大人のピアノ

大人のピアノ そのさんじゅうご 裸の王様?

「私は率直に申し上げて、武志君は天才だと思いました」

 篠崎は真面目な声でそう言った。なつみ先生が笑うのをすっとやめ、興味深そうに篠崎を見つめた。

「ほう」

 斉藤氏は自分の反天才論に敵対する篠崎の表明に「それで?」といった挑戦的な視線を向けた。

「いえ、私はもちろん音楽などはよくわかりません。分かりませんが武志君は天才だと思います」

「はて、それはどういうことなのでしょう。逆に私は武志は天才だとは思いません。あなたと同じように音楽のことはさっぱりわかりませんが」

 篠崎にはそのつもりはなかったが、斉藤氏は意図的に対立軸をはっきりさせようとしたようにも見えた。二人で正面切って議論するつもりはなかったので、篠崎はなつみ先生の方を向いて首を傾げた。

「専門家の先生はどう思われますか」

 なつみ先生は、父親の方をちらっと見てから篠崎の顔をまっすぐに見た。

「天才だと思いました」

「おい、なつみ。はしたない。自分の身内を天才だとかいうもんじゃない。下品だぞ」斉藤氏が不愉快な顔をした。

「まあまあ、お父さん。すみません、なつみ先生に話を振ってしまいました私に免じて許してあげてください。なつみ先生は今『天才だと思いました』っておっしゃいましたよね」篠崎がなつみ先生の目を見返して尋ねた。

「はい」

「いえ、すいません。変なところにこだわって。ちなみにいつそう思ったのですか」

 斉藤氏はなんの意図を含んだ質問だ?という顔で篠崎を見ている。

「昨日、石橋さんがお見えになっている時に弾いた武志のピアノを聴いてはっきりそう思いました」

「なつみ先生、実は私もそうです。あ、私は武志君の演奏を聴くこと自体が初めてだったので当然そうなるのですが、昨日は石橋さんも改めてそう思ったのではないでしょうか」

「だれですか、その石橋なる人物は」斉藤氏が額にシワを刻みながら聞いてくる。

「武志君が世話になっている千葉の組織の幹部らしいです」

「ありていに言えばヤクザですか」斉藤氏は明らかに小馬鹿にした様子だった。

「まあ、ヤクザごときに何がわかるとおっしゃりたいのも分かりますが…」

 先回りして自分の心中を指摘された斉藤氏は少し不快な顔をした。

「まあ、そういうことです。音楽なんて所詮わからない連中でしょう」



 斉藤氏の身も蓋見ない断定的な言い方に座は少々白けてしまった。

「でも、何か感じるところはあるようですよ。その石橋さんの上席の南方さんという方も…」

「それが今回の仕切り訳のボスヤクザですか」篠崎のしゃべるのを遮って斉藤氏が嫌悪感露わに言った。

「そうです」

「くだらん、実にくだらん」

 冴子がお茶を入れ替えるためにすっと席を立った。




「ちなみに洗足学園の岸谷先生とはどんな論争になったのですか?」なつみ先生に篠崎が問いかけた。

「裸の王様」

 なつみ先生はそう言っておかしそうに、すこし睨むように、空気を悪くしている自分の父親を見て笑った。

「裸の王様?あのアンデルセンの…?」

「はい」

 ニヤッと歯を見せて笑うなつみ先生はとてもかわいらしかった。

「もし良かったら、その時のお話をお聞かせ願えませんか」

 篠崎は斉藤氏にではなく、なつみ先生にそう言った。

「はい。私もその場にいましたからよく覚えています」

 なつみ先生はそういってまたくくっと笑った。



「くだらん、実にくだらん」

 斉藤氏は横を向いてしまった。





つづく

大人のピアノ そのさんじゅうろく あの話の本当の意味

「裸の王様ですか…」

「あ、と言っても岸谷先生が父のことを裸の王様だ!と言って喧嘩になったとかではないんですよ」

 お茶を入れ替えていた冴子がプッっと吹き出した。斎藤氏がそれを見咎めてギヌロと睨んだので、お茶をいれ終わった冴子はそそくさとソファから離れて自分の定位置の食卓の椅子まで退散した。

「父は裸の王様という存在が世の中には必要だ、ということを力説したかったみたいです」

 なつみ先生は父親の方を見ながらそう言葉を継いだ。先生はまじめな顔をしてそう言った。確かに斎藤氏はややクセはあるように見受けられるものの、岸谷教授と議論のための議論や単に言い争いめいたことだけをするようにも見えなかった。篠崎は「裸の王様が世の中に必要だ」という斎藤氏の考え方について興味が湧いてきた。

