大人のピアノ そのよんじゅうさん 警察沙汰
「なつみ先生、あそこです」
「はい」
100メートルほど先に店が見えた。時間にして十分弱。ノンストップで走るのは中年の篠崎にも普段運動していないなつみ先生にとってもしんどかった。
二人は息を整えながら、とっぷりと暮れた住宅街の路地にある台湾屋台へのラスト100メートルを並んで歩いた。程なく入り口と、屋台の店内が見え始めた。
ところがいつも武蔵小杉駅の終電時間、つまり深夜0時を回るまで煌々とついているはずの店先の黄色い看板のネオンは明かりが落とされていた。
「ちょっと様子が変だな」
篠崎は入口付近にあるその黄色い看板が、何かで叩き壊されたようになっているのを発見した。
「あ、そこ入らないで」
店に入ろうとするとなんと事件現場保存のため黄色いテープが貼られており、大柄の若い制服の警官が鋭い目つきで篠崎を制した。
「何かあったんですか?」
なつみ先生が恐る恐る後ろから警官に尋ねると、警官はやはり鋭い視線を向けたものの、少し表情を和らげて
「誘拐事件がおきました」と短く答えた。
「誘拐事件!誰が?」
なつみ先生がなお事情を聞こうとすると、若い警官は店の奥の方をチラッと見た。どうやら事件は店内で起きたらしく、上役の刑事たちはそちらに行っているらしい。無駄口を叩いていると思われると面倒だと思ったのだろう。とりあえず中の奥の方にいるらしい刑事たちの姿が見えないことを確認して、制服警官はなつみ先生に小声で話をした。
「二十歳くらいの若いカップルです。10名ほどの黒ずくめのヤクザ者に囲まれて拉致されました」
「いつのことです」篠崎が身を乗り出した。
「10分ほど前です」
警官はなつみ先生に応えた手前篠崎一人を無視するわけにもいかず、最小限の返答をした。そういえば、走ってここに向かっている途中で短い間だったがパトカーのサイレンが聞こえた。まさか自分たちの目的地にパトカーが向かっているとは思わなかったが、店の駐車場の奥にはサイレン音を消して赤いランプだけを回転させている覆面パトカー数台が見えた。
「男女のカップルって、まさか女の方はこの人ですか」
篠崎はケータイに保存してあるかなり昔の朝子の写真を呼び出して警官に見せた。なつみ先生も同じくケータイを取り出して武志の写真を呼び出そうとしている。
「いえ、当然自分は通報を受けて事件後にここに到着しましたので被害者の顔は分かりません。お知り合いの方の可能性がありますか?」
背の高い警官はやっと篠崎たちが野次馬ではないことを理解し、鋭い目を奥に引っ込めて少し膝を折って篠崎となつみ先生に語りかけた。
「もし男性がこの写真の人物だとしたら私の弟です」なつみ先生はケータイを警官に見せた。
「さっきの写真は私の娘です」篠崎が焦ったそうに店の中を覗き込みながら言った。
「失礼いたしました。そういう事情ならば中の刑事に繋ぎますので、こちらからお通りください」
警官はそう言って、ピケの片側をはずして二人を手招きした。警官は二人に先行して少し急ぎ足で歩き、現場検証を指揮している鑑識官に敬礼をしてから刑事の名前を呼んだ。億劫そうな風情で奥から出てきた刑事に小声で耳打ちをしてちらっとこちらを見る。おそらく二人が被害者の知り合いである旨を伝えているのだろう。
刑事が近くにきた。形ばかりの警察手帳の開示があったが、なぜか刑事は二人を被害者の身内としての同情の眼差しでは見ずに、むしろ犯罪者に向けるような厳しい視線を投げてよこした。
「被害者のお身内の方であると…」
「はい、おそらく」篠崎が答え、なつみ先生が横で頷いた。
「うーん」刑事はなおも厳しい視線で二人を舐め回すように見た。
「あの…」
態度に不信感を持ったなつみ先生が抗議の眼差しを向けると、刑事はやっとすこしこわばった顔を崩した。
「いえね、どうも状況を整理しますと、ある10名ほどの暴力団の集団が二人を拉致しようとしたのを、別のグループの暴力団、こちらは二人だったらしいのですがその二人が拉致を阻止しようとし、激しい乱闘の末多勢に無勢でカップルは拉致されてしまったということなんですよ。失敗した方の二人も逃亡しました」
刑事は二人に再び厳しい視線を向けた。
