大人のピアノ

大人のピアノ そのよんじゅういち 「あたしが最後は何とかする」

「お父さんたち何しゃべってるんだろうね」

「そうだね、またうちの父親が篠崎さんにややこしい議論吹っかけたりしてないといいんだけどね」

 二人は篠崎邸から十分ほど駅と反対側に歩いた、住宅街のブロックの一角にある台湾料理屋のテラスでタピオカを飲んでいた。駅に向かう大通りから一本外れた道にあるこの店は、台湾らーめんやジュースなどを出すいわゆる台湾屋台だった。屋台と言っても日本の屋台のようにおじさんがリヤカーみたいな移動式店舗を引っ張るあの屋台ではなくて、一軒家の一角に客用のテーブルを並べたガレージ風のお店だった。朝子は大学のレポートをまとめる時など自宅の部屋で煮詰まった時によくここに来る。

「でもさ、篠崎さんてなんかいいよね」

 武志がタピオカのコップの底の粒つぶをぐるぐるストローで追いかけながら、素のまま朝子にそう言った。

「え」

 朝子はドギマギする。肩に少しかかった内側にゆるくウェーブさせた髪を無意識に撫でながら、テーブルの下に隠れた白い麻のロングスカートにくるまれた足をスカートの中でそっと組み直す。朝子が本人も気がついていない緊張した時のくせである。

「裏表なくて飄々としていて、それでいて時々ズバッと核心をつくようなことさりげなくいう」

 なんのことだろう…あたし武志さんの前では緊張してほとんど何もしてないと思うんだけど…。朝子が期待半分不安半分の顔をしてチラッと武志の表情を上目遣いにとらえる。武志はタピオカと一緒に注文した骨つきの鳥の唐揚げを、少し長めの台湾箸で口に運んでいる。

「なんかさあ、年齢不詳のおじさんキャラっていうのかな、いっぺんに好きになっちゃったよ」

 あれ、なんだお父さんのことか…。朝子は内心のガックリを隠しながらも、「篠崎さん」「好き」という自分には向けられていなかった単語になお心が騒ぐのを感じていた。「篠崎朝子さん好き」朝子の頭の中では勝手に言葉が化学反応を起こしていた。

「なんかさ、調子いいでしょ、うちのお父さん」

 気を取り直すように、朝子は底に沈んだタピオカをストローで上からつんつんと突き刺す仕草をした。

「篠崎さんとは会ってまだ数日なのになんだかそんな気がしない。何でも話せそうな気がする。飾らないキャラの安心感のせいでこんな状況でもこっちも落ち着けるよ。今回のことはほんと感謝している」

 武志の言葉はまた自分の父親に向けられた言葉であることを、今回は朝子は誤解はしなかった。でも「父じゃなくてあたしは違うの?」という気持ちでいっぱいになってしまった。

 そんな気持ちでまた無意識のうちに髪を手でとかし、薄手のストッキングにパンプスを履いた形の良い脚を組み替える朝子の姿は、テラスの他の男性客がちらっと盗み見るようなほど魅惑的であった。

 もちろんテラスの男性客の一人である武志もまた、実はこの朝子の魅力にさっきから取り憑かれていたのだった。それをストレートに言葉にしないのは、今こうして二人でいることが自分の引き起こした事件の渦中の一シーンにすぎないこと、もっとはっきりいえば一週間限定の束の間の小さな思い出にすぎないという意識のためだった。

 しかし逆にその意識が、「こんなことをしている場合じゃない、こんなことをしていること自体が自分が今迷惑をかけ、その迷惑にもかかわらず自分のために動いている方達に申し訳ないことなのだ」と思いつつ、突発的に気持ちが抑えられれず隠れて朝子と口づけをさせててしまったりする。今も目の前の朝子に対して、武志は場違いな性欲さえ本当のところ感じているのだった。

 スカートの裾から控えめにのぞく形の良いふくらはぎからは、ロングスカートの上から目でなぞるようにしてもバランスの取れた魅惑的な足の付け根の形が容易に想像できる。無造作に着た薄水色の洗いざらしたような生地のデニムのベストは前絞りにされて、その豊かな乳房の下で優雅なシルエットを作っている。胸もとに見えるタピオカを飲むたびに微妙に動く鎖骨は優しく膨らんだ朝子のなで肩をキュッと引き締め、首筋からうなじのダイナミックなラインを作っていた。その一連の統一美が時々朝子の見せる髪をかきあげる仕草によって、つま先から髪の毛の一本一本の先にまで若々しい生命力を与えていた。



