大人のピアノ

大人のピアノ そのさんじゅういち 冴子の帰宅

 石橋が帰ったあとを見計らったように、篠崎の妻の冴子が帰宅した。もろもろの事情をうまく伝えないと話がややこしくなることを恐れた篠崎が迎えに出ると、冴子はまるで玄関口から中に誰かいるのか確かめているそぶりだった。

 朝子が遅れてリビングからやってきて、「メールでだいたい説明したとおり。ヤクザ屋さんはもういない」と言ったので、篠崎は事情を察した。陶芸教室は普通なら夕飯前には終わって帰宅しているのに今日に限って十一時を回っているのは、朝子がとりあえず石橋が帰るまでは家に近づくなとメールしたからのようだった。

「なんかややこしい話になったのね」冴子は不機嫌そうな顔で言った。

「ごめん、お母さん」すかさず朝子が謝った。

「いや、あんたが謝ることもないと思うんだけどね…」

「まあ、事情はあとで話すからとりあえずリビングに入ってくれ。その武志君を引き合わせるから」



 通りいっぺんのあいさつを交わし、冴子はなつみ先生に挨拶と全員分のお茶をいれたあと、篠崎に目配せして二階の寝室に上がった。「あとで納得いく説明してよね」ということだろう。話をややこしくせず、流れに沿ってふるまってくれたことに篠崎は感謝した。


 とりあえず今日のところは昨日と同じくリビングで寝てもらうことにした。さすがに二日連続でソファはかわいそうなので、終電のなくなってしまったなつみ先生と一緒にお客様用の布団を二人分しいた。明日の父親対決のこともあるので姉弟一緒による話をしたいこともあるだろうとの配慮だった。

 朝子はリビングを後にして篠崎と一緒に二階に上がった。朝子はいわゆる一目惚れというやつで、武志の今後の一週間を自分のこととして考える立場になったわけだ。それについても朝子と話をしたいと思ったし、朝子も武志のことを篠崎と話をしたい風であった。

 まだあと一週間あるのでその機会もあるだろう。とりあえず今日のところは冴子に事情をきちんと話さないといけない。



「おやすみ」とだけ言って篠崎は朝子に軽く手をあげた。

「おやすみ」朝子が複雑な顔をして笑った。


 それぞれに眠れない土曜の夜だった。





つづく
 

大人のピアノ そのさんじゅうに 眠れぬ夜

 寝室に入り篠崎がツインのベッド越しにもろもろの事情について話をすると、冴子はどうも要領を得ないという感じであいかわらず不機嫌だった。まあ、当然かもしれない。日本全国の主婦で自分の家に逃亡犯を匿ったり、ヤクザが(逃亡者の味方に分類されるとはいえ)訪問してきたりというのを歓迎する人間はいないだろう。

 話の流れが変わったのは、やはり朝子が武志のことを好きになってしまったらしいというところからだった。ややこしい話を持ち込んだ張本人の武志ではあったが、冴子の武志の人物に対する印象は悪くはなかった。というよりむしろ冴子が好印象を持つ対応だったようだ。いわゆる母性本能をくすぐるタイプというのだろうか。そして我が娘が渦中の青年に恋をしてしまった。武志もどうやら娘に一目惚れだったらしい。この辺りの事情を把握するにつれ、冴子は徐々に朝子と武志の仲を応援したいという気持ちになったようである。

「危険なことはないの?」

 この言葉が冴子から出てきた時に篠崎は胸をなでおろした。冴子が頭ごなしにこの状況を否定して、例えばすぐに警察の介入などにうったえることなどはなくなり、条件しだいでは容認するという態度を表明したことに他ならなかったからだ。

「それは100%とはいえばいかもしれない。しかし少なくとも武志を追いかける側が武志にビール瓶で殴られたヤクザの組織じゃなくて武志が世話になっている組織に変わった時点でかなり低下したし、じっさい昨日のように大幹部の石橋さんと面識もできた今は俺たちに対する危険性はゼロに近くなったと思う。」

「なるほどね…」冴子は篠崎の状況分析については納得したようだった。



 時計をみると午前二時を回っていた。

「おやすみなさい」と言って冴子が寝てしまうと、篠崎は日付は変わってしまったが長すぎた一日目がようやく終わったことに安堵した。



 冷蔵庫のビールをあと一本だけ空けて今日はもう寝るとしよう。廊下に出て朝子の部屋の前の締め切られたドアの前を通り過ぎる時、とりあえずはお母さんも部分的には納得してくれたよ、と言おうかと思ったが時間を考えて明日の朝にした。篠崎が階段を降りていくとしんと静まり返ったリビングはNHK大河ドラマで観た戦い前夜の野戦の幕舎のような感じがした。

