大人のピアノ

大人のピアノ そのさんじゅうさん 武志の父親登場

 何となく寝付けないままに篠崎が起きたのは昼前だった。いろんなことがありすぎて疲れたというのが正直なところだった。寝ている間に武志の父親から篠崎宛に電話があったそうだが、電話を受けた朝子が篠崎を起こそうと二階に上がるのをなつみ先生が制したらしい。
 電話を代わったなつみ先生は、篠崎さんはまだお休みになってるから起こさない方が良いとのことを父親に伝えた。そういうわけで、午後一番にやってくることになった武志の父親とは謂わばぶっつけ本番で対面することになる。武志の宿泊を引き受けた手前行きがかり上ここまで来てしまったが、どういう挨拶をしたものか…と篠崎はしばし悩んだ。




 武志の父親は吉野堂のひよこのお菓子を持ってやって来た。

 最初に本来ならば妻もご挨拶に伺うところを、武志との対面で取り乱すといけないからという理由で家に置いてきたことの非礼をわびた。また、こうして見ず知らずの他人にこういう形で不肖の息子が迷惑をかけているとのお詫びが延々と続きそうだったので、篠崎は「それよりも、少しでも多くの時間を息子さんとお話に使ってください」とかわしておいた。

 篠崎の知る限りの印象で、他の省庁と比べて外務省には役人然としたタイプの人の割合が少ないように思っていたが、武志の父親はいかにも厳格なお役人という風貌だった。なつみ先生といい武志といい、芸術家の子どもたちとこの父親のイメージのつながりが、篠崎にはなめらかに想像できなかった。もしかすると今日は来なかった京都の老舗の呉服屋だったかの母方の血筋にそういうものが流れているのだろうか、と想像してみたりもした。

 対面した親子が話をするにの難渋している様子は誰の目にも明らかだった。初めは父親と武志の二人でソファに座って対面したのだが、時々ポツリポツリと父親が不機嫌をかみ殺したような短い言葉を発し、武志が必要最小限にそれに答えるという感じだった。

 まったく席を外しておくというのも自分の家でかえって不自然な感覚もあったので、篠崎は冴子と朝子と、二人の声が何となく聞こえるか聞こえないくらいの距離の食卓に座っていた。はじめはなつみ先生もそこにいかにもいづらそうに座っていたのだが、武志と父親との親子対話の様子にため息をついて二人のいるソファに席を移した。

 時に父親の大きな声が出掛かったが、その度になつみ先生が父親の視線を篠崎たちの方に誘導して、「他所様の御宅で失礼です」と目で制した。




 小一時間もそうしたなんとなく不毛にも見える甚だしくストレスフルな時間は続いた。

「外へ出て話をしよう」

 父親が自ら立ち上がって武志の腕を掴もうとしたが、武志は座ったまま応じなかった。外に行けば今ここで押さえている大声や、場合によってはビンタなどもあるのかもしれない。むろん武志もそんなことは恐れてはいなかったが、場所を変えたそうした話し合いが今ここでのそれよより良くなるとも思えなかった。


 どうするつもりなんだろう…。冴子と朝子が心配そうな顔で篠崎を見た。篠崎も困った顔をしていたが、タイミングをみて「お父さん、お話中すみません」とソファに近寄った。

「まったくお恥ずかしい話で恐縮です」父親は申し訳ないと言った顔で頭を下げた。

「あの、どうでしょう。まだ今日は早い時間ですし、このままこうして重苦しい雰囲気で武志君とお話しているのもあれですから、一息入れませんか」

「はあ」

「私はあくまでこうして今回は行きがかり上こうした立場になっていますが、もとより他所様の家庭の事情に口を挟むつもりありません」

「いえ、まったく恐縮の至りでございます」

「少し一息いれてお茶でも」

「はい」





「武志君は朝子と少し散歩にでも行っておいで」

 篠崎の心遣いに、武志が手を合わさんばかりに心の底から「感謝します」と表情で答えた。篠崎が朝子を見ると、朝子はもっとストレートに篠崎を向いて手を合わせて拝んでたので篠崎は思わず吹き出した。その横では冴子が苦笑している。


「すいません。仕切ってしまって…」

「あ、いえ」

 先手を打って篠崎がそう言っていかにも申し訳なさそうな顔を作って頭を下げたので、武志の父もその流れに従うより他なかった。





つづく

大人のピアノ そのさんじゅうよん 天才とは何か

 お茶とおみやげのひよこのお菓子が並び、お茶の用意をした冴子もそのままソファに座り、大人ばかり四人が相対した。

「いや、大変にお恥ずかしい醜態をさらしまして面目次第もございません」武志の父親はハンカチで額をぬぐった。

「いえ、そんな恐縮されなくてもいいですよ。なんといいますか武志君の私に見せる態度はそれは立派なものだと思いますし、私はお嬢さんのなつみ先生にはずっとお世話になっておりまして、さすがはあのなつみ先生の弟御さんだなと感じていた次第です」お世辞ではなく篠崎は心底そう思っていた。