「もちろん朝子さんにも感謝してる。それに…」

「それに?」

 朝子の少し上向きにめくれた唇の稜線が不安気に崩れ、自分に向かって次の言葉を促すために開かれるのを見た瞬間、武志は抑えきれなくなって思わずテーブルの上の朝子の手を握った。

「好きだ。どうしようもないくらい好きなんだ。もうこのまま時間が止まるか、そうじゃなかったら何もかも捨てて二人で逃げ出したいくらいだよ」

 武志はこの時もちろん冗談めかしてこの言葉を言った。

 いや、そのはずだった。責任感の人一倍高い武志は自分自身一週間後に南方の前に出頭し、そのまま最悪この世と永遠に縁を切ることになるかもしれないことの覚悟はできているつもりだった。

 しかしこの言葉を口にしてみると、その言葉は言霊となって武志と朝子に憑依した。武志が言葉をおしまいまで言い切るまでのほんの一瞬の間に、言霊は武志の言葉から冗談のニュアンスをすっかり脱色してしまっていた。

 武志は自分の言葉にそのつもりだったはずの冗談の要素が抜け落ちてしまったことに戸惑い、朝子は思いも掛けない武志の直截な愛の告白に気絶するほど心が震えた。これまで親の目を盗んで何度か武志と唇を重ねはしたが、その口づけの切なさの中には、お互いが好きだという愛の気持ちの高ぶりの他にこの一週間しか残された日がないという現実逃避の願望もあったように思う。
 不安の吐息を唇を重ねることで閉じ込め、濃厚な接吻で息ができなくなった苦しさを、その唇で繋がったお互いの体の中の酸素を求めるようにさらに激しくくちびるを吸いあった。武志は朝子の腰に無意識のうちに手を回し、朝子は自分の乳房を乱暴に武志の胸に押し付けた。それは両親が二階で就寝している家の中であったり、深夜の家の前の路地であったりしたけれど、もし状況が許されるならそのまま押し倒されたいような動物的な性欲を朝子は自分の子宮に感じた。
 武志と体を離し、別れたあとベッドに入っても体の火照りを抑えることができず、朝子は唇を硬く結んで武志の名前を脳裏で叫びながら、自分の指を下着のその下の自分の火照りの内奥に滑らさざるを得なかった。



 今武志の言葉を聞くと、一瞬またその動物的な体の疼きが体内の奥にじんと熱く感じられた。しかし不思議なことにその肉体的な愛欲の感覚は程なくすっと消え、それと入れ替わるように子供に頃だけ感じたような、そう、遠足やピアノの発表会の前の晩のような小躍りしたくなるような胸の高鳴りがやってきた。



「いいじゃない。駆け落ち」

 朝子は自分が今、変な例えだが少年のような、そう、マークトウェインの小説のトムソーヤのような顔をしているのではないかと思って可笑しくなった。

「ああ、何もかも捨てて地獄に堕ちちゃおうか」武志もおかしそうに笑った。

 二人は高い声で笑った。そんなことはできやしない。武志の性格から言って…。朝子はそう確信しながらも一週間後の死刑宣告を逃れるためならば、駆け落ち以上のことだってなんだってやりそうな自分を今はっきりと自覚した。



「あたしが最後は何とかする」

 朝子は硬い決意で心に誓った。どんな手を使ってでも武志さんのことを守る。武志がそれを望まなくても、自分の親の信用を失っても、最後に武志と別れることになっても…。

「絶対にそうする」

「え?今なんか言った?」

 最後まで自分の心の中だけで密かに固い決意でつぶやいたはずだったが、武志は笑の続きの中でそう朝子に尋ねた。

「ううん。何も」

「そっか」

 二人はまだしばらく可笑しそうに笑っていた。





つづく

大人のピアノ そのよんじゅうに 武志と朝子が失踪!?

