大人のピアノ

大人のピアノ そのさんじゅうきゅう ヒット曲のB面

「そうかもしれないけれど、今あるのとは違う世界を見せてくれるって、それだけじゃないと思う」

 なつみ先生がおもむろに話に入ってきた。

「といいますと…」

 篠崎はこうしてなつみ先生と、ピアノを教えてもらうだけでなく音楽談義ができることを心の底からありがたいことだと思った。先生の心のとても大切な部分に直接触れるようなドキドキ感が胸を満たした。

「たとえば今度篠崎さんが発表会でお弾きになる『トルコ行進曲』の第一楽章…」そう言ってなつみ先生はピアノの方に向かった。



 先生は鍵盤に手を触れるとそっと弾き始めた。

 大人のピアノ教室に通うようになってから、篠崎はずいぶんいろんなクラシック音楽をスマホで聴くようになったが、自分が発表会で弾く『トルコ行進曲』の第一楽章がこんな曲だとは今の今まで知らなかった。

 あちゃー盲点だったなあ…と思いながら、篠崎はなつみ先生の弾くピアノに不思議な感銘を受けていた。トルコ行進曲の行進曲の部分は文字通り異国情緒あふれる行進曲だが、その裏にこんな深い情緒的な曲がセットになっていたことを発見したのは驚きだった。

「トルコ行進曲の第三楽章の部分もこの第一楽章も、主題を巡ってイ短調とイ長調が交錯してるところは同じです。だからまったく関連がないわけじゃないんですけど、パッと並べられた時には同じ一つのピアノソナタ第11番の曲だとは分からないかもしれません」

「先生のおっしゃりたいこととずれちゃう、というかせっかくの高尚なお話の腰を折っちゃうかも知れないんですが、斉藤なつみ大人のピアノ教室の不肖の弟子の我々が勝手にテーマソングにしている西田敏行の『もしもピアノ弾けたなら』も、もともとB面の無名曲だったんですよね」

 篠崎は横長のピアノ用の椅子のなつみ先生の横に「失礼」と言って座って『もしもピアノ弾けたなら』の最初の部分を弾いてみせた。先生のつけている香水が先生の体臭と混じり合って甘く篠崎の鼻腔に吸い込まれた。

「あ、すご~い。篠崎さん、いつの間にかこっそり練習してましたね」

 なつみ先生がきれいに揃った白い歯をこぼして、小さくかわいらしく手を叩き、我がことのように喜んでくれた。先生が笑うと一緒に小さな八重歯もくすりと笑うようだった。こうやって本人はまったくは意識していないけど、この表情や仕草で次のレッスンまで一週間頑張れるんだよなあ…と篠崎は先生の胸の膨らみをさりげなくチラ見しながら思った。

「もともと西田敏行主演のテレビドラマ『池中玄太80キロ』第二シリーズの挿入歌として作られた曲で主題歌の『いい夢みろよ』のB面として発売されていたんですよ。でも、視聴者からの反響が大きくて、『もしもピアノが弾けたなら』が主題歌に変更されて、A面とB面の立場が入れ替わる形となったんです。モーツアルトのトルコ行進曲の第一楽章と第三楽章をA面とB面みたいに言っちゃ怒られそうですけど、そんなこと思いました」