「単刀直入にお伺いいたしますが、あなた方を含めて被害者は暴力団となんらかの関わりがあると考えてよろしいですか」
夜の闇の中ではあったが、篠崎は自分の顔が蒼白になっているのをはっきり感じた。かなりまずい展開になってしまった。こういう事情だとわかっていればこうしてのこのこ中に入ってくることなどせずに、ケータイで蜷川会の石橋に連絡を取るべきであった。
このまま事情聴取されてしまったら篠崎はまだしも、なつみ先生は尋問のプロにかかって要らぬ事までしゃべってしまいかねなかった。
「詳しくくお話をお聞かせ願いましょうか」
刑事は二人を覆面パトカーの方へ誘った。
「ヤバイな」
篠崎はひたいから冷や汗が落ちるのを感じた。このまま別々の覆面パトカーの後部座席に座らされたら、一人にされてしまったなつみ先生が全てをしゃべってしまうだろう。その前に手を打たなければならない…。
「あ!」
なつみ先生が突然バランスを崩して前のめりに倒れそうになった。篠崎がなつみ先生の靴を闇に紛れてそっと踏んだのだった。
「大丈夫ですか」
篠崎が助け起こそうとする。
「<さっきのケータイの武志君の写真じゃなく別の写真を刑事に見せて下さい。弟さんが被害者だと悟られないように>」
篠崎はなつみ先生の耳元に厳しい声で短く囁いた。
なつみ先生は何を言われたのか意味がわからなかったようだったが、とりあえず小さく頷いた。
「大丈夫ですか」刑事がこちらを向いた。
「ええ。大丈夫です。ちょっとめまいがしてよろけてしまって」
篠崎が足をわざと踏んだのになつみ先生は気がついていたはずだが、なつみ先生ははっきりとそう刑事に答えた。篠崎は自分の企みがなつみ先生に伝わったことにひとまず胸を撫で下ろした。
「じゃあ、狭いのでお二人別々にお話をお聞きします」
案の定刑事は二人をバラバラにして事情聴取しようとした。さっきの小声の打ち合わせがなければ、ここで背景の蜷川会がらみのゴタゴタがすべて表に出てしまうところだった。
別れ際になつみ先生は篠崎の目をしっかりと見つめた。
「大丈夫だな」
篠崎はとりあえず安堵して、新顔の刑事に促されるまま、さっきの刑事となつみ先生が乗り込んだ隣の覆面パトカーの後部座席に滑り込んだ。
つづく
大人のピアノ そのよんじゅうよん 事情聴取
事情聴取は三十分ほどで終わった。
篠崎はなつみ先生に伝えたように、自分でもさっきの黄色いテープのところにいた警官に見せた写真とは全く違う、会社の同じ部署の女の子の写真を見せた。すぐに覆面パトカーの後部座席篠崎の隣に店のスタッフが呼ばれ事実確認をしたが、当然店の者は「この人ではない」と首を振った。
若い刑事は予想していた話の展開と違ったことに首を傾げたいような表情をし、車を出て隣のなつみ先生の乗った覆面パトの上席の刑事の指示を仰ぎに行った。車窓越しに様子を見る限りでは、向こうの刑事も「分からん」と言った表情で首を横に振っていたので、なつみ先生もうまいこと別の男の写真を見せて捜査を撹乱できたようであった。
「今日のところはお帰りいただいて結構です」
車に帰ってきた若い刑事はなおも不審そうな顔を篠崎に向けたが、それが上司の指示だったのだろう。向こうでもなつみ先生が車から出てくるところだった。
「念のためにご連絡先を」と言われてしまったので、ここは嘘をついたりすると近所のことだし面倒なことになると判断した篠崎は住所を正確に伝えた。警察手帳にメモを取る刑事は住所の町名がこの事件現場とまったく同じであることに気がつき、またチラッと意味ありげな顔を篠崎に向けたが特に何も言わなかった。
「いや、お手間を取らせました。本日は結構です」
年配の刑事がなつみ先生と一緒に車から出てきて篠崎語りかける。なつみ先生を見ると少し疲れた顔をしていたが、さっき別れる間際に寄越したようなしっかりとした目で篠崎見た。篠崎はほっとした。
黄色いテープのところまで二人の刑事が送ってくれたが、帰り際に愛想笑いをしてこう言った。
「篠崎さんはこのすぐご近所にお住まいのようですから、またもしかしたら事件のことで御宅にお邪魔するかもしれません」