「遅いわね、武志さんも朝子も」

 冴子はいつの間にかソファに場所を移し、斎藤氏とも仲良く雑談していた。

 最初この二人はゼッタイに反りが合わないなと思っていた篠崎でありなつみ先生であった。しかし斎藤氏が武志の天才を気がつかぬふりの演技をやめ、それとともにかなり地金を開けっぴろげにし始めたことで、冴子と急速に打ち解け始めたのだった。斎藤氏は冴子のパンチの効いた喋り方を気に入ったようで、話題は外交のオフレコばなしや朝子や武志のことなど多岐に渡った。

「そうですね」

 斎藤氏も腕時計で午後8時を確認すると、首を傾げた。なつみ先生も不安気にリビングの時計を見る。時計はやはり8時を回っている。二人が出て行ったのは3時過ぎだ。冴子が朝子のケータイに、斎藤氏が武志のケータイにつないでみたが、いずれも「電波の届かないところにあるか電源が入っていないため」つながらなかった。




「私ちょっと見てきますよ」

 篠崎がそう言って立ち上がると、冴子も一緒に立ち上がろうとした。

「いや、お前は二人が帰ってきた時いた方がいいから俺が一人で行ってくるさ」

 リビング入口のコート掛けの薄手のセミロングのジャンパーを引っ掛けながら篠崎が冴子に首を振ると冴子は「そうね」と短く答えた。

「じゃ」

「待ってください」

 行きかけた篠崎に追いつこうとなつみ先生がソファを立ち上がった。心配そうな顔で篠崎を見つめる。

「分かりました。じゃあ一緒に行きましょう」

「はい」

 二人は玄関を後ろにした。






「すみませんね、篠崎さん。金曜のレッスンあたしがすっぽかしてから、なんだかこんなところまで急にものごとが進んじゃって、本当に申し訳ありません」

 なつみ先生は、ずっとそのことを改めてきちんと篠崎に言いたかったようだった。実際、自分の父親との話も含めて、ピアノ教室の生徒として一年弱の付き合いはあるもののここまで親身に家庭内の問題に関わってくれるとは思ってもみなかった。

「いえ、いいんですよ。なんつっか、お父様もおっしゃってたようにこれが武志君の天才性っていうのかな、人を傍観者じゃなくて舞台の上の当事者にしてしまう力だと思いますよ、これはやっぱり」

 篠崎はとりあえず駅の方向に小走りに歩きながら、その横を歩くなつみ先生に語りかけた。

「はあ」

「お父様言ってたじゃないですか、ドンジョバンニの生き方に惚れたら女1000人泣かさなきゃ嘘だって」苦笑しつつ篠崎は楽しそうに言った。

「はあ、なんかたとえ話がヘンなんですけど」

「いえ、よく分かりますよ。一昔前ウーマンリブだとかフェミニズムがはやったでしょ。あれが私は苦手でしてね。男女同権といいながら肝心のところで女の弱さ武器にする人も中にはいたじゃないですか。あれは欺瞞だ。本人が気がついてないからよけいタチがワルイ」

「はい」

「お父様の言ってたのはそれと同じですよ」

「はい」

 チラと横をみると、なつみ先生はうんうんと首を動かしながら歩幅の大きな篠崎について行くため必死に歩いている。篠崎は早く二人を見つけたいと思うはやる心を少しだけセーブしてなつみ先生の歩幅に合わせた。

「同じというと…」

「芸術作品を見てそこに描かれている非日常的な題材に感動する。殺人でも不倫でも戦争でもいいですが」

「はい」

「しかしそういうのに感動した人も実生活では市民の良識、弱者としての市民を隠れ蓑にします」

「そうですね」

「お父様はそれを欺瞞だという」

「はい」

「男女同権を声高に主張するならば、少なくとも女を武器にしちゃいけない。同じように当事者であることを突きつけられた時に市民の論理を当然のように持ち出す人間は"芸術に感動する資格がない"ってことをお父様はおっしゃりたいんだと思います」

「"芸術に感動する資格がない"っていうのはずいぶん厳しい言い方ですね」

「ええまあ、これは私が今勝手に思いついた言葉ですが、逆方面からいえば、芸術作品の中に人間の真実を観た!と言い切れるならば、それを真実だと感動してしまったのならば、その真実は映画館を出たらおしまい、劇場を出たらおしまいではなくて、できるできないの程度の差こそあれ、なんらかの日常生活とつながりを持たせざるを得ないでしょう。いや、それが超一級の芸術に感動してしまった人間の芸術に対する責任の取り方でしょう。お酒飲んで酔っ払うようにだらしなく芸術にカンドーしたとかですまない部分って大事だと思うんです、私」