「へえ、そうなんですか。そういうA面とB面の誕生秘話って面白いですよね」うんうんと頷きながらなつみ先生は言った。

 至近距離で見る先生の大きな瞳に篠崎は吸い込まれそうになる幸福感を味わった。

「他にもB面ヒットって沢山あるんですよ」

「どんなのですか?」

「たとえば…」篠崎は幸せをかみ殺しながら考えるふりをした。実はB面ヒットマニアの篠崎はいくらでもすぐに思い浮かぶ曲があったのである。

「今じゃA面、B面という言葉自体が完全に死語ですけどね。たとえば戦後すぐの『リンゴの唄』これのA面は『そよかぜ』。知ってます?先生」

「知らないです!『リンゴの唄』はこうですね」

 先生がクラシック風にアレンジして『リンゴの唄』を弾いてくれた。こういうところが先生のすごいところだなといろんな意味で篠崎は思った。

「他には…植木等の『スーダラ節』。A面は植木等、ハナ肇とクレイジー・キャッツの『こりゃシャクだった』」

「知らないです!『スーダラ節』はこうですね」

 まさかとは思ったが、なつみ先生は植木等の『スーダラ節』をピアノアレンジして即興でお弾きになられた。これにはソファを離れて食卓に避難していた冴子も目を見張って惜しみない尊敬のこもった拍手をした。なんとさばけた先生なんだろうか。篠崎は感動で涙が出そうになったが、先生は素で楽しそうに弾いていた。篠崎はなつみ先生が女神のように見えてしまった。

「他にはペギー葉山の『ドレミの歌』、青江三奈の『伊勢佐木町ブルース』、『翼をください』『学生街の喫茶店』『港のヨーコ、ヨコハマ・ヨコスカ』『ビューティフルサンデー』『浪花節だよ人生は』『矢切の渡し』『釜山高に帰れ』…」

 恐る恐る曲名を出していくと、驚くべきことになつみ先生はすべての曲を即興でアレンジして弾いてしまった。

「そして、『もしもピアノ弾けたなら』」篠崎は興奮を抑えるために深呼吸をしてそう言った。

 先生はにっこり頷いて少し大掛かりなアレンジで情感たっぷりに『もしもピアノ弾けたなら』を弾いてくれた。








 A面曲が次のオリジナルアルバムに収録されることが多いのに対し、B面曲は収録されるとは限らない。B面曲をオリジナルアルバムに収録しないことが慣例となっているアーティストも多い。そのような場合、アルバム未収録曲がある程度たまったら、B面曲のみを集めたアルバムが制作されることもある。そのようなアルバムは「B面集」「裏ベスト」などと呼ばれる。

 篠崎は世に華々しくは出ないはずだったこうしたB面曲に学生時代から偏愛の念を持っていた。

 斉藤氏は天才の芸術作品を「見なくてもよかった世界を突きつける悪魔の仕業」と言ったが、篠崎はそれとある意味とても似ているのだが反対に「あり得たかもしれない、見ることのなかった別の世界」を恩寵のように垣間見せてくれるものだと感じていた。

 生きて行くこともこのB面曲に似てると思っていた。

 A面とB面は何かの拍子でくるっと反転して入れ替わる。人生の成功や失敗もそうしたものだと思えたし、人を理解するということもそうだと思ってきた。きっかけがなければその人の「B面」を一生人は知らないかもしれない。でも、もしかしたらそのB面こそが、その人の本質的な部分なのかもしれないと篠崎は思うのだった。

 たとえばそのことを当の本人すら気がつかないでいたとしても…





つづく












*『もしもピアノ弾けたなら』誕生のいきさつ、B面文化などについてはウィキペディアの文章を参考にしました(一部流用含む)。

大人のピアノ そのよんじゅう 武志がヤクザに惹かれる理由

 篠崎はなつみ先生とのやり取りでとりあえず整理できたところまで、説明を補足して加えながら斉藤氏に投げかけてみた。

 いわく「見なくてもよかった世界を突きつける悪魔の仕業」という面ばかりではなく、「あり得たかもしれない、見ることのなかった別の世界」を垣間見せてくれるものとしての芸術。その自分が知らなかったものの見方を芸術や天才が切り開いてくれるのだとしたら、自分は武志君のような天才芸術家という存在にはやはり最大限の敬意を払わざるを得ないと言ってみたのである。

 さあ、これから激論が始まってしまうのだと半ば観念しながらしゃべり終えた篠崎に、斉藤氏は意外にも「なるほど」と、あながち口先ばかりとも思えない表情で深く頷いたのであった。