「単に王様がなんというか、民衆の統治のために必要だ、というのじゃなくて『裸の王様』が必要なんだということなんですね」

 篠崎はなつみ先生に話しかけながらも斎藤氏を横目で見て言った。斎藤氏は篠崎が話に興味を持ったらしいと察知して、「うんうん」と頷いていた。

「その逆に、物語の中では王様の滑稽な嘘を暴いてみんなのヒーローになった子供は大変にけしからん!くだらん!ということみたいです」

 なつみ先生がわざと父親の口癖を真似して説明すると、「うんうん」と頷いていた斉藤氏は娘が自分をからかったことにすぐに気がついて「こいつめ!」とまたギヌロと睨んだ。

 さっきからのわかりやすい反応がなんとなく面白く、篠崎は斉藤氏にだんだん好印象を持ってきた。冴子をちらっとみると、クククッと笑っている。冴子もどうやら斉藤氏のそういうある意味子供っぽいところにむしろ好印象を抱いて少しからかってみたくなったのかもしれないなと篠崎は思った。

「しかしそりゃまた、ユニークな考え方ですよね。あのお話の眼目は『権威やお追蹤や世の中の常識にとらわれている権力者を民衆の真実が暴いた』でほぼ確定でしょ」

「まあ、そうですよね。あたしも子供の頃読んだ絵本でもそれ以外の印象を持ちませんでした」

「うん。オランダだったかデンマークだったか忘れましたけど多分本国でもそう読まれてますよねぇ」

「そうですよね。でも父はそうじゃなかったんです。あたしが母親から絵本を読んでもらっていた時に、普段子育てなんてまったく関心もなかった父が『その話の本当の意味はこうだぞ!』って毎回近づいて来たので、母親が笑いをこらえながらあたしを連れて別の部屋に避難してた思い出があります」

 ププっとまた冴子の笑い声が聞こえて、篠崎はその冴子のタイミングを図ったリアクションにつられて笑いそうになるのをこらえるのが大変だった。斎藤氏をこっそりみると、はたしてお約束のように(しかし当人は本気で)ギヌロっと冴子を睨んでいた。

「お父さんとしては大変に大切な話だったのですね」今度は斎藤氏を見て篠崎がいうと、斎藤氏は「うんうん」と満足そうに頷いて自分でも口を開きかけた。

「それでですね…」

 父親が演説を始めそうな気配を察したなつみ先生が父親を遮って話の続きをする。今度は斎藤氏は娘にギヌロをした。

「簡単にいうと、世の中の常識を暴露して得意になるには愚の骨頂である、ということみたいです。常識というもの、権威というもの、そういうものはいわば必要悪的に世の中や人の心を安定させるために必要で、王様だって自分が裸だって分かっていて、いいかげんくだらないと思いながらも宮廷の儀式やら外交やらパーティーやらやってるんだと」

「おおぅ。面白い考え方です。いや、例えば若者が何でもかんでも見境なく反発するのは確かに度が過ぎると見てられませんね。そういうのはあります」

 篠崎の同意の言葉を聞いて、斎藤氏がニカっと笑った。

 なんだか単純で裏表のない人だなと篠崎は思うのと同時に、いろんな駆け引きがお仕事のメインのはずの外交官に向いてないんじゃないか、と余計な心配もしてしまった。

 と、同時に外交官としての斎藤氏がこの「裸の王様」の要諦とでもいうべきものを外交の真髄であると考えているとしたら、もしかするとそれは外交のプロ中のプロとしての筋金入りの見識なのかもしれないと思った。

 であるならば、本当の斎藤氏というのはいったい…



「だんだん話が見えてきました。それに分かってきたらずいぶん面白い話になりそうな気がします。それがいったい天才論や音楽論にどう結びつくのかな…」

 ここでまた斎藤氏が機嫌の直った表情で口を開きかかったが、「それはですね…」となつみ先生に遮られてしまった。



 斎藤氏は機嫌の良い顔を引っ込めて娘をギヌロと一瞥した。




つづく

大人のピアノ そのさんじゅうなな ゲーテとモーツァルト

「それはですね…岸谷先生曰く、天才とか芸術家とか呼ばれる人がやっていることが、その『王様は裸だ』と指摘した子どもと同じだから」
 
 なつみ先生がそう言うと、斉藤氏は深く頷いた。岸谷教授の意見ということだったが、そのことに関しては同意しているようだった。

「その通り」斉藤氏がついに口を挟んだ。なつみ先生が心配そうな顔で父親を見る。

「ここまで整理してくれてありがとう、なつみ。まぜっかえしたり誰かを批判したりはなしで、ちゃんと説明するからここからは私にしゃべらせなさい。武志のこととも深く関わるところだ」