「難しいけど、それはそうなのかも…」

「たとえば人命救助をテーマにした映画、そうだなハリウッドの『炎のメモリアル』に感動して映画館を出てきた映画青年、演劇青年、文学青年がいたとします」

「はい」

「目の前を暴走トラックが突き抜けようとした」

「こわい」

「ええ、こわいですとも。そこで自分の身の危険を顧みず、目の前のお婆さんや女子供を命張って助けることができるかどうかでしょ」

「なるほど」

「芸術作品に教養だなんだ、人間の真実がなんちゃらとかいうヤツに限って人命救助どころかお婆さんや突き飛ばして自分だけ助かろうとすんじゃないのかい?お父さんの言いたかったことはそれです」

「好意的に解釈していただきありがとうございます」

「今回のことも、市民の論理からいえば最初お父さんがおっしゃったように直ちに警察に連絡すべき事柄だったでしょう」

「はい」

「でも誰も強硬にそうはしなかった。お父様自身も我々がそういうエセ市民かどうか試すつもりだったのか、最初は反対のことを主張してましたが、たぶんはなっから警察沙汰にはしようとなんて思ってなかったと思います」

「はい。今は私もそう思いました」なつみ先生は心なしか嬉しそうだった。

「たぶん「人間の真実に向き合った時にあっさり警察に任せるという市民の論理は、本物ですか?テキトーに芸術を上から目線で「鑑賞」しながら、都合の良い時だけ弱者の論理を振り回す御都合主義なんじゃありませんか?」お父様はそういうことを言いたかったのでしょう」

「そうなんですね、たぶん…ずっと以前から。きっと、あたしが母親に『裸の王様』を読み聞かせてもらっていた頃から。それが武志に伝わったら…」

「これまでの父子の諍いなど消し飛びますよ。それどころか武志君は斎藤さんを尊敬すると思いますよ」

「だといいのですが」

「必ずそうなります」

「はい」




 二人は通りをキョロキョロ見渡しながら、ファミレスや喫茶店を見つければそのドアを開け、店員に頭を下げつつ中の客席を見渡し、また小走りで武志と朝子の姿を追った。二人は駅の向こう側に抜け、そしてもう一度篠崎邸のある側に戻ってきた。

「いない…」

 さすがに篠崎も不安になってきた。まさかとは思うが、あのまま二人して何処かに逃亡してしまったのだろうか…。口にこそ出さねど、なつみ先生も同じことを考えているようだった。たぶん篠崎について来たいと言った家を出る時から先生はその可能性で不安を隠せない表情をしていたのだろう。



「分かった!あそこだ」篠崎が声を上げた。

「どこですか」

「我々が今探したところとちょうど反対側です。最初にそこに行ってみれば良かった」

「どこですか」

「台湾屋台です」



「行きましょう」

「はい」

 二人はしゃべるのをやめ、駆け足で篠崎邸の方へ向かった。





つづく

大人のピアノ そのよんじゅうさん 警察沙汰

「なつみ先生、あそこです」

「はい」

 100メートルほど先に店が見えた。時間にして十分弱。ノンストップで走るのは中年の篠崎にも普段運動していないなつみ先生にとってもしんどかった。

 二人は息を整えながら、とっぷりと暮れた住宅街の路地にある台湾屋台へのラスト100メートルを並んで歩いた。程なく入り口と、屋台の店内が見え始めた。
 ところがいつも武蔵小杉駅の終電時間、つまり深夜0時を回るまで煌々とついているはずの店先の黄色い看板のネオンは明かりが落とされていた。

「ちょっと様子が変だな」

 篠崎は入口付近にあるその黄色い看板が、何かで叩き壊されたようになっているのを発見した。

「あ、そこ入らないで」

 店に入ろうとするとなんと事件現場保存のため黄色いテープが貼られており、大柄の若い制服の警官が鋭い目つきで篠崎を制した。

「何かあったんですか?」

 なつみ先生が恐る恐る後ろから警官に尋ねると、警官はやはり鋭い視線を向けたものの、少し表情を和らげて

「誘拐事件がおきました」と短く答えた。

「誘拐事件!誰が?」

 なつみ先生がなお事情を聞こうとすると、若い警官は店の奥の方をチラッと見た。どうやら事件は店内で起きたらしく、上役の刑事たちはそちらに行っているらしい。無駄口を叩いていると思われると面倒だと思ったのだろう。とりあえず中の奥の方にいるらしい刑事たちの姿が見えないことを確認して、制服警官はなつみ先生に小声で話をした。