「あ、こちらこそいつもなつみがお世話になっております」斉藤氏はなつみ先生を一瞥してから頭を下げた。

「まあ、それはさておき、お話の方はどうですか」

 どうも何も話が全く建設的な方向に進んでいないのは見ていて明らかだったのだが、篠崎はそのことを斉藤氏がどう考えているのか知りたくもあり、あえて尋ねてみた。

「どうもこうも、あいつは事態が飲み込めていないとしか思えません。一週間後に自分で命を落とす可能性もあるのにヤクザのところに出向いて行くと言う一点張りでテコでも動きませんな」

 さっきの膠着状態を思い出したせいで斎藤氏の顔はまた一気に渋い顔に戻った。

「まあ、おだやかな話ではありませんね」

「とんでもない話ですよ。馬鹿げてます。いくら世話になったかは知りませんが、武志は堅気の普通の人間です。不法行為を常とする生業の集団に対してその集団のやり方で仁義を通す必要などまったくないでしょう。相手を殴ったことに対しても、正々堂々と裁判でやりあったらいい。情状酌量はあったとしても、東京湾に沈めることが正当化されるなんて判決があるわけない。日本は法治国家なんだから、武志のやったことは粛々と法にのっとって処理されてしかるべきです」

 一部の破綻もない、そして社会常識に則った意見だった。しかし相手はこの社会常識が通用しない。

「私は極道のルールがどうかは知りませんし興味もありません。しかしどんなルールであれ、市民社会のルールに反するものは国家権力をもってそれを無効にすることが至当でしょう。その辺りの常識を簡単にさっき聞かせてやったのですが武志のヤツ…」

 いらだちを隠さない斎藤氏になつみ先生がため息をついた。

「お父さん、ぜんぶお父さんのいう通りなんだけどさ…。なんていうか、武志はその正しい意見そのものを疑問に感じてるのよ。それよりお世話になった南方さんのメンツを潰さないことが大事だと思ってる…」

「くだらん。青臭いにも程がある」

「そうよ、その通り。でも単純にお父さんや世間の常識に反発してヤクザの常識をかっこいいと思っているっていう単純なことじゃないの。まさかあの武志はそういうところでウロチョロしたりしないわ」

「じゃあ、なんだっていうんだ…」

「それは…」

 なつみ先生も面と向かって言われると言葉にはできないようだった。また重苦しい沈黙がリビングを支配した。




「あの時のことを思い出すよ」意外にも沈黙を破ったのは斎藤氏だった。

「なに?」

「岸谷先生とやりあった時のことだ」憮然とした表情で斎藤氏が言った。

「ああ…」なつみ先生は苦笑とも呆れ顔ともとれる表情で頷いた。

「なんですか、それ」岸谷…どこかで名前が出なかったけ…そう感じながら篠崎が二人に聞いた。

「洗足学園の…」

「ああ、なつみ先生と武志君の共通の師匠の!」そうか、神田さんと平林さんと三人で見た【斎藤なつみ 「大人のピアノ発表会」】のパンフレットで見たんだっけ、篠崎は一昨日の喫茶店でのやりとりを思い出した。

「岸谷先生がうちにお見えになった時、父と激論になりまして…」

「そりゃまたどんな」

「くだらん。そもそも天才なんていう存在ほどいかがわしく胡散臭いものはない!」

 斎藤氏はまた少し激していた。篠崎はなんとなく斎藤がどんな人物なのかのイメージができてきた。

「天才論争ですか?」

「岸谷先生は武志を天才だと…」

「くだらん。天才がそのへんに転がっているわけはない。気楽に人の息子を天才だとかおだてておいてピアノの道に云々…。くだらん」

「その時のお話をさっき思い出されたというわけですか」篠崎が確認した。

「ええ。天才だとか芸術家とかいうのはまったくもってくだらん。こっちの話がまるで通じん」

「それで思い出したというわけですか…」

「そうです」斎藤氏はきっぱり言い切った。

「父にとっては芸術家も天才も天敵でして…」なつみ先生が口を挟んだ。さっきと同じ苦笑とも呆れ顔ともとれるあの表情だった。




「天才もダメ、芸術家もダメ。じゃあ、お父様がご子息とお話が通じないのはしょうがないですわ。だって息子さんは「天才芸術家」なんですから。」

 今まで黙っていた冴子があっけらかんと言った。

 しばし沈黙が訪れたあと、リビングは笑の渦に包まれた。なかなかやるなという目で篠崎が笑いながら冴子を見る。確信犯の冴子はつられて笑って見せる。なつみ先生はお腹を抱えて笑っていた。


 ただ一人斎藤氏は笑もせず、「何がおかしいのだ!」というむすっとした顔で三人でを順番に代わる代わる見ていた。





つづく

大人のピアノ そのさんじゅうご 裸の王様?

