大人のピアノ そのにじゅうく 白と黒
武志の弾く曲は三曲目に入っていた。今度は一転して典雅なバロック風の曲だった。バロックと言ってもバッハ的な荘厳さというよりは、少しヘンデル風の純朴で落ち着いたメロディックな対位法だ。これもおそらく武志の即興だろう。
「組の若い連中が、白と黒の必ずどちらかの世界を南方に与えてもらって満足するのとは違って…」
武志の弾く曲を聴きながら石橋が言葉を探した。篠崎はどんな言葉が石橋の口から出てくるのかじっと待った。
「白でも黒でもない世界を武志は南方に探しているのかもしれません」
まだ抽象的で篠崎にはよくわからなかった。石橋の次の言葉が出てくるのを待つべきだろうか…。
「そうですね、白でも黒でもなかったら灰色か、それともまったく違う赤とか黄色とか、そういうのじゃないな…」石橋自身言葉を探しながらしゃべっている。
「色のない世界かな、しいていえば」ここで石橋は武志の方を向いていた顔を篠崎に向けた。
「そういうものを超越した世界ですか?」石橋の邪魔をしてはいけないとタイミングを計っていた篠崎はここでやっと合いの手をいれた。
「ええ、ある意味不気味で恐ろしい世界かなとも思います。私を含めてヤクザ者の根本はやはり白か黒の二進法なんですよ。それが親の一言で反転したとしても。敵と味方、その二つしかない。味方は守るし敵は殺す。根本原理はそれだけです。」
いきなり過激な言葉が飛び出してきて、しかもこの石橋がそういう言葉を使うと当たり前だがリアリティがありすぎて、篠崎は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
「あ、いや、これは場違いなたとえを言いまして申し訳ありません」
リビングの空気の温度が少し下がったのを感じて石橋が苦笑しながら言った。曲を聴いていたなつみ先生と朝子も耳ざとく反応して、目を合わさないようにしながらもこちらをチラチラ見たのを察したのだろう。
「要するに白か黒かどちらでもない世界、それどころか色のない世界というようなものを認めるということは私を含めたある種の人間にとってはある意味恐怖なわけです」つとめて柔和な顔を作って石橋が言った。
「恐怖…ですか」
「ええ、なんといいますかね…私は戦争は直接は知らないですが、敵もまた人間だとか、自分と同じ悩みを持っているという考えは戦場では必要ないでしょう」
「ああ、やっと分かってきましたよ。はい、それなら分かります。戦場で敵を前にした時そういう感覚は、もしかすると必要ないどころか命取りになる時もあるかもしれませんね」
「ええ、ええ。そういうことを言いたかったのですが、つい不慣れな話をしているもので恐縮です」
石橋はそういうと篠崎と、さっきからこちらの様子をこっそりうかがっていたなつみ先生と朝子に軽く頭を下げた。二人は様子を伺っていたのばれていたのに気がつき、顔を見合わせてやはり同じようにチョコンと頭を下げた。
「色がない世界というのは…だから…」
ここでまた石橋が言葉を探した。一般人に過激な言葉を排除しながら説明しようと苦労している様子だった。
「アメリカと日本がけんかしているとしてどっちが正しいとか、いやいや中国の言っていることが正しいんだとか、これが白でも黒でもなく、赤が正しいっていうバトルかな」
「なるほど、その例でいう中国が目の前の敵でも味方でもない世界ですね」
「そうです。これも我々は嫌います。この場合中国が敵なのか味方なのかどっちなのかを親に決めてもらいたいわけですね」
「よく分かります」
「武志のピアノを聴いていると…」石橋はまたここで言葉を探し始めた。
「天皇制もヤクザ組織も大統領制も共産主義も、何もなくなった世界にいるような…」
「あ、また少しわかりかけてきました。それが色のない世界ですか」
「ええ、何と言いますか。戦場では非常に有害な危険で音楽だと思います。ですのでヤクザ者にとっても本来よくない音楽だと言えるでしょう」
石橋は自分ではなんとか一定の説明はできたのかもしれないという顔をした。同時にこれ以上はうまく言えないという困った顔もしていた。
「皆さんそう感じているのでしょうか」おぼろげながら言いたいことは分かったような気がした篠崎は尋ねてみた。
「組の人間ですか?たぶんそういうことは感じてはいないでしょう。私とあとは南方のおやじだけです」
「南方さんも」
「はい。音楽の素養も何も皆無の私ですが、武志のピアノを聴いたときどこかで聴いたことのあるピアノだって思ったんです」
「もしかするとそれが…」
「ええ。一番白黒の二進法の頂点にいるはずの南方がたまに弾くピアノは、武志とそっくりな音だったんです」
「同じ音…」