「二十歳くらいの若いカップルです。10名ほどの黒ずくめのヤクザ者に囲まれて拉致されました」

「いつのことです」篠崎が身を乗り出した。

「10分ほど前です」

 警官はなつみ先生に応えた手前篠崎一人を無視するわけにもいかず、最小限の返答をした。そういえば、走ってここに向かっている途中で短い間だったがパトカーのサイレンが聞こえた。まさか自分たちの目的地にパトカーが向かっているとは思わなかったが、店の駐車場の奥にはサイレン音を消して赤いランプだけを回転させている覆面パトカー数台が見えた。

「男女のカップルって、まさか女の方はこの人ですか」

 篠崎はケータイに保存してあるかなり昔の朝子の写真を呼び出して警官に見せた。なつみ先生も同じくケータイを取り出して武志の写真を呼び出そうとしている。

「いえ、当然自分は通報を受けて事件後にここに到着しましたので被害者の顔は分かりません。お知り合いの方の可能性がありますか?」

 背の高い警官はやっと篠崎たちが野次馬ではないことを理解し、鋭い目を奥に引っ込めて少し膝を折って篠崎となつみ先生に語りかけた。

「もし男性がこの写真の人物だとしたら私の弟です」なつみ先生はケータイを警官に見せた。

「さっきの写真は私の娘です」篠崎が焦ったそうに店の中を覗き込みながら言った。

「失礼いたしました。そういう事情ならば中の刑事に繋ぎますので、こちらからお通りください」

 警官はそう言って、ピケの片側をはずして二人を手招きした。警官は二人に先行して少し急ぎ足で歩き、現場検証を指揮している鑑識官に敬礼をしてから刑事の名前を呼んだ。億劫そうな風情で奥から出てきた刑事に小声で耳打ちをしてちらっとこちらを見る。おそらく二人が被害者の知り合いである旨を伝えているのだろう。

 刑事が近くにきた。形ばかりの警察手帳の開示があったが、なぜか刑事は二人を被害者の身内としての同情の眼差しでは見ずに、むしろ犯罪者に向けるような厳しい視線を投げてよこした。

「被害者のお身内の方であると…」

「はい、おそらく」篠崎が答え、なつみ先生が横で頷いた。

「うーん」刑事はなおも厳しい視線で二人を舐め回すように見た。

「あの…」

 態度に不信感を持ったなつみ先生が抗議の眼差しを向けると、刑事はやっとすこしこわばった顔を崩した。

「いえね、どうも状況を整理しますと、ある10名ほどの暴力団の集団が二人を拉致しようとしたのを、別のグループの暴力団、こちらは二人だったらしいのですがその二人が拉致を阻止しようとし、激しい乱闘の末多勢に無勢でカップルは拉致されてしまったということなんですよ。失敗した方の二人も逃亡しました」

 刑事は二人に再び厳しい視線を向けた。

「単刀直入にお伺いいたしますが、あなた方を含めて被害者は暴力団となんらかの関わりがあると考えてよろしいですか」

 夜の闇の中ではあったが、篠崎は自分の顔が蒼白になっているのをはっきり感じた。かなりまずい展開になってしまった。こういう事情だとわかっていればこうしてのこのこ中に入ってくることなどせずに、ケータイで蜷川会の石橋に連絡を取るべきであった。

 このまま事情聴取されてしまったら篠崎はまだしも、なつみ先生は尋問のプロにかかって要らぬ事までしゃべってしまいかねなかった。






「詳しくくお話をお聞かせ願いましょうか」

 刑事は二人を覆面パトカーの方へ誘った。

「ヤバイな」

 篠崎はひたいから冷や汗が落ちるのを感じた。このまま別々の覆面パトカーの後部座席に座らされたら、一人にされてしまったなつみ先生が全てをしゃべってしまうだろう。その前に手を打たなければならない…。




「あ!」

 なつみ先生が突然バランスを崩して前のめりに倒れそうになった。篠崎がなつみ先生の靴を闇に紛れてそっと踏んだのだった。

「大丈夫ですか」

 篠崎が助け起こそうとする。

「<さっきのケータイの武志君の写真じゃなく別の写真を刑事に見せて下さい。弟さんが被害者だと悟られないように>」

 篠崎はなつみ先生の耳元に厳しい声で短く囁いた。

 なつみ先生は何を言われたのか意味がわからなかったようだったが、とりあえず小さく頷いた。



「大丈夫ですか」刑事がこちらを向いた。

「ええ。大丈夫です。ちょっとめまいがしてよろけてしまって」

 篠崎が足をわざと踏んだのになつみ先生は気がついていたはずだが、なつみ先生ははっきりとそう刑事に答えた。篠崎は自分の企みがなつみ先生に伝わったことにひとまず胸を撫で下ろした。

