いた。それは石橋を非難するでもなく、へりくだった相槌を打つ様子でもなくただ、深い目で頷いただけであった。それはちょうど重大な報告を受けた殿様が家臣に対して「大儀であった」と頷く様に似ていた。家臣の方ではいったい自分の言葉を殿様がどう受け取ったのか気になって仕方が無い、あの深々とした目と、いかようにでも解釈できてしまう無言の頷き。
普段から人間の格の上下に肌感覚で生きている石橋は、このときはっきりと自分がこの武志の御母堂の下であることを意識した。そして、石橋にとってその感覚は南方に対して感じるような心地よいものであった。
「お疲れのこととは存じますが、主人が帰宅するまでお話は少しお待ちください」
「はい」石橋は心持ち下を向きながら、頷いた。
「なつみ」母親がなつみ先生に声を掛ける。
「はい。お母様」
「石橋さんに氷をお持ちしなさい」
「え?」
なつみ先生が石橋の顔を見る。かたや石橋はその意味を確かめるため、母親の顔を見上げた。
「石橋さん、武志のためにお怪我なさってますね」
「は?」
「いえ、いいんですのよ。あまり口をお開きにならないようになさってましたが、前歯のあたりがずいぶん腫れてらっしゃる」
石橋はびっくりした。不自然でないように欠けた前歯を隠していたのだが、そのことを母親はとっくにお見通しだったのである。
「あ、気がつきませんで大変失礼いたしました」
なつみ先生は立ち上がって急いでドアに向かった。
「待ちなさい、なつみ」
「はい」
「あなたがお出ししたこの熱いお茶を下げて、冷たいものをお持ちしなさい」
「ごめんなさい!あたし…」なつみ先生が少し赤い顔をして急いで石橋の前のお茶を下げた。
「すみませんですねぇ」
母親は昔からの斎藤家の客人をもてなすような表情でニッコリと石橋に笑いかけた。
石橋はただただ恐縮して黙って頭を下げるのみであった。
つづく
大人のピアノ そのごじゅうご 南方と御母堂
斎藤氏が霞が関から帰ってくるまでの小一時間、石橋は武志の母親に請われるまま主に南方について話をしていた。南方はもともと自ら多くを語らぬ人間ではあったが、それでも石橋は改めて話をすることによって、もう数十年の付き合いになる南方という人間の魅力を再確認していた。母親はまことに聞き上手であり、その聞き上手は話をしている石橋すら気がつかなかった南方という人間を浮き彫りにした。石橋にとってそれはえも言われぬ幸せな時間であった。
しかしその母親の巧みな合いの手中に、石橋はあるかすかな傾向性を感じていた。それは母親のふとした間の取り方、相槌のニュアンス、控えめな問いかけの中に時折現れた。石橋はそうしたこと感じ取っていることの気配を注意深く消し、ごく自然を装って答えている間に、その傾向性の正体がどうやら南方の幼年時代、ピアノをやり始めたころの周りをぐるぐると巡っていることに気がついた。
『<御母堂はひょっとして南方の幼少時代に何か関わりがあったのか>』
石橋はそのもやもやの正体を掴むべく、自分の方からも話をそこに誘導していった。そしてついに一言こう言った。
「南方はもともと関西の出身なのですよ」
少しの間沈黙があった。
「関西はどちらですか」
母親は京都訛りの語尾でさりげなく訊ねる。
「生まれは奈良ですぐに京都に移ったそうです」
「そうですか」
母親の目の奥に何かが動いたように石橋は感じた。
「その地でひょんなことから京都の旧家に出入りするようになり、そこでピアノに触る機会があったと、そんなことを申しておりました」
石橋はそう言った。しかしそれは嘘だった。京都で懇意にさせてもらった家がありそこでピアノを弾く機会を得たというのは本当だったが、南方は「旧家」とは言っていなかった。
「何という家かはおっしゃってましたか」
この質問は明らかに話の合いの手としては踏み込みすぎていた。石橋は自分の作ったその「旧家」が母親の家であること確信した。
「いえ、そこまでは聞いておりません」
「そうですか…」
結局この話はここでお流れとなり、話はまた別に移った。
石橋は母親の話ぶりから、このことは夫の斎藤氏はまったく知らぬことだということを悟った。おそらく母親は武志やなつみ先生から間接的に聞いた「南方」なる名前に何かを感じたのだが、それを誰かに言うことはなかった。そこにどんな事情があるのかは分からないが、自分の方からは斎藤氏の帰宅の後もこの話題には触れぬようにしようと思った。
今座っている応接間の入り口にはグランドピアノがおいてある。その奥には母親がピアノを弾いているかなり古い写真が飾ってあった。
『<もしかすると南方に最初にピアノを教えたのはこの御母堂ではあるまいか>』
石橋はあまりに突飛な考えであると頭では否定しながらも、今はまたもとの上品な穏やかな目に戻っている母親の瞳の奥に、さっき感じた別の揺らめきを再び思い起こした。
つづく
大人のピアノ そのごじゅうろく 斎藤の帰宅
「失礼します」
氷と冷たいお茶を淹れたあと席を外していたなつみ先生が、ドアをノックして新しいお茶と氷を持ってきた。
「たったいまお父さん帰ってきたわ。着替えてすぐにこっち来るって」
「あら、やっと帰ってきたわ。お待たせして申し訳ございませんでした」
母親は予定の一時間を半時ほど過ぎた時刻を示している柱時計の長針と短針に責を問うような視線を投げたあと、石橋にゆっくりと頭を下げた。
石橋にはそれが夫の帰宅が遅れたことの詫びだけでなく、自分が聞きたかった南方の話に付き合ってくれた礼のように感じられた。
「石橋さん、すみません。お待たせしちゃって」
そこに斎藤氏がドアを開けて入ってきた。ラフなポロシャツだったが、胸にタイトリストのロゴが刺繍してある。七分丈の淡いチェック柄のパンツもゴルフウェアを普段着用にしたもののようだった。
「この度は初めてのご挨拶が大変面倒な話になってしまい、大変恐縮しております」
石橋は立ち上がって挨拶をした。
「いえ、こちらこそ世間を知らぬ息子が大変ご迷惑をおかけして申し訳なく思っております」
斎藤氏は「ま、おかけください」と言って自分も座った。
「とりあえずは、今我々にできることは南方さんの結果を待つことだけでしょう。こうなってしまった以上はここであれこれ次のことを考えても始まらないと私は思います」
座っていきなりの斎藤氏の歯切れの良い直截な物言いに石橋は頷いた。
いろいろなことを話し合う必要ががありそうに見えて、この場合それは実はあまり重要ではない。賽は投げられた状態であり、手持ちの情報としては石橋が篠崎宅から斎藤氏に電話した以上のことは何もなかった。むしろ重要なのはこれからの難局に向かって、お互い腹を割って胸の内を見せ合うことであった。
頷く石橋の目を見て、斎藤氏も石橋が同じ考えを持っていることを確認した。
「うん。なら一杯やりながら話をしましょう。ヤクザ渡世の話とか外務省渡世の話とか。案外ね、じつはヤクザの世界と外務省は似てるんじゃないかな、とか思うんですよ、私は。組織もそうだし実はやってることなんかも。あと問題のある人のタイプとかね」
愉快そうに笑い声を上げた斎藤氏の目配せを受けた武志の母親は、酒と肴の用意のためお辞儀をしてすっと立ち上がった。
部屋を出る時に武志の母親は、グランドピアノの奥の自分のピアノを弾いている写真にそっと一瞬目をやったように石橋には思えた。
つづく