近所の人間に朝子のことで聞き込みをやられたら、さっきの虚偽の事情聴取が一発でバレるな。篠崎はそう思ったが、その時は仕方が無い。今はとにかくまず蜷川会の石橋に連絡が取れる状態になったことだけでもよしとしなければならない。刑事もこんなに早く二人を解放したのも、すぐに自分たちで裏を取るつもりだったのだろう。
「お疲れ様でした」
角を曲がって刑事たちが見えなくなると篠崎すぐになつみ先生に声をかけた。
「はい。うまく行きました。最初篠崎さんがあたしの靴をわざと踏んだ時には事情が全くわかりませんでしたが、すぐに飲み込めました。よかった。あたしはどっちかというとこういうことにトロイほうだと思いますので」
なつみ先生は事情聴取が無事終わり、刑事の姿も視界から消えたことで安堵感からかそう言って、わずかに口元をほころばせた。
「いや、ほんとお疲れ様でした。しかしはっきりしたのは、どうも約束を破って武志君が殴った側の組織が南方さんの組織を差し置いて二人を拉致したようですね」
篠崎は沈痛な面持ちで言った。ついに武志のみならず娘の朝子を直接的に巻き込んでしまったことになる。
「武志のせいでこんなことになってしまいまして、何と言って良いやらお詫びのしようもございません」
なつみ先生もまた篠崎以上に沈痛な顔で言った。
「いえ、それよりみんなで善後策を検討しましょう」
ここまで話し終わると、ちょうど篠崎邸の玄関についた。
つづく
大人のピアノ そのよんじゅうご 石橋の動き
玄関の鍵を開け、家に入ると冴子と斎藤氏が玄関まですっ飛んできた。
「お疲れ様です。何か起きましたか」
斎藤氏は二人っきりで帰ってきたことで、事態の容易ならざるを知ったようだった。
「いなかったの?二人とも」
冴子は顔色が変わっていた。当然四人で帰ってくるものだと信じて疑わなかったらしい。
篠崎はなつみ先生とともに厳しい表情で頷いてとにかくリビングに入った。
「二人とも武志君が船橋の店で殴った方の組織に拉致された。朝子の行きつけの台湾屋台に行ったらやっぱり二人が来ていたらしい。そこで二つの組織の乱闘があった末に拉致されたらしい」
冴子は真っ青になった。これまでこの事態をどこか現実離れしたこととしてきた自分たちの危機感のなさが、朝子の拉致という自体に繋がったのではないか。冴子は今までのような軽口をきいてきたような雰囲気は何処かに消え去り、一人の母親としての表情になっていた。
「申し訳ございません」
斎藤氏もまた、今度こそ自分の息子が他人を現実に巻き込んで身体の危機にさらしてしまったことを重く受け止めているようだった。
「あなた、警察には何て言ったの」
「警察にはとりあえず人違いで無関係だということを伝えた」
「どうして、正直に言って保護してもらえば良かったじゃないの」
なつみ先生が下を向いた。篠崎の意向で拉致された被害者とは無関係という証言をしてきたが、果たしてそれで本当に良かったのだろうか。
「しかし身柄を拘束されているわけだから警察だってどうしようもないだろ」
篠崎そんななつみ先生に申し訳なく思いながらも冴子に言った。
「それに向こうの屋敷玄関で『そんな人間はいない』と言われれば、家宅捜索の令状を裁判所に発行してもらわない限りそこから先に進めません」斎藤氏が冷静に言った。
「じゃあ、どうするの」
冴子は掴みかからんばかりの表情で篠崎に迫った。
「石橋さんに連絡をとってみる。これは明らかに南方さんの組織に対する信義の問題だから、向こうでも黙っていないはずだ」
「でも…」
「とにかく再度警察に事情を話すにせよ、まずそれをやるべきだろう」
「冴子さん、うちの息子のせいでこうなってしまったわけなのですが、まずは篠崎さんのおっしゃる通りそのラインで事情を確認しましょう。南方組も二人の人間が関わったわけだし、次の対応をしているはずです」
斎藤氏も篠崎に同意した。
「でも…」
冴子はなおも食い下がった。
「とりあえず石橋さんのケータイ聞いてるからそこに今すぐかけてみるよ」
まさに篠崎が二つ折りのケータイ開けた瞬間に着信があった。
「石橋さんからだ」
発信者通知番号をディスプレイを確認した篠崎が言った。冴子、斎藤氏、なつみ先生の視線が篠崎に集まる。