「私は率直に申し上げて、武志君は天才だと思いました」

 篠崎は真面目な声でそう言った。なつみ先生が笑うのをすっとやめ、興味深そうに篠崎を見つめた。

「ほう」

 斉藤氏は自分の反天才論に敵対する篠崎の表明に「それで?」といった挑戦的な視線を向けた。

「いえ、私はもちろん音楽などはよくわかりません。分かりませんが武志君は天才だと思います」

「はて、それはどういうことなのでしょう。逆に私は武志は天才だとは思いません。あなたと同じように音楽のことはさっぱりわかりませんが」

 篠崎にはそのつもりはなかったが、斉藤氏は意図的に対立軸をはっきりさせようとしたようにも見えた。二人で正面切って議論するつもりはなかったので、篠崎はなつみ先生の方を向いて首を傾げた。

「専門家の先生はどう思われますか」

 なつみ先生は、父親の方をちらっと見てから篠崎の顔をまっすぐに見た。

「天才だと思いました」

「おい、なつみ。はしたない。自分の身内を天才だとかいうもんじゃない。下品だぞ」斉藤氏が不愉快な顔をした。

「まあまあ、お父さん。すみません、なつみ先生に話を振ってしまいました私に免じて許してあげてください。なつみ先生は今『天才だと思いました』っておっしゃいましたよね」篠崎がなつみ先生の目を見返して尋ねた。

「はい」

「いえ、すいません。変なところにこだわって。ちなみにいつそう思ったのですか」

 斉藤氏はなんの意図を含んだ質問だ?という顔で篠崎を見ている。

「昨日、石橋さんがお見えになっている時に弾いた武志のピアノを聴いてはっきりそう思いました」

「なつみ先生、実は私もそうです。あ、私は武志君の演奏を聴くこと自体が初めてだったので当然そうなるのですが、昨日は石橋さんも改めてそう思ったのではないでしょうか」

「だれですか、その石橋なる人物は」斉藤氏が額にシワを刻みながら聞いてくる。

「武志君が世話になっている千葉の組織の幹部らしいです」

「ありていに言えばヤクザですか」斉藤氏は明らかに小馬鹿にした様子だった。

「まあ、ヤクザごときに何がわかるとおっしゃりたいのも分かりますが…」

 先回りして自分の心中を指摘された斉藤氏は少し不快な顔をした。

「まあ、そういうことです。音楽なんて所詮わからない連中でしょう」



 斉藤氏の身も蓋見ない断定的な言い方に座は少々白けてしまった。

「でも、何か感じるところはあるようですよ。その石橋さんの上席の南方さんという方も…」

「それが今回の仕切り訳のボスヤクザですか」篠崎のしゃべるのを遮って斉藤氏が嫌悪感露わに言った。

「そうです」

「くだらん、実にくだらん」

 冴子がお茶を入れ替えるためにすっと席を立った。




「ちなみに洗足学園の岸谷先生とはどんな論争になったのですか?」なつみ先生に篠崎が問いかけた。

「裸の王様」

 なつみ先生はそう言っておかしそうに、すこし睨むように、空気を悪くしている自分の父親を見て笑った。

「裸の王様?あのアンデルセンの…?」

「はい」

 ニヤッと歯を見せて笑うなつみ先生はとてもかわいらしかった。

「もし良かったら、その時のお話をお聞かせ願えませんか」

 篠崎は斉藤氏にではなく、なつみ先生にそう言った。

「はい。私もその場にいましたからよく覚えています」

 なつみ先生はそういってまたくくっと笑った。



「くだらん、実にくだらん」

 斉藤氏は横を向いてしまった。





つづく

大人のピアノ そのさんじゅうろく あの話の本当の意味

「裸の王様ですか…」

「あ、と言っても岸谷先生が父のことを裸の王様だ!と言って喧嘩になったとかではないんですよ」

 お茶を入れ替えていた冴子がプッっと吹き出した。斎藤氏がそれを見咎めてギヌロと睨んだので、お茶をいれ終わった冴子はそそくさとソファから離れて自分の定位置の食卓の椅子まで退散した。