 念のために玄関の鍵を確認したが、きちんとしまっている。まさか夜襲を受けるなんてことはありえないと思うが、この家を建ててから一番戸締りということを気にした晩だった。






 ビールをとって二階に上がろうとしてふと武志なつみ先生の並んだ布団を見ると、武志の布団がからだった。

「武志君?」

 篠崎がなつみ先生起こさぬようになるべく小さな声で声を発したが、反応はなかった。

「トイレか?」

 しかしトイレにもいなかった。

「まさか外に呼び出されたのか…」篠崎は動悸が高鳴るのを覚えた。

「いや、しかし玄関は鍵がかかっていたからそれはない」

 状況を冷静に把握しようとして無意識のうちに篠崎は小声を発していた。






 サンダルを玄関を出てみた。

 路地の角を曲がった。

 篠崎はそこで我が娘のキスシーンを発見してしまったのだった…。





つづく

大人のピアノ そのさんじゅうさん 武志の父親登場

 何となく寝付けないままに篠崎が起きたのは昼前だった。いろんなことがありすぎて疲れたというのが正直なところだった。寝ている間に武志の父親から篠崎宛に電話があったそうだが、電話を受けた朝子が篠崎を起こそうと二階に上がるのをなつみ先生が制したらしい。
 電話を代わったなつみ先生は、篠崎さんはまだお休みになってるから起こさない方が良いとのことを父親に伝えた。そういうわけで、午後一番にやってくることになった武志の父親とは謂わばぶっつけ本番で対面することになる。武志の宿泊を引き受けた手前行きがかり上ここまで来てしまったが、どういう挨拶をしたものか…と篠崎はしばし悩んだ。




 武志の父親は吉野堂のひよこのお菓子を持ってやって来た。

 最初に本来ならば妻もご挨拶に伺うところを、武志との対面で取り乱すといけないからという理由で家に置いてきたことの非礼をわびた。また、こうして見ず知らずの他人にこういう形で不肖の息子が迷惑をかけているとのお詫びが延々と続きそうだったので、篠崎は「それよりも、少しでも多くの時間を息子さんとお話に使ってください」とかわしておいた。

 篠崎の知る限りの印象で、他の省庁と比べて外務省には役人然としたタイプの人の割合が少ないように思っていたが、武志の父親はいかにも厳格なお役人という風貌だった。なつみ先生といい武志といい、芸術家の子どもたちとこの父親のイメージのつながりが、篠崎にはなめらかに想像できなかった。もしかすると今日は来なかった京都の老舗の呉服屋だったかの母方の血筋にそういうものが流れているのだろうか、と想像してみたりもした。

 対面した親子が話をするにの難渋している様子は誰の目にも明らかだった。初めは父親と武志の二人でソファに座って対面したのだが、時々ポツリポツリと父親が不機嫌をかみ殺したような短い言葉を発し、武志が必要最小限にそれに答えるという感じだった。

 まったく席を外しておくというのも自分の家でかえって不自然な感覚もあったので、篠崎は冴子と朝子と、二人の声が何となく聞こえるか聞こえないくらいの距離の食卓に座っていた。はじめはなつみ先生もそこにいかにもいづらそうに座っていたのだが、武志と父親との親子対話の様子にため息をついて二人のいるソファに席を移した。

 時に父親の大きな声が出掛かったが、その度になつみ先生が父親の視線を篠崎たちの方に誘導して、「他所様の御宅で失礼です」と目で制した。




 小一時間もそうしたなんとなく不毛にも見える甚だしくストレスフルな時間は続いた。

「外へ出て話をしよう」

 父親が自ら立ち上がって武志の腕を掴もうとしたが、武志は座ったまま応じなかった。外に行けば今ここで押さえている大声や、場合によってはビンタなどもあるのかもしれない。むろん武志もそんなことは恐れてはいなかったが、場所を変えたそうした話し合いが今ここでのそれよより良くなるとも思えなかった。


 どうするつもりなんだろう…。冴子と朝子が心配そうな顔で篠崎を見た。篠崎も困った顔をしていたが、タイミングをみて「お父さん、お話中すみません」とソファに近寄った。

「まったくお恥ずかしい話で恐縮です」父親は申し訳ないと言った顔で頭を下げた。

「あの、どうでしょう。まだ今日は早い時間ですし、このままこうして重苦しい雰囲気で武志君とお話しているのもあれですから、一息入れませんか」

「はあ」

「私はあくまでこうして今回は行きがかり上こうした立場になっていますが、もとより他所様の家庭の事情に口を挟むつもりありません」

「いえ、まったく恐縮の至りでございます」

「少し一息いれてお茶でも」

「はい」





「武志君は朝子と少し散歩にでも行っておいで」

 篠崎の心遣いに、武志が手を合わさんばかりに心の底から「感謝します」と表情で答えた。篠崎が朝子を見ると、朝子はもっとストレートに篠崎を向いて手を合わせて拝んでたので篠崎は思わず吹き出した。その横では冴子が苦笑している。


