大人のピアノ そのごじゅうご 南方と御母堂
斎藤氏が霞が関から帰ってくるまでの小一時間、石橋は武志の母親に請われるまま主に南方について話をしていた。南方はもともと自ら多くを語らぬ人間ではあったが、それでも石橋は改めて話をすることによって、もう数十年の付き合いになる南方という人間の魅力を再確認していた。母親はまことに聞き上手であり、その聞き上手は話をしている石橋すら気がつかなかった南方という人間を浮き彫りにした。石橋にとってそれはえも言われぬ幸せな時間であった。
しかしその母親の巧みな合いの手中に、石橋はあるかすかな傾向性を感じていた。それは母親のふとした間の取り方、相槌のニュアンス、控えめな問いかけの中に時折現れた。石橋はそうしたこと感じ取っていることの気配を注意深く消し、ごく自然を装って答えている間に、その傾向性の正体がどうやら南方の幼年時代、ピアノをやり始めたころの周りをぐるぐると巡っていることに気がついた。
『<御母堂はひょっとして南方の幼少時代に何か関わりがあったのか>』
石橋はそのもやもやの正体を掴むべく、自分の方からも話をそこに誘導していった。そしてついに一言こう言った。
「南方はもともと関西の出身なのですよ」
少しの間沈黙があった。
「関西はどちらですか」
母親は京都訛りの語尾でさりげなく訊ねる。
「生まれは奈良ですぐに京都に移ったそうです」
「そうですか」
母親の目の奥に何かが動いたように石橋は感じた。
「その地でひょんなことから京都の旧家に出入りするようになり、そこでピアノに触る機会があったと、そんなことを申しておりました」
石橋はそう言った。しかしそれは嘘だった。京都で懇意にさせてもらった家がありそこでピアノを弾く機会を得たというのは本当だったが、南方は「旧家」とは言っていなかった。
「何という家かはおっしゃってましたか」
この質問は明らかに話の合いの手としては踏み込みすぎていた。石橋は自分の作ったその「旧家」が母親の家であること確信した。
「いえ、そこまでは聞いておりません」
「そうですか…」
結局この話はここでお流れとなり、話はまた別に移った。
石橋は母親の話ぶりから、このことは夫の斎藤氏はまったく知らぬことだということを悟った。おそらく母親は武志やなつみ先生から間接的に聞いた「南方」なる名前に何かを感じたのだが、それを誰かに言うことはなかった。そこにどんな事情があるのかは分からないが、自分の方からは斎藤氏の帰宅の後もこの話題には触れぬようにしようと思った。
今座っている応接間の入り口にはグランドピアノがおいてある。その奥には母親がピアノを弾いているかなり古い写真が飾ってあった。
『<もしかすると南方に最初にピアノを教えたのはこの御母堂ではあるまいか>』
石橋はあまりに突飛な考えであると頭では否定しながらも、今はまたもとの上品な穏やかな目に戻っている母親の瞳の奥に、さっき感じた別の揺らめきを再び思い起こした。
つづく
大人のピアノ そのごじゅうろく 斎藤の帰宅
「失礼します」
氷と冷たいお茶を淹れたあと席を外していたなつみ先生が、ドアをノックして新しいお茶と氷を持ってきた。
「たったいまお父さん帰ってきたわ。着替えてすぐにこっち来るって」
「あら、やっと帰ってきたわ。お待たせして申し訳ございませんでした」
母親は予定の一時間を半時ほど過ぎた時刻を示している柱時計の長針と短針に責を問うような視線を投げたあと、石橋にゆっくりと頭を下げた。
石橋にはそれが夫の帰宅が遅れたことの詫びだけでなく、自分が聞きたかった南方の話に付き合ってくれた礼のように感じられた。
「石橋さん、すみません。お待たせしちゃって」
そこに斎藤氏がドアを開けて入ってきた。ラフなポロシャツだったが、胸にタイトリストのロゴが刺繍してある。七分丈の淡いチェック柄のパンツもゴルフウェアを普段着用にしたもののようだった。