「父は裸の王様という存在が世の中には必要だ、ということを力説したかったみたいです」

 なつみ先生は父親の方を見ながらそう言葉を継いだ。先生はまじめな顔をしてそう言った。確かに斎藤氏はややクセはあるように見受けられるものの、岸谷教授と議論のための議論や単に言い争いめいたことだけをするようにも見えなかった。篠崎は「裸の王様が世の中に必要だ」という斎藤氏の考え方について興味が湧いてきた。

「単に王様がなんというか、民衆の統治のために必要だ、というのじゃなくて『裸の王様』が必要なんだということなんですね」

 篠崎はなつみ先生に話しかけながらも斎藤氏を横目で見て言った。斎藤氏は篠崎が話に興味を持ったらしいと察知して、「うんうん」と頷いていた。

「その逆に、物語の中では王様の滑稽な嘘を暴いてみんなのヒーローになった子供は大変にけしからん!くだらん!ということみたいです」

 なつみ先生がわざと父親の口癖を真似して説明すると、「うんうん」と頷いていた斉藤氏は娘が自分をからかったことにすぐに気がついて「こいつめ!」とまたギヌロと睨んだ。

 さっきからのわかりやすい反応がなんとなく面白く、篠崎は斉藤氏にだんだん好印象を持ってきた。冴子をちらっとみると、クククッと笑っている。冴子もどうやら斉藤氏のそういうある意味子供っぽいところにむしろ好印象を抱いて少しからかってみたくなったのかもしれないなと篠崎は思った。

「しかしそりゃまた、ユニークな考え方ですよね。あのお話の眼目は『権威やお追蹤や世の中の常識にとらわれている権力者を民衆の真実が暴いた』でほぼ確定でしょ」

「まあ、そうですよね。あたしも子供の頃読んだ絵本でもそれ以外の印象を持ちませんでした」

「うん。オランダだったかデンマークだったか忘れましたけど多分本国でもそう読まれてますよねぇ」

「そうですよね。でも父はそうじゃなかったんです。あたしが母親から絵本を読んでもらっていた時に、普段子育てなんてまったく関心もなかった父が『その話の本当の意味はこうだぞ!』って毎回近づいて来たので、母親が笑いをこらえながらあたしを連れて別の部屋に避難してた思い出があります」

 ププっとまた冴子の笑い声が聞こえて、篠崎はその冴子のタイミングを図ったリアクションにつられて笑いそうになるのをこらえるのが大変だった。斎藤氏をこっそりみると、はたしてお約束のように(しかし当人は本気で)ギヌロっと冴子を睨んでいた。

「お父さんとしては大変に大切な話だったのですね」今度は斎藤氏を見て篠崎がいうと、斎藤氏は「うんうん」と満足そうに頷いて自分でも口を開きかけた。

「それでですね…」

 父親が演説を始めそうな気配を察したなつみ先生が父親を遮って話の続きをする。今度は斎藤氏は娘にギヌロをした。

「簡単にいうと、世の中の常識を暴露して得意になるには愚の骨頂である、ということみたいです。常識というもの、権威というもの、そういうものはいわば必要悪的に世の中や人の心を安定させるために必要で、王様だって自分が裸だって分かっていて、いいかげんくだらないと思いながらも宮廷の儀式やら外交やらパーティーやらやってるんだと」

「おおぅ。面白い考え方です。いや、例えば若者が何でもかんでも見境なく反発するのは確かに度が過ぎると見てられませんね。そういうのはあります」

 篠崎の同意の言葉を聞いて、斎藤氏がニカっと笑った。

 なんだか単純で裏表のない人だなと篠崎は思うのと同時に、いろんな駆け引きがお仕事のメインのはずの外交官に向いてないんじゃないか、と余計な心配もしてしまった。

 と、同時に外交官としての斎藤氏がこの「裸の王様」の要諦とでもいうべきものを外交の真髄であると考えているとしたら、もしかするとそれは外交のプロ中のプロとしての筋金入りの見識なのかもしれないと思った。

 であるならば、本当の斎藤氏というのはいったい…



「だんだん話が見えてきました。それに分かってきたらずいぶん面白い話になりそうな気がします。それがいったい天才論や音楽論にどう結びつくのかな…」

 ここでまた斎藤氏が機嫌の直った表情で口を開きかかったが、「それはですね…」となつみ先生に遮られてしまった。



 斎藤氏は機嫌の良い顔を引っ込めて娘をギヌロと一瞥した。




つづく
ゆっきー
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