「いや、岸谷さんには悪いけど、篠崎さんの考えの方がずっと芸術の本質をついてると思うな。やっぱり大学で音楽の教師などやっている人間は…」

「お父さん」なつみ先生が渋い顔をした。

「おっと、人の悪口は言わない約束だったな。こりゃすまん。じゃああの時の激論の顛末だけ私サイドから篠崎さんにお伝えしましょう。もちろん岸谷さんには岸谷さんの意見があるでしょうし、この場でそれを表明できないわけですから、今言ったようにこれから私はお話することはあくまでも私サイドの見解ということをお断りしておきます」

「承知しました」

 ややもって回った言い方ではあったが、篠崎はそこに斉藤氏の公平な態度というものを感じ取った。しかし、肯定的にとらえてもらったことにはホッとしたものの、今後どんな展開になるのか期待半分不安半分の篠崎であった。



「簡単にいうと、岸谷さんは芸術、天才という存在に常に危険性などないというご意見なのです。私は到底それには承服できない。芸術は、天才とは一級であればあるほど世界の根本を破壊してしまうような危険性がある。しかも傍観者でいることを許さないような、それを体験した人間の人生を破壊し尽くしてしまわざるを得ないような衝撃がある。それが岸谷さんには理解できないんだ。根本のところで…」

 篠崎には斎藤氏の言葉は、淡々とした言い方の中にもどことなく脱力感が漂っているように感じられた。

「篠崎さんのB面文化論、大変に面白いユニークなお考えだと感心いたしました。それをモーツアルトのピアノソナタ第11番と結びつけたのもすばらしい」

「いえ、それは単にお嬢さんと話をしているうちに出てきたことでして…」

「ご謙遜を。いや、そうなのかもしれませんが篠崎さんには巧まざる戦略というのかな、無方法の方法とも言うべきものがあって、なんとなくフラフラと歩いているようで自分が目指していたゴールにたどり着いてしまうような才能がおありなんですよ。実は外交交渉でもっとも手ごわいのはその手のタイプの人なんですがね」

 楽しそうに斎藤氏がそう言った。なんだか思わぬ褒められ方をされてしまった篠崎は、ただ手を振って「そんなことありません」と否定してみせたが、斎藤氏はなおも

「たとえばプーチンなんていうのはそういう意味では御しやすいタイプの人間なんですよ。どこのツボをつけば満足で、どこを押せば怒り出すのかも分かりやすい。ずいぶん以前の政治家となってしまいましたが、そこへいくとゴルバチョフなんてもう、外交の天才でしたね。ルールが全く通用しない。といってアルコール依存症のエリツィンのように支離滅裂というわけじゃなくて、気がついてみると篠崎さんのように自分が言いたかったことがすっと相手に伝わっていたりする。」

「私がゴルバチョフさんですか?ピンときませんが…」篠崎は恐縮を通り越してぽかんとした表情をしていた。

「そう。ゴルバチョフと対等にやりあえるのは篠崎さんか鈴木宗男さんしかいないかもわからん」

 ここで冴子が「あっははー」と手を叩いて大きな声で笑った。





「まあ話がそれましたが、岸谷さんは基本的に芸術というものは人間性を高め、教養を高め、ひいては文化文明の発展に寄与する高尚なものだとお考えなのです」

 口にこそ出さねど斎藤氏は「くだらん、実にくだらん」という顔つきをした。

「まあ立派な考え方で、それ自体はいいんじゃないかと思いますが…」

「くだらん、実にくだらん!」

 ついに斎藤氏は封印していた口癖を大きな声で解き放った。

「そうですか…」篠崎は恐る恐る相槌をうってみた。

「だいたい芸術の高尚さやら教養の素晴らしさやらを云々する人間に、芸術や教養のなんたるかが分かるわけがない」

「…そうですか」

「はい。それは断言できます。彼らはお墨付きのある「人間の真実」なるフィクションをせいぜい遠くから眺めることくらいしかできやしません。外科医が血を見ても大丈夫なように、エセ芸術通は殺人やら不倫、裏切りがあってもびくともしません」