 斉藤氏はもう一度自分で頷いた。

 篠崎はこの短時間でずいぶん斎藤氏の印象が変わった。最初はさばけた外務官僚ではなく、もっとお固いお役人さん。次に、武志君とも衝突するだろうなあ…というあまり物分りの良くない常識派の人間、しかし意外ににお茶目なところもあるらしい。

 そして今話をしようとしている斉藤氏はお固い頑固な印象は後ろに後退し、酸いも甘いも深く識った人生経験豊かな紳士といった印象だった。そのどれもが斉藤氏であり、もっと深く付き合えばその一見バラバラに見えるキャラクターも深いところで極めて興味深い形で統一されているような気がした。




「かのゲーテがモーツアルトの音楽についてこんなことを言ってますな。

『いかにも美しく、親しみやすく、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。いつか誰かが成功するかも知れぬという様なことさえ考えらぬ。元来がそういう仕組みに出来上がっているからだ。はっきり言ってしまえば、人間どもをからかうために、悪魔が発明した音楽である』

こんな感じだったかな」

 斉藤氏はまるで書物を朗読するように浪々と淀みなく見事に通る声でゲーテの言葉を語った。

「ご存知ですか」斉藤氏がにこやかに笑って篠崎に尋ねた。

「いえ、初めて聞きました。もう一度お聞かせいただいてもよろしいでしょうか」

 斉藤氏は頷いてもう一度同じイントネーション、おなじ息継ぎで同じように一同のはらわたに染み通るような印象深い声でゲーテの言葉を朗読した。

 斉藤氏の声も印象的だったし、言葉の内容も何かとても重要なことを言っているように感じられたが、篠崎にはそれを自分から言葉にすることができなかった。

「モーツアルトを悪魔の音楽だと言っているのですね…」

「そう。親しみやすく心地が良い。しかしそれに身を任せるととんでもないことになる。子どもと同じように。そしてある日突然その本性を顕わし、『王様は裸だ』と聴いている者の耳に死刑宣告をする。ゲーテはそう言っているのでしょう。モーツアルトは危険だと」

 篠崎の耳に何か強烈に斉藤氏の言葉が響いてきたが、まだその正体はつかめなかった。何か今まで思いもよらなかったバラバラの事柄が、斉藤氏の言葉を聞いているうちに急速に明らかになりそうな予感がした。

「正直難しくてよく分からないのですが、もっとお話をお聞かせくださいませんか」

「ええ。いいですよ。たしか岸谷さんとも最初はこんな話をしていて、最初はお互い多いに意気投合していたのでした」

「最初は…?」

「そうなんです」なつみ先生が困った顔で言った。

「最初は岸谷教授も、父の音楽論をすごく面白がって、ご本人のお言葉ですが『敬意を持って』お聞きくださっていたんですが、いつの間にやら大激論になってしまって…」

「あなたともそうならないと良いのですが…」斉藤氏が機嫌よくニヤニヤ笑いながら篠崎に言った。

「いえ私は岸谷教授や、音楽を知らないなんて嘘をおっしゃってたあなたのようには音楽を知りません。だから激論になり様がないので、そこはご安心ください」篠崎がそう言うと、斉藤氏は笑って自分の顔の前で手を大きく振った。

「音楽を語るのに音楽の知識なんてこれっぽっちもいりませんよ。そんなのは音楽に劣等感を持った半可通の音痴がこだわることです。コンサートが終わったあとしたり顔で今日の演奏はどうだったとか技術的なことをあれこれ得意顔で話をするバカどもがいるでしょう。恥ずかしくて聞いちゃいられません。篠崎さんにはそういう偽の音楽談義は必要ないでしょう。あなたはきっとそういうことが不必要なこともお分かりのはずだし。ただ「本物の、大人の音楽」っていうものが何かが分かればいいのです。」

 篠崎は、昨日武志のピアノを聴いて感動した時に「自分はこの武志のピアノの『本物さ』が分かる」と自分で確信した時のことを思い出した。そして、その時思い出したコンサートが終わったあといかにもピアノ経験者といった感じの女性が32分音符の下降音がどうのと言ってたことをアホらしく思い出したことを今目の前の斉藤氏に見透かされたようで、少し戸惑い、少し気恥ずかしい思いをした。