「この度は初めてのご挨拶が大変面倒な話になってしまい、大変恐縮しております」
石橋は立ち上がって挨拶をした。
「いえ、こちらこそ世間を知らぬ息子が大変ご迷惑をおかけして申し訳なく思っております」
斎藤氏は「ま、おかけください」と言って自分も座った。
「とりあえずは、今我々にできることは南方さんの結果を待つことだけでしょう。こうなってしまった以上はここであれこれ次のことを考えても始まらないと私は思います」
座っていきなりの斎藤氏の歯切れの良い直截な物言いに石橋は頷いた。
いろいろなことを話し合う必要ががありそうに見えて、この場合それは実はあまり重要ではない。賽は投げられた状態であり、手持ちの情報としては石橋が篠崎宅から斎藤氏に電話した以上のことは何もなかった。むしろ重要なのはこれからの難局に向かって、お互い腹を割って胸の内を見せ合うことであった。
頷く石橋の目を見て、斎藤氏も石橋が同じ考えを持っていることを確認した。
「うん。なら一杯やりながら話をしましょう。ヤクザ渡世の話とか外務省渡世の話とか。案外ね、じつはヤクザの世界と外務省は似てるんじゃないかな、とか思うんですよ、私は。組織もそうだし実はやってることなんかも。あと問題のある人のタイプとかね」
愉快そうに笑い声を上げた斎藤氏の目配せを受けた武志の母親は、酒と肴の用意のためお辞儀をしてすっと立ち上がった。
部屋を出る時に武志の母親は、グランドピアノの奥の自分のピアノを弾いている写真にそっと一瞬目をやったように石橋には思えた。
つづく
大人のピアノ そのごじゅうなな 石橋の見通し
「なるほど、藤井組の組長さんが武志の店にちょくちょく嫌がらせに出向くのはそういう背景があるんですか」
斎藤氏は石橋に歴史ある藤井組と新興の南方組の確執の説明を聞いて納得がいったようだった。
「まあ、どこの組織にもある内部の派閥争いみたいなものでしょうか。いや、というよりも最近はやりの企業合併に似てますね」
石橋は斎藤氏にウイスキーの水割りをすすめられていたが口にはしていなかった。「南方から連絡が入るまでは」という固辞に斎藤も無理強いはしなかった。
「企業合併ですか」
「ええ。資本力のある蜷川会が有力な地元の地場産業の雄を飲み込んだ。もちろん地場産業側でも本社のネットワークと信用力が欲しかった。よくある話ですね」
「なるほど。分かりやすいたとえですな」
「南方は藤井組の外様大名、社外取締役みたいなものです」
「ふむ。本社からのお目付役。これも親会社と子会社関係と同じだ。内部監査という機能の遂行が権力の上下関係を規定する」
「そうです。警察用語でいう『上納金』も一円単位でしっかり会計処理されています」
「一円単位ですか?」
「はい。もちろん日々のシノギに関してまで本部が口を出すことはありませんが。しかし例えば本部の幹部会で、藤井組の最近の資金の流れがおかしいから調査せよ、と決まれば会計帳簿を監査します」
「監査!まさに公認会計士がやるような会計業務だ。」
斎藤氏は新鮮な驚きを禁じ得ないようだったが、石橋の次の一言にはただうなるより他なかった。
「蜷川会ではそういった業務には公認会計士資格を持った大卒の組員が任務に当たります」
「うわあ、いや…それは驚いた…」
「そうですね。五年ほど前義理ある先生からの紹介で断れず、NHKの報道番組の特集でその部分の取材を受けたんですが、対応したのが蜷川会の会計士でした。顔モザイク掛けて音声処理して30秒ほど番組に使われてました」
「やはりそういう時は顔が出さずに…」
「ええ。彼らは職務柄公認会計士協会などの表の付き合いもありますからね。まあ協会で調べれば分かることではありますが、控えめにといわけです」石橋は面白そうに笑いながら言った。
「うーむ。そうすると当たり前ですが藤井組でも財務関係の帳簿がきっちり用意されていると…」