「まあ、身も蓋もない言い方をすればそれこそお話の世界、フィクションですから」

「そうなのです。しかしそこに彼らの悪臭を放つ欺瞞があるのですよ。たとえば彼らは外科医の資格もないくせに勝手に安全地帯から技術作品を上から目線で「鑑賞」しようとします」

 斎藤氏は「鑑賞」という言葉に思いっきり侮蔑の感情を込めて滑稽なイントネーションにして言った。

「しかも、フィクションだとしながらも、一方ではそれを「人間の真実」であるとか声高に言うのです」

「まあ、矛盾してますね、そう言われれば」篠崎はうんうんと頷いた。

「そんなところに真実なんてあるわけないじゃないですか、あったとしてもその真実は「教養」とかいうくだらない色眼鏡を通して見えてくる訳がない」

「おっしゃることは分かりますが…」

「敵討ちでもなんでもいいですよ。映画の中で仇討ちに心底感動したら、実生活でもそれが必要になったら仇討、殺人をやらなきゃ嘘でしょ?」

「…まあ」

「ドンジョバンニの生き方に心底惚れたら女1000人泣かさなきゃ」

「…まあ、そうかも…」

「でもやらない」

「我々はしょせん小市民ですからねぇ」

「そこです!」




 斎藤氏が大きな声を出してぱあーんと手を打ったので、なつみ先生も冴子も篠崎も驚いて改めて斎藤氏の顔を見た。

「小市民ですからね、岸谷さんも。そういう意味ではヤクザ者の方が正直だし、ヤクザ者の方がはるかに芸術のなんたるか、天才のなんたるかを知っていると言えるでしょう」



 !?ここでヤクザ者の話になるのか?最初から斎藤氏はこの展開を狙っていたのか?篠崎は斎藤氏の真意を表情に探った。

「私にはわかっています。武志が天才であるかどうかはひとまずおいとくとして、武志がやくざ者に惹かれ、その世界に忠義だてしようとしている本当の根深い理由はそこにあるんだ」

 篠崎は目を見張った。終始一貫わからず屋の父親を演じてきた斎藤氏は、もしかすると武志の君のもっとも深い、それこそ本人すら明確には気がついていないようなB面的な深層心理をとっくのとうにお見通しなのかもしれない!?

 それをすべてわかった上で、もしかすると息子の武志君の真の天才性を誰よりも早く、正確に見切った上で一級の芸術の持つ、一流の天才だけが持つ危険性、悲劇性から我が息子を遠ざけようとしたのではあるまいか。


「斎藤さん、あなたもしかして…」

「ここまでこういう話が篠崎さん、あなたとできるとは思っていませんでした」

「はい」

「もう演技はやめだ。みなさんおっしゃるように武志はおそらく天才でしょう。奥様の言葉でいえば身も蓋もない天才芸術家なのかもしれない。でも、だから危険なんです。本人も周りの人間も」

「はい」

「それこそこの非日常的な空間の中で『人間の真実』というものが試されるのですよ」

「我々も…」

「そう、武志は多くの人を巻き込んですでにこうして、外科医の白衣を着る暇も、教養という衣装を纏う余裕も与えずに、我々を舞台の上に引きずりだしてしまったのかもしれない。全員がいかにこの事件に対処するかで、本当の自分がどういう人間なのか否応無くそのことに直面することになるでしょう」