「そうです。白も黒も親兄弟も敵味方も何もない世界、南方が弾くピアノはそういうピアノだったんです。武志のピアノを聴くようになって分かった。オヤジのピアノが、私がお側で40年ばかり常に命をかけてお守りしようとしてきた南方が弾くピアノがそういうところを根本に抱えているピアノであり、南方本人もまたそういう人間なのだなってことがよく分かった。だから武志には感謝してますし、一方では……。まあ複雑な気持ちです」
つづく
大人のピアノ そのさんじゅう 善後策
石橋がそこまで話し終わった時、バロック風の武志の演奏もちょうど終わった。石橋は形だけねぎらいの拍手を数回してから手招きをして武志を呼び寄せた。なつみ先生と朝子は驚嘆の目で真剣に拍手をしていた。武志が拍手をしている篠崎に一礼をしてこちらに来ると、石橋に促されるままその隣に座った。
「いいね。いつもの音だ。何かこう平常心じゃない音になっているかなと思ったが、いつもの武志のピアノだった。そういうところがオレは好きだよ」柔和な顔をして石橋が武志の肩を軽く叩いた。
「ありがとうございます」武志も演奏でかえって緊張がほぐれ、平常心を取り戻したように見えた。
「今石橋さんと武志君のピアノについて話をしていたところさ。なかなか興味深い話を聞かせていただいたよ」
篠崎がいうと武志は話を想像するそぶりをして、すこしニヤッと笑った。
「いや、もちろん変な冷やかし半分の話じゃなくて、武志君の音がいったいどこから来て、どこに向かうのだろうみたいなね、哲学的で真面目な話さ」篠崎は笑いながら補足した。
「そうですか。僕も聞いてみたかったです」武志がいたずらっぽい目で言った。
「そうだな、篠崎さんにうまく乗せられて恐れ多くもこのど素人の俺が南方のオヤジのピアノについてまで語ってしまった。そこは聞かせられねえところさ」石橋が豪快に笑った。
「南方さんの…」武志はやはりそこに反応した。
「うん、石橋さんは武志君と南方さんのピアノが同じように聴こえるってさ」
「だから篠崎さん、その話は聞かせられねえ話ですってば」石橋が笑って篠崎の次の句を遮った。
「そうですか…。南方さんのピアノと僕のピアノが似てる…」
武志はなおもその話が聞きたくてたまらず篠崎の顔を見たが、篠崎は石橋の顔と武志の顔を見比べて、やがて笑って黙ってビールを飲んだ。
「それより今後の話を詰めておかなければならない」
峻厳な顔に戻って石橋が武志と篠崎の顔を見た。
「そうですね」
篠崎の言葉に武志もうなだれた。
「これまでのところ、オレがいない間にどんな話をしてどんな風にしたいのか出てきたところをまず聞かせてもらおうか」石橋は武志に向かってそう言った。
篠崎はそれを引き継ぐようにこっくり頷いて、奥のテーブルの椅子に並んで座っているなつみ先生を手招きした。先生が立ち上がってこちらに来ようとした時に、朝子は自分の顔を指差して「私は?」と篠崎に聞いてきた。篠崎は一瞬迷ったが頷いたので二人揃ってこちらにやって来た。
朝子は自分が座る場所を一瞬どこにしようかと迷ったあと、ちょこんと武志の横に座った。それを横目で見ていた石橋はかすかに、唇に笑みを浮かべた。そのかすかな笑みに気がついた篠崎が石橋の目を見るとその途端石橋が篠崎に顔を向けたので二人の目があった。二人は静かに苦笑した。
なつみ先生が、明日にでも武志の父親がこちらに来て武志と三年ぶりに話をすることなどを説明した。話が後でややこしくならないようにとの配慮から、なつみ先生はあえて、武志の父親が自分の友人の警視庁の人間に相談して武志の身の安全を計ろうとしていることなども伝えた。石橋はその部分は流石に渋い顔をして聞いていた。
「だいたいのところは分かった。とにかく明日の親父さんの話が終わってからもう一度話した方が良さそうだ。その警視庁の友人云々も、武志が一体どういう対応をするつもりなのかは今はあえて聞かないことにする」石橋は武志にそう言い渡した。
武志はただ「はい」とだけ重苦しい声を出した。
石橋は明日の父親との話がすんだその次の日、つまりまた明後日に再訪した旨を篠崎に了承してもらい、その日は篠崎家を夜の11時過ぎに辞去した。といってもこの家の周りから石橋の配下の人間がこの家を監視していることに変わりはなかった。
こうして残された一週間の一日目が終わろうとしていた。
つづく
大人のピアノ そのさんじゅういち 冴子の帰宅
石橋が帰ったあとを見計らったように、篠崎の妻の冴子が帰宅した。もろもろの事情をうまく伝えないと話がややこしくなることを恐れた篠崎が迎えに出ると、冴子はまるで玄関口から中に誰かいるのか確かめているそぶりだった。
朝子が遅れてリビングからやってきて、「メールでだいたい説明したとおり。ヤクザ屋さんはもういない」と言ったので、篠崎は事情を察した。陶芸教室は普通なら夕飯前には終わって帰宅しているのに今日に限って十一時を回っているのは、朝子がとりあえず石橋が帰るまでは家に近づくなとメールしたからのようだった。