「それが本部登録する時の条件なんですよ。書面にもしてあります」
「財務関連の書類整備とその提出義務みたいなものですか」
「ええ。それを見れば、急激に不明な資金が膨張しているとかも分かるわけです。そこを糾せば蜷川会が厳禁にしている麻薬の流通に密かに関わっているとか、そういった事実もそこから明らかになるケースもあります」
「なるほどねぇ」
「逆に、この財務状況でこの人数の組員が養えるわけがないとかも判明します」
「そういう場合はどうするんですか」
「まずは組長のヒアリングですね。窮鼠猫を噛むじゃないですが上納金を収めるために若い衆にやばい仕事をやらせたりなどのパワーハラスメントが起きたりしてないかとか…」
「ええ!パワハラ管理まで!?」
「いえ、そこまで口を出すのはもうよっぽどの場合、解散が見え始めたような弱体化した組の場合だけです。そういう組の若い衆が一発逆転を企んで危ない橋を渡りそれが蜷川会本体に損害を与えないようにという危機管理です」
「口を出される方には拒絶反応があるでしょうね」
「それがまさに、藤井組の不満なんですよ」
「ああ、なるほど~」斎藤氏は膝を打って再び唸った。
「もちろん藤井組は本部から監査が入るような組織じゃありません。超優良団体なわけですが…」
「分かりますよ。傘下には入ったがまさかここまで管理されるとは思ってもみなかった」
「そういうことです。それで溜まった鬱憤を南方の店にきて晴らすというのが行動のパターンになってしまったわけなんですよ。ご子息の武志さんはそのなかに巻き込まれたというのが今回の騒動の全体的な構造です」
「非常によくわかります」
斎藤氏は少し職業的な外交官の表情を浮かべて頷いた。
「ですのでチンピラ同士の喧嘩と違ってやられたからやり返す、みたいなことではないんですね。従ってもうお気づきだとは思いますが、武志君はその駆け引きの一つのカードになってしまっているわけです。お父様のご職業でいうところの外交上のカードです。ですので外から見ているほどには実は武志君の身柄は危険ではない、と私は判断しております。藤井の下の少々頭の足りない人間がどう考えているかは別として…」
石橋は説明の核心部分に入っていた。外交官の斎藤氏に対して武志のおかれた立場を説明する石橋は、さながらもう一人の外交官のようだった。
「つまり、南方さんも藤井さんも外交上のカードを粗略に扱うほど素人ではない、ということですな」
完全に外交官の顔を表に出した斎藤氏が確認するように石橋氏の目をまっすぐに見た。
「はい。それについては私石橋が責任を持ってそう断言いたします」
「うむ。分かりました」
斎藤氏は厳しい顔を解き、封印していた父親の顔になってやっと安堵の念を浮かべた。
説明にひと段落がつくと石橋は、なつみ先生が持ってきてくれた冷たい烏龍茶に母親が用意した水割り用のアイスを二つほど放り込んで一気に飲み干した。
「大変よくわかりました。ご説明ありがとうございます。私はいまのご説明で完全にあなたに下駄を預ける気になりましたが、家内となつみには私からうまく説明しましょう。いやあ、しかし驚いた。こりゃ関係者の口からじゃないと分からない世界ですねぇ」
斎藤氏は石橋のツボを抑えた明瞭な説明に納得すると同時に、この石橋という人間の説明能力自体にも感嘆した。
「いろいろと大変です。外務省という組織にもいろんなご苦労がおありだと推察申し上げますが…」笑いながら石橋が言う。
「いや、外務省は一言でいうともっと幼稚ですな、それは…この後南方さんからのご連絡を待つまでに話の種として笑い話にするとして…すみません、ちょっと席を外させてください。家内となつみに今の話をわかりやすく説明してきます」
「了解いたしました」石橋は軽く礼をした。
斎藤氏は小走りで部屋の外に出て行った。
「ご迷惑をおかけいたします」
石橋はドアの向こうの斎藤氏、ご母堂、なつみ先生の三人に対して深く頭を下げた。