「…怖いですね」

「そう、芸術は、天才は恐ろしい。そんなものは日常生活にはなくていいんですよ…」

 ここまで立ち上がって熱弁をふるっていた斎藤氏は、ここまで話し終わるともう一度ストンとソファに座り直した。





つづく

大人のピアノ そのよんじゅういち 「あたしが最後は何とかする」

「お父さんたち何しゃべってるんだろうね」

「そうだね、またうちの父親が篠崎さんにややこしい議論吹っかけたりしてないといいんだけどね」

 二人は篠崎邸から十分ほど駅と反対側に歩いた、住宅街のブロックの一角にある台湾料理屋のテラスでタピオカを飲んでいた。駅に向かう大通りから一本外れた道にあるこの店は、台湾らーめんやジュースなどを出すいわゆる台湾屋台だった。屋台と言っても日本の屋台のようにおじさんがリヤカーみたいな移動式店舗を引っ張るあの屋台ではなくて、一軒家の一角に客用のテーブルを並べたガレージ風のお店だった。朝子は大学のレポートをまとめる時など自宅の部屋で煮詰まった時によくここに来る。

「でもさ、篠崎さんてなんかいいよね」

 武志がタピオカのコップの底の粒つぶをぐるぐるストローで追いかけながら、素のまま朝子にそう言った。

「え」

 朝子はドギマギする。肩に少しかかった内側にゆるくウェーブさせた髪を無意識に撫でながら、テーブルの下に隠れた白い麻のロングスカートにくるまれた足をスカートの中でそっと組み直す。朝子が本人も気がついていない緊張した時のくせである。

「裏表なくて飄々としていて、それでいて時々ズバッと核心をつくようなことさりげなくいう」

 なんのことだろう…あたし武志さんの前では緊張してほとんど何もしてないと思うんだけど…。朝子が期待半分不安半分の顔をしてチラッと武志の表情を上目遣いにとらえる。武志はタピオカと一緒に注文した骨つきの鳥の唐揚げを、少し長めの台湾箸で口に運んでいる。

「なんかさあ、年齢不詳のおじさんキャラっていうのかな、いっぺんに好きになっちゃったよ」

 あれ、なんだお父さんのことか…。朝子は内心のガックリを隠しながらも、「篠崎さん」「好き」という自分には向けられていなかった単語になお心が騒ぐのを感じていた。「篠崎朝子さん好き」朝子の頭の中では勝手に言葉が化学反応を起こしていた。

「なんかさ、調子いいでしょ、うちのお父さん」

 気を取り直すように、朝子は底に沈んだタピオカをストローで上からつんつんと突き刺す仕草をした。

「篠崎さんとは会ってまだ数日なのになんだかそんな気がしない。何でも話せそうな気がする。飾らないキャラの安心感のせいでこんな状況でもこっちも落ち着けるよ。今回のことはほんと感謝している」

 武志の言葉はまた自分の父親に向けられた言葉であることを、今回は朝子は誤解はしなかった。でも「父じゃなくてあたしは違うの?」という気持ちでいっぱいになってしまった。

 そんな気持ちでまた無意識のうちに髪を手でとかし、薄手のストッキングにパンプスを履いた形の良い脚を組み替える朝子の姿は、テラスの他の男性客がちらっと盗み見るようなほど魅惑的であった。

 もちろんテラスの男性客の一人である武志もまた、実はこの朝子の魅力にさっきから取り憑かれていたのだった。それをストレートに言葉にしないのは、今こうして二人でいることが自分の引き起こした事件の渦中の一シーンにすぎないこと、もっとはっきりいえば一週間限定の束の間の小さな思い出にすぎないという意識のためだった。

 しかし逆にその意識が、「こんなことをしている場合じゃない、こんなことをしていること自体が自分が今迷惑をかけ、その迷惑にもかかわらず自分のために動いている方達に申し訳ないことなのだ」と思いつつ、突発的に気持ちが抑えられれず隠れて朝子と口づけをさせててしまったりする。今も目の前の朝子に対して、武志は場違いな性欲さえ本当のところ感じているのだった。