「もしもし」
篠崎は三人に対して深く頷いてから、石橋氏と話し始めた。
つづく
大人のピアノ そのよんじゅうろく 駆け落ちの真相
「え、なんですって…。それじゃあ武志君と朝子が台湾屋台で駆け落ち、いや逃亡の計画を話し合っていたんですか?」
断片的に話がみんなに聞こえるのはかえって良くないと思い、篠崎は務めて石橋のいうことに「はい」「はい」と相槌だけ打ってきたのだが、向こうの組織が拉致という直接行動に出た理由を聞くに及んでたまらず大きな声で聞き返してしまった。
斎藤氏、なつみ先生、冴子が一斉に篠崎を驚きの表情で見る。
「はい」
篠崎は、あとでじっくり話すからという意味で相打ちを打ちながらみんなに頭を下げた。
「はい、ええ…なるほど」
石橋氏の声は篠崎のケータイを通じては全く聞こえてこない。「そんなばかな」「なぜ」「何かの間違いだろう」三人は小声であれこれ推測で話し始めた。
「はい。え?南方さんが…」
三人は「南方」という名前が聞こえてすっと口を閉じた。
「分かりました。こちらは構いません。はい。よろしくお願いいたします」
電話を切った篠崎は一同に頷いて、「ソファに行きましょう」と小さく言った。
「『二人で駆け落ちの相談』って聞こえましたが…」
斎藤氏が電話を聞いていた三人代表してまず聞いてきた。
「はい。まず状況を整理しますと、南方組に主導権を渡しながらも向こうの組織も、万が一武志君が逃亡したりしないように、配下の者を武志の監視役として密かに配置していたらしいのです」
「それは、まあありそうなことです」
斎藤氏がもっぱら聞き役で、なつみ先生と冴子は質問を斎藤氏に託して頷きながら篠崎の話を食い入るように聞いている。
「あるいはこの家にも仕掛けられているかもしれないと石橋さんが言っていましたが、組織は台湾屋台のアルバイトの店員を買収して、注文した料理を届ける時に二人が座っていたテーブルに小型の盗聴器を置いたそうです」
「うーむ。そこまで…」
「はい。一方南方組でもこれは石橋さんがこの家で言っていたように、独自に武志君を監視していました。こちらは盗聴器を使わずに、武志君が知らない顔の堅気っぽく見える組員が二人のテーブルの横にいたそうです」
「そうでしたか」
「はい、そこで南方組の二人も確かに武志君と朝子が『駆け落ちでもしようか』と話をしているのを聞いたそうです」
「ばかな。朝子さんを巻き込んで早まったことを…」
斎藤氏は吐き捨てるように言い、なつみ先生は顔を覆った。冴子は大きくため息をついた。
「でも、少し安心してください」
三人は反射的に沈みきった顔を一斉に篠崎に向けた。
「実際に『駆け落ちでもしようか』という会話はあったそうなんですが、二人とも笑いながらジュースを飲みながら楽しそうに喋っていたというのです。」
「じゃあ、冗談で?」
冴子がなつみ先生と顔を見合わせながら小さな希望にすがるように篠崎に尋ねた。
「実際に横にいた南方組の二人はそうとっていたようです」
「じゃあ…」
「ええ。おそらく感度のあまり良くない盗聴器を通して離れた場所で音声だけ聞いていた向こうの連中は、駆け落ち、逃亡の密談だと勘違いして…」
「じゃあ、誤解だったんだ」
「少なくとも石橋さん、南方さんはそう捉えているようです」
一同にやっと安堵の空気が流れた。
「そのあたりの話を明日、実際に石橋さんと南方さんが向こうの組織に出向いて話をつけてくるそうです」
「良かった」三人はやっと心の底から胸を撫で下ろした。
「それに当たってですね…」
三人はここで終わりかと思ったところ、まだ肝心の篠崎の緊張の面持ちが溶けていないのに気がついて、再び唾を飲み込んで篠崎の言葉を待った。
「当初の話と違ってしまい、そちらさんには大変なご心配をかけたということで、南方さんが挨拶にきたいということなんです」
一同は静まり返った。
「蜷川会幹部の南方という人がここに…?」冴子はなぜかキョロキョロ周りを見渡した。
「安心しろ。冴子となつみ先生はもし怖かったら同席しなくてもいいよ。挨拶したいというのは俺と斎藤さんにだそうだ」
斎藤氏は深く頷いた。なつみ先生と冴子は少し落ち着いて小さく頷いた。
つづく