「なんかややこしい話になったのね」冴子は不機嫌そうな顔で言った。
「ごめん、お母さん」すかさず朝子が謝った。
「いや、あんたが謝ることもないと思うんだけどね…」
「まあ、事情はあとで話すからとりあえずリビングに入ってくれ。その武志君を引き合わせるから」
通りいっぺんのあいさつを交わし、冴子はなつみ先生に挨拶と全員分のお茶をいれたあと、篠崎に目配せして二階の寝室に上がった。「あとで納得いく説明してよね」ということだろう。話をややこしくせず、流れに沿ってふるまってくれたことに篠崎は感謝した。
とりあえず今日のところは昨日と同じくリビングで寝てもらうことにした。さすがに二日連続でソファはかわいそうなので、終電のなくなってしまったなつみ先生と一緒にお客様用の布団を二人分しいた。明日の父親対決のこともあるので姉弟一緒による話をしたいこともあるだろうとの配慮だった。
朝子はリビングを後にして篠崎と一緒に二階に上がった。朝子はいわゆる一目惚れというやつで、武志の今後の一週間を自分のこととして考える立場になったわけだ。それについても朝子と話をしたいと思ったし、朝子も武志のことを篠崎と話をしたい風であった。
まだあと一週間あるのでその機会もあるだろう。とりあえず今日のところは冴子に事情をきちんと話さないといけない。
「おやすみ」とだけ言って篠崎は朝子に軽く手をあげた。
「おやすみ」朝子が複雑な顔をして笑った。
それぞれに眠れない土曜の夜だった。
つづく
大人のピアノ そのさんじゅうに 眠れぬ夜
寝室に入り篠崎がツインのベッド越しにもろもろの事情について話をすると、冴子はどうも要領を得ないという感じであいかわらず不機嫌だった。まあ、当然かもしれない。日本全国の主婦で自分の家に逃亡犯を匿ったり、ヤクザが(逃亡者の味方に分類されるとはいえ)訪問してきたりというのを歓迎する人間はいないだろう。
話の流れが変わったのは、やはり朝子が武志のことを好きになってしまったらしいというところからだった。ややこしい話を持ち込んだ張本人の武志ではあったが、冴子の武志の人物に対する印象は悪くはなかった。というよりむしろ冴子が好印象を持つ対応だったようだ。いわゆる母性本能をくすぐるタイプというのだろうか。そして我が娘が渦中の青年に恋をしてしまった。武志もどうやら娘に一目惚れだったらしい。この辺りの事情を把握するにつれ、冴子は徐々に朝子と武志の仲を応援したいという気持ちになったようである。
「危険なことはないの?」
この言葉が冴子から出てきた時に篠崎は胸をなでおろした。冴子が頭ごなしにこの状況を否定して、例えばすぐに警察の介入などにうったえることなどはなくなり、条件しだいでは容認するという態度を表明したことに他ならなかったからだ。
「それは100%とはいえばいかもしれない。しかし少なくとも武志を追いかける側が武志にビール瓶で殴られたヤクザの組織じゃなくて武志が世話になっている組織に変わった時点でかなり低下したし、じっさい昨日のように大幹部の石橋さんと面識もできた今は俺たちに対する危険性はゼロに近くなったと思う。」
「なるほどね…」冴子は篠崎の状況分析については納得したようだった。
時計をみると午前二時を回っていた。
「おやすみなさい」と言って冴子が寝てしまうと、篠崎は日付は変わってしまったが長すぎた一日目がようやく終わったことに安堵した。
冷蔵庫のビールをあと一本だけ空けて今日はもう寝るとしよう。廊下に出て朝子の部屋の前の締め切られたドアの前を通り過ぎる時、とりあえずはお母さんも部分的には納得してくれたよ、と言おうかと思ったが時間を考えて明日の朝にした。篠崎が階段を降りていくとしんと静まり返ったリビングはNHK大河ドラマで観た戦い前夜の野戦の幕舎のような感じがした。
念のために玄関の鍵を確認したが、きちんとしまっている。まさか夜襲を受けるなんてことはありえないと思うが、この家を建ててから一番戸締りということを気にした晩だった。
ビールをとって二階に上がろうとしてふと武志なつみ先生の並んだ布団を見ると、武志の布団がからだった。
「武志君?」
篠崎がなつみ先生起こさぬようになるべく小さな声で声を発したが、反応はなかった。
「トイレか?」
しかしトイレにもいなかった。
「まさか外に呼び出されたのか…」篠崎は動悸が高鳴るのを覚えた。
「いや、しかし玄関は鍵がかかっていたからそれはない」
状況を冷静に把握しようとして無意識のうちに篠崎は小声を発していた。
サンダルを玄関を出てみた。
路地の角を曲がった。
篠崎はそこで我が娘のキスシーンを発見してしまったのだった…。
つづく