 スカートの裾から控えめにのぞく形の良いふくらはぎからは、ロングスカートの上から目でなぞるようにしてもバランスの取れた魅惑的な足の付け根の形が容易に想像できる。無造作に着た薄水色の洗いざらしたような生地のデニムのベストは前絞りにされて、その豊かな乳房の下で優雅なシルエットを作っている。胸もとに見えるタピオカを飲むたびに微妙に動く鎖骨は優しく膨らんだ朝子のなで肩をキュッと引き締め、首筋からうなじのダイナミックなラインを作っていた。その一連の統一美が時々朝子の見せる髪をかきあげる仕草によって、つま先から髪の毛の一本一本の先にまで若々しい生命力を与えていた。



「もちろん朝子さんにも感謝してる。それに…」

「それに?」

 朝子の少し上向きにめくれた唇の稜線が不安気に崩れ、自分に向かって次の言葉を促すために開かれるのを見た瞬間、武志は抑えきれなくなって思わずテーブルの上の朝子の手を握った。

「好きだ。どうしようもないくらい好きなんだ。もうこのまま時間が止まるか、そうじゃなかったら何もかも捨てて二人で逃げ出したいくらいだよ」

 武志はこの時もちろん冗談めかしてこの言葉を言った。

 いや、そのはずだった。責任感の人一倍高い武志は自分自身一週間後に南方の前に出頭し、そのまま最悪この世と永遠に縁を切ることになるかもしれないことの覚悟はできているつもりだった。

 しかしこの言葉を口にしてみると、その言葉は言霊となって武志と朝子に憑依した。武志が言葉をおしまいまで言い切るまでのほんの一瞬の間に、言霊は武志の言葉から冗談のニュアンスをすっかり脱色してしまっていた。

 武志は自分の言葉にそのつもりだったはずの冗談の要素が抜け落ちてしまったことに戸惑い、朝子は思いも掛けない武志の直截な愛の告白に気絶するほど心が震えた。これまで親の目を盗んで何度か武志と唇を重ねはしたが、その口づけの切なさの中には、お互いが好きだという愛の気持ちの高ぶりの他にこの一週間しか残された日がないという現実逃避の願望もあったように思う。
 不安の吐息を唇を重ねることで閉じ込め、濃厚な接吻で息ができなくなった苦しさを、その唇で繋がったお互いの体の中の酸素を求めるようにさらに激しくくちびるを吸いあった。武志は朝子の腰に無意識のうちに手を回し、朝子は自分の乳房を乱暴に武志の胸に押し付けた。それは両親が二階で就寝している家の中であったり、深夜の家の前の路地であったりしたけれど、もし状況が許されるならそのまま押し倒されたいような動物的な性欲を朝子は自分の子宮に感じた。
 武志と体を離し、別れたあとベッドに入っても体の火照りを抑えることができず、朝子は唇を硬く結んで武志の名前を脳裏で叫びながら、自分の指を下着のその下の自分の火照りの内奥に滑らさざるを得なかった。



 今武志の言葉を聞くと、一瞬またその動物的な体の疼きが体内の奥にじんと熱く感じられた。しかし不思議なことにその肉体的な愛欲の感覚は程なくすっと消え、それと入れ替わるように子供に頃だけ感じたような、そう、遠足やピアノの発表会の前の晩のような小躍りしたくなるような胸の高鳴りがやってきた。



「いいじゃない。駆け落ち」

 朝子は自分が今、変な例えだが少年のような、そう、マークトウェインの小説のトムソーヤのような顔をしているのではないかと思って可笑しくなった。

「ああ、何もかも捨てて地獄に堕ちちゃおうか」武志もおかしそうに笑った。

 二人は高い声で笑った。そんなことはできやしない。武志の性格から言って…。朝子はそう確信しながらも一週間後の死刑宣告を逃れるためならば、駆け落ち以上のことだってなんだってやりそうな自分を今はっきりと自覚した。



「あたしが最後は何とかする」

 朝子は硬い決意で心に誓った。どんな手を使ってでも武志さんのことを守る。武志がそれを望まなくても、自分の親の信用を失っても、最後に武志と別れることになっても…。

「絶対にそうする」

「え?今なんか言った?」

 最後まで自分の心の中だけで密かに固い決意でつぶやいたはずだったが、武志は笑の続きの中でそう朝子に尋ねた。

「ううん。何も」

「そっか」

 二人はまだしばらく可笑しそうに笑っていた。





つづく

大人のピアノ そのよんじゅうに 武志と朝子が失踪!?