「じゃあ、わかる範囲でお話のお相手をさせてください」

 篠崎がそう言うと、斉藤氏は愛嬌のある笑顔で何度も頷いた。





つづく

大人のピアノ そのさんじゅうはち 芸術はくだらないし天才は有害である

「モーツアルトの音楽が悪魔の音楽というのは、なんとなくゲーテ的ですよね」

「ほう、どうしてです?」斉藤氏は篠崎の言葉に反応した。

「うーんうまく言えないけど、ゲーテの悪魔って人間を根こそぎ不幸にする邪悪な存在ってわけでもない気がします」

「ああ、なるほど。『ファウスト』に出てくる悪魔なんかはそうですね。あくまでも人間の際限ない、わがままな欲望の手助けをする存在かな。悪魔が人間を一方的にダメにするのではなくて、人間の持っている"どうしようもなさ"みたいなものをもし形にするとしたらこうなるんだよ、って教えてくれる存在なのかもしれません」

「『ファウスト』はまさにそうですね。私はたまたま大学の時付き合ってた彼女が独文で、『ファウスト』のあらすじを教えてもらったんですが、ファウストって人間の真実を追求する高貴な人間なんかじゃまったくないですよね。」篠崎は学生時代を懐かしむような顔で言った。

「そうですよねぇ…。実際『ファウスト』を最後まで読んだことないような文学青年が雰囲気でそういうこと言いそうですけど、ファウストって自分の欲望のために殺人を犯して第二部では物欲や権力欲にまみれ切った専制君主となってさらに周りの人を不幸にして死んで行くわけでしょ。あれをメフィストフェレスがやったというのはおかしいですよ。自分でそういう道を突き進んで行ったわけで、メフィストはその背中を押しただけ、というのが普通に先入観なしに読んだ『ファウスト』でしょう」

「そうですね、メフィストフェレスは愛嬌のあるいいヤツじゃないかと思えるところもたくさん出てきたような覚えがあります。でも悪魔って本当はそういう存在だっていう気もしますね。自分の欲望で人間を不幸にするんじゃなくて、なんていうか人間の鏡みたいな」

 篠崎はしゃべっているうちに自分の考えが見えてくることを願って、言葉を自分の頭から一生懸命引っ張り出していた。

「もともと普通に、普通にというのはまっとうにという意味ですが、生きていくのに不必要なまでの過剰な欲望や人間の真実みたいなものを、疑わなくても済むように常識っていう知恵が生み出されてきたんだと思うんですよ、私は」

「なるほど。その辺りで『裸の王様』とつながるわけだ。せっかく人間の邪悪な不必要な欲望や、知らなくてもいい真実を封印してみんなが暗黙のルールを守っているのに『それは真実じゃない!』と得意になってやっちゃう」

「そうですよ。例えば『何で人を殺しちゃいけないの?』っていう問いもそうです。その問いにきちんと答えるのは実はすごく難しいことです。理屈をつけても説明しようとしても、その当のする側もだんだんとどうもしっくりこないことに気がついてしまう。」

「そういえば、芸術作品では殺人がたくさん描かれますよね」

「そう。無防備にそれを鑑賞すれば、その芸術作品が優れていればいるほど、第一級の天才が作り出したものであればあるほど、それは『何で人を殺しちゃいけないの?』という根源的な問いを私たちに投げかけるでしょう」

「なるほど。それで天才や芸術というものが危険だというわけですね」

「ええ。例えばモーツアルトのオペラを御覧なさい。女を際限なく不幸にしていく『ドンジョヴァンニ』のなんと魅力的なこと、恋人の貞操をお互いの恋人を騙すことで試そうとする『コシファントュッテ』の女の裏切りのなんて甘美で美しいこと。革命にもつながる身分社会の下克上『フィガロの結婚』の伯爵のなんと無様なこと。すべて今世の中で信じられていることの本当の姿を暴くものばかりです。言わなくてもいいのに、『王様は裸だ』、真の男性の魅力にめざめよ、恋人や夫婦の貞操観念なんて絵空事だということにめざめよ、社会の上下関係なんてフィクションだということにめざめよ!と煽るわけです」

「なるほど…」

「そこで私はこう言いたいわけです」

「はい」

「芸術はくだらない。天才は有害である。と」

「ううむぅ」

 篠崎は斎藤氏の論法にやや強引なところを感じつつも、言っていることは納得できるところもあるな、と感じ始めていた。



つづく
ゆっきー
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