つづく
*「大人のピアノ」はフィクションです( u_u)
大人のピアノ そのごじゅうはち 母親の初恋ばなし
「じゃあ、石橋さんは心配ないとおっしゃるわけね」
ほとんど同時に母娘は同じ言葉を発した。
斎藤氏が石橋と話をしていた客間の廊下を挟んだはす向かいにある、それよりは少し小さな応接室では、母親となつみ先生は斎藤氏がドアを開けるのを心待ちにしていた。そこにやっと斎藤氏が現れ、話の次第を聞かせたのだった。
「ああ。とりあえずは南方さんからの吉報を待つということで良さそうだ」
「分かりました」母親は静かに頷いた。
「よかったぁ。じゃあ、あたしから篠崎さんご夫婦とと朝子さんにお電話してもいいですか」
なつみ先生が斎藤氏に訊ねる。
「ああ、そうだな。こっちはまだ石橋さんと話があるからそうしてくれるか」
「はい」
「それとな、石橋さん親分から連絡があるまではって一切飲み物に口つけないんだよ」斎藤氏が母親に向かって言った。
「あら、それじゃあ『入船』のお鮨でもとりましょう」
「うん。そうしてくれ」
「分かりました」
「よろしく」
斎藤氏はまた石橋のいる客間に戻っていった。
「朝子さんはショックでまだ部屋で休んでるということだったから、篠崎さんにさっきのお父様のお話お伝えしました」
「ホッとされてたかしら?」
「ええ。そのようでした。いい知らせがきたらまた連絡くださいとのことでした」
なつみ先生の言葉に母親も頷いた。
「そう。良かったわ。こっちもお鮨の手配終わったわ」
「お疲れ様でした」
「あなたもね」
二人は程なく配達された出前を応接間に運び、自分たちも鉄火丼の夕飯を食べた。
「そういえば久しぶりね、あなたとこうして二人でゆっくりこんな風にお夕飯すませるの」
あがりの濃いお茶で口を潤しながら二人はのんびりと向かい合って話をした。
「そうよね。なんか不思議。いつも顔合わせているのに夕食の時間は全部レッスンで埋まってるからね」
「今回は生徒さんにもだいぶお世話になって」
「篠崎さん、神田さん、平林さん…ほんとに感謝してるわ。騒動が終わったら改めてお礼のご挨拶しないと」
「そうね…。私も今度の土曜日のあなたの『大人のピアノ発表会』できちんとご挨拶するわ」
「ええ、ありがとう。お母様」
「はい、皆様に改めてきちんと謝りましょう」
「はい」
レッスンを一週間すべて臨時休講にしたなつみ先生は、そのあとしばらく母親と取りとめのない話をしていた。
「そういえば、あなた誰かいい人いないの?」
母親が唐突になつみ先生に訊いた。
「え?珍しいわね。お母様がそんなこと聞くの」
「そうかしら、だって年頃のあなたにそういう話があっても不思議じゃないでしょ」
「今はおつきあいしてる人はいないわ」
「ふーん。じゃあ気になる人は?」
なつみ先生は母親に適当に相槌を打ちながら、なぜかボンヤリとあの飄々とした篠崎の顔が浮かんできて自分でも驚いて狼狽した。
「あら!なつみ、今誰かの顔思い浮かべたでしょ」
「そ、そんなことないわ」
慌てたなつみ先生は思わず噛んでしまった。
「あら、あやしい…。ま、いいわ」
「お母様こそなんか変よ。急にそんなこと聞いたりして。どうしたの?」
なつみ先生が苦し紛れに防戦すると、母親の表情からそれまでの茶化すような笑い顔が消え、口からは意外な言葉が出てきた。
「初恋のね…人のこと思い出してた」
「え!?いつ?」
「さっきお父さんが帰ってくるまで石橋さんのお相手している間よ」
「ええっ!?どういうこと?」
「うん…」
なつみ先生がは母親の目が遠くの風景に泳ぐのを感じた。そこには「若き日の初恋のロマンス」という浮いた話ではなく、何かもっと切実な痛みのようなものが感じられた。
「どんな…お話なの?」恐る恐るなつみ先生がは訊いてみた。
「うん…」
母親はどこから話をしようかと、言葉を遠くに探していた。
つづく