「遅いわね、武志さんも朝子も」

 冴子はいつの間にかソファに場所を移し、斎藤氏とも仲良く雑談していた。

 最初この二人はゼッタイに反りが合わないなと思っていた篠崎でありなつみ先生であった。しかし斎藤氏が武志の天才を気がつかぬふりの演技をやめ、それとともにかなり地金を開けっぴろげにし始めたことで、冴子と急速に打ち解け始めたのだった。斎藤氏は冴子のパンチの効いた喋り方を気に入ったようで、話題は外交のオフレコばなしや朝子や武志のことなど多岐に渡った。

「そうですね」

 斎藤氏も腕時計で午後8時を確認すると、首を傾げた。なつみ先生も不安気にリビングの時計を見る。時計はやはり8時を回っている。二人が出て行ったのは3時過ぎだ。冴子が朝子のケータイに、斎藤氏が武志のケータイにつないでみたが、いずれも「電波の届かないところにあるか電源が入っていないため」つながらなかった。




「私ちょっと見てきますよ」

 篠崎がそう言って立ち上がると、冴子も一緒に立ち上がろうとした。

「いや、お前は二人が帰ってきた時いた方がいいから俺が一人で行ってくるさ」

 リビング入口のコート掛けの薄手のセミロングのジャンパーを引っ掛けながら篠崎が冴子に首を振ると冴子は「そうね」と短く答えた。

「じゃ」

「待ってください」

 行きかけた篠崎に追いつこうとなつみ先生がソファを立ち上がった。心配そうな顔で篠崎を見つめる。

「分かりました。じゃあ一緒に行きましょう」

「はい」

 二人は玄関を後ろにした。






「すみませんね、篠崎さん。金曜のレッスンあたしがすっぽかしてから、なんだかこんなところまで急にものごとが進んじゃって、本当に申し訳ありません」

 なつみ先生は、ずっとそのことを改めてきちんと篠崎に言いたかったようだった。実際、自分の父親との話も含めて、ピアノ教室の生徒として一年弱の付き合いはあるもののここまで親身に家庭内の問題に関わってくれるとは思ってもみなかった。

「いえ、いいんですよ。なんつっか、お父様もおっしゃってたようにこれが武志君の天才性っていうのかな、人を傍観者じゃなくて舞台の上の当事者にしてしまう力だと思いますよ、これはやっぱり」

 篠崎はとりあえず駅の方向に小走りに歩きながら、その横を歩くなつみ先生に語りかけた。

「はあ」

「お父様言ってたじゃないですか、ドンジョバンニの生き方に惚れたら女1000人泣かさなきゃ嘘だって」苦笑しつつ篠崎は楽しそうに言った。

「はあ、なんかたとえ話がヘンなんですけど」

「いえ、よく分かりますよ。一昔前ウーマンリブだとかフェミニズムがはやったでしょ。あれが私は苦手でしてね。男女同権といいながら肝心のところで女の弱さ武器にする人も中にはいたじゃないですか。あれは欺瞞だ。本人が気がついてないからよけいタチがワルイ」

「はい」

「お父様の言ってたのはそれと同じですよ」

「はい」

 チラと横をみると、なつみ先生はうんうんと首を動かしながら歩幅の大きな篠崎について行くため必死に歩いている。篠崎は早く二人を見つけたいと思うはやる心を少しだけセーブしてなつみ先生の歩幅に合わせた。