「じゃあ、狭いのでお二人別々にお話をお聞きします」

 案の定刑事は二人をバラバラにして事情聴取しようとした。さっきの小声の打ち合わせがなければ、ここで背景の蜷川会がらみのゴタゴタがすべて表に出てしまうところだった。

 別れ際になつみ先生は篠崎の目をしっかりと見つめた。

「大丈夫だな」

 篠崎はとりあえず安堵して、新顔の刑事に促されるまま、さっきの刑事となつみ先生が乗り込んだ隣の覆面パトカーの後部座席に滑り込んだ。





つづく

大人のピアノ そのよんじゅうよん 事情聴取

 事情聴取は三十分ほどで終わった。

 篠崎はなつみ先生に伝えたように、自分でもさっきの黄色いテープのところにいた警官に見せた写真とは全く違う、会社の同じ部署の女の子の写真を見せた。すぐに覆面パトカーの後部座席篠崎の隣に店のスタッフが呼ばれ事実確認をしたが、当然店の者は「この人ではない」と首を振った。

 若い刑事は予想していた話の展開と違ったことに首を傾げたいような表情をし、車を出て隣のなつみ先生の乗った覆面パトの上席の刑事の指示を仰ぎに行った。車窓越しに様子を見る限りでは、向こうの刑事も「分からん」と言った表情で首を横に振っていたので、なつみ先生もうまいこと別の男の写真を見せて捜査を撹乱できたようであった。


「今日のところはお帰りいただいて結構です」

 車に帰ってきた若い刑事はなおも不審そうな顔を篠崎に向けたが、それが上司の指示だったのだろう。向こうでもなつみ先生が車から出てくるところだった。

「念のためにご連絡先を」と言われてしまったので、ここは嘘をついたりすると近所のことだし面倒なことになると判断した篠崎は住所を正確に伝えた。警察手帳にメモを取る刑事は住所の町名がこの事件現場とまったく同じであることに気がつき、またチラッと意味ありげな顔を篠崎に向けたが特に何も言わなかった。

「いや、お手間を取らせました。本日は結構です」

 年配の刑事がなつみ先生と一緒に車から出てきて篠崎語りかける。なつみ先生を見ると少し疲れた顔をしていたが、さっき別れる間際に寄越したようなしっかりとした目で篠崎見た。篠崎はほっとした。

 黄色いテープのところまで二人の刑事が送ってくれたが、帰り際に愛想笑いをしてこう言った。

「篠崎さんはこのすぐご近所にお住まいのようですから、またもしかしたら事件のことで御宅にお邪魔するかもしれません」

 近所の人間に朝子のことで聞き込みをやられたら、さっきの虚偽の事情聴取が一発でバレるな。篠崎はそう思ったが、その時は仕方が無い。今はとにかくまず蜷川会の石橋に連絡が取れる状態になったことだけでもよしとしなければならない。刑事もこんなに早く二人を解放したのも、すぐに自分たちで裏を取るつもりだったのだろう。



「お疲れ様でした」

 角を曲がって刑事たちが見えなくなると篠崎すぐになつみ先生に声をかけた。

「はい。うまく行きました。最初篠崎さんがあたしの靴をわざと踏んだ時には事情が全くわかりませんでしたが、すぐに飲み込めました。よかった。あたしはどっちかというとこういうことにトロイほうだと思いますので」

 なつみ先生は事情聴取が無事終わり、刑事の姿も視界から消えたことで安堵感からかそう言って、わずかに口元をほころばせた。

「いや、ほんとお疲れ様でした。しかしはっきりしたのは、どうも約束を破って武志君が殴った側の組織が南方さんの組織を差し置いて二人を拉致したようですね」

 篠崎は沈痛な面持ちで言った。ついに武志のみならず娘の朝子を直接的に巻き込んでしまったことになる。

「武志のせいでこんなことになってしまいまして、何と言って良いやらお詫びのしようもございません」

 なつみ先生もまた篠崎以上に沈痛な顔で言った。

「いえ、それよりみんなで善後策を検討しましょう」

 ここまで話し終わると、ちょうど篠崎邸の玄関についた。





つづく
ゆっきー
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