「同じというと…」

「芸術作品を見てそこに描かれている非日常的な題材に感動する。殺人でも不倫でも戦争でもいいですが」

「はい」

「しかしそういうのに感動した人も実生活では市民の良識、弱者としての市民を隠れ蓑にします」

「そうですね」

「お父様はそれを欺瞞だという」

「はい」

「男女同権を声高に主張するならば、少なくとも女を武器にしちゃいけない。同じように当事者であることを突きつけられた時に市民の論理を当然のように持ち出す人間は"芸術に感動する資格がない"ってことをお父様はおっしゃりたいんだと思います」

「"芸術に感動する資格がない"っていうのはずいぶん厳しい言い方ですね」

「ええまあ、これは私が今勝手に思いついた言葉ですが、逆方面からいえば、芸術作品の中に人間の真実を観た!と言い切れるならば、それを真実だと感動してしまったのならば、その真実は映画館を出たらおしまい、劇場を出たらおしまいではなくて、できるできないの程度の差こそあれ、なんらかの日常生活とつながりを持たせざるを得ないでしょう。いや、それが超一級の芸術に感動してしまった人間の芸術に対する責任の取り方でしょう。お酒飲んで酔っ払うようにだらしなく芸術にカンドーしたとかですまない部分って大事だと思うんです、私」

「難しいけど、それはそうなのかも…」

「たとえば人命救助をテーマにした映画、そうだなハリウッドの『炎のメモリアル』に感動して映画館を出てきた映画青年、演劇青年、文学青年がいたとします」

「はい」

「目の前を暴走トラックが突き抜けようとした」

「こわい」

「ええ、こわいですとも。そこで自分の身の危険を顧みず、目の前のお婆さんや女子供を命張って助けることができるかどうかでしょ」

「なるほど」

「芸術作品に教養だなんだ、人間の真実がなんちゃらとかいうヤツに限って人命救助どころかお婆さんや突き飛ばして自分だけ助かろうとすんじゃないのかい?お父さんの言いたかったことはそれです」

「好意的に解釈していただきありがとうございます」

「今回のことも、市民の論理からいえば最初お父さんがおっしゃったように直ちに警察に連絡すべき事柄だったでしょう」

「はい」

「でも誰も強硬にそうはしなかった。お父様自身も我々がそういうエセ市民かどうか試すつもりだったのか、最初は反対のことを主張してましたが、たぶんはなっから警察沙汰にはしようとなんて思ってなかったと思います」

「はい。今は私もそう思いました」なつみ先生は心なしか嬉しそうだった。

「たぶん「人間の真実に向き合った時にあっさり警察に任せるという市民の論理は、本物ですか?テキトーに芸術を上から目線で「鑑賞」しながら、都合の良い時だけ弱者の論理を振り回す御都合主義なんじゃありませんか?」お父様はそういうことを言いたかったのでしょう」

「そうなんですね、たぶん…ずっと以前から。きっと、あたしが母親に『裸の王様』を読み聞かせてもらっていた頃から。それが武志に伝わったら…」

「これまでの父子の諍いなど消し飛びますよ。それどころか武志君は斎藤さんを尊敬すると思いますよ」

「だといいのですが」

「必ずそうなります」

「はい」




 二人は通りをキョロキョロ見渡しながら、ファミレスや喫茶店を見つければそのドアを開け、店員に頭を下げつつ中の客席を見渡し、また小走りで武志と朝子の姿を追った。二人は駅の向こう側に抜け、そしてもう一度篠崎邸のある側に戻ってきた。

「いない…」

 さすがに篠崎も不安になってきた。まさかとは思うが、あのまま二人して何処かに逃亡してしまったのだろうか…。口にこそ出さねど、なつみ先生も同じことを考えているようだった。たぶん篠崎について来たいと言った家を出る時から先生はその可能性で不安を隠せない表情をしていたのだろう。



「分かった!あそこだ」篠崎が声を上げた。

「どこですか」

「我々が今探したところとちょうど反対側です。最初にそこに行ってみれば良かった」

「どこですか」

「台湾屋台です」



「行きましょう」

「はい」

 二人はしゃべるのをやめ、駆け足で篠崎邸の方へ向かった。





つづく
ゆっきー
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