「すいません。仕切ってしまって…」

「あ、いえ」

 先手を打って篠崎がそう言っていかにも申し訳なさそうな顔を作って頭を下げたので、武志の父もその流れに従うより他なかった。





つづく

大人のピアノ そのさんじゅうよん 天才とは何か

 お茶とおみやげのひよこのお菓子が並び、お茶の用意をした冴子もそのままソファに座り、大人ばかり四人が相対した。

「いや、大変にお恥ずかしい醜態をさらしまして面目次第もございません」武志の父親はハンカチで額をぬぐった。

「いえ、そんな恐縮されなくてもいいですよ。なんといいますか武志君の私に見せる態度はそれは立派なものだと思いますし、私はお嬢さんのなつみ先生にはずっとお世話になっておりまして、さすがはあのなつみ先生の弟御さんだなと感じていた次第です」お世辞ではなく篠崎は心底そう思っていた。

「あ、こちらこそいつもなつみがお世話になっております」斉藤氏はなつみ先生を一瞥してから頭を下げた。

「まあ、それはさておき、お話の方はどうですか」

 どうも何も話が全く建設的な方向に進んでいないのは見ていて明らかだったのだが、篠崎はそのことを斉藤氏がどう考えているのか知りたくもあり、あえて尋ねてみた。

「どうもこうも、あいつは事態が飲み込めていないとしか思えません。一週間後に自分で命を落とす可能性もあるのにヤクザのところに出向いて行くと言う一点張りでテコでも動きませんな」

 さっきの膠着状態を思い出したせいで斎藤氏の顔はまた一気に渋い顔に戻った。

「まあ、おだやかな話ではありませんね」

「とんでもない話ですよ。馬鹿げてます。いくら世話になったかは知りませんが、武志は堅気の普通の人間です。不法行為を常とする生業の集団に対してその集団のやり方で仁義を通す必要などまったくないでしょう。相手を殴ったことに対しても、正々堂々と裁判でやりあったらいい。情状酌量はあったとしても、東京湾に沈めることが正当化されるなんて判決があるわけない。日本は法治国家なんだから、武志のやったことは粛々と法にのっとって処理されてしかるべきです」

 一部の破綻もない、そして社会常識に則った意見だった。しかし相手はこの社会常識が通用しない。

「私は極道のルールがどうかは知りませんし興味もありません。しかしどんなルールであれ、市民社会のルールに反するものは国家権力をもってそれを無効にすることが至当でしょう。その辺りの常識を簡単にさっき聞かせてやったのですが武志のヤツ…」

 いらだちを隠さない斎藤氏になつみ先生がため息をついた。

「お父さん、ぜんぶお父さんのいう通りなんだけどさ…。なんていうか、武志はその正しい意見そのものを疑問に感じてるのよ。それよりお世話になった南方さんのメンツを潰さないことが大事だと思ってる…」

「くだらん。青臭いにも程がある」

「そうよ、その通り。でも単純にお父さんや世間の常識に反発してヤクザの常識をかっこいいと思っているっていう単純なことじゃないの。まさかあの武志はそういうところでウロチョロしたりしないわ」

「じゃあ、なんだっていうんだ…」

「それは…」

 なつみ先生も面と向かって言われると言葉にはできないようだった。また重苦しい沈黙がリビングを支配した。




「あの時のことを思い出すよ」意外にも沈黙を破ったのは斎藤氏だった。

「なに?」

「岸谷先生とやりあった時のことだ」憮然とした表情で斎藤氏が言った。

「ああ…」なつみ先生は苦笑とも呆れ顔ともとれる表情で頷いた。

「なんですか、それ」岸谷…どこかで名前が出なかったけ…そう感じながら篠崎が二人に聞いた。

「洗足学園の…」

「ああ、なつみ先生と武志君の共通の師匠の!」そうか、神田さんと平林さんと三人で見た【斎藤なつみ 「大人のピアノ発表会」】のパンフレットで見たんだっけ、篠崎は一昨日の喫茶店でのやりとりを思い出した。

「岸谷先生がうちにお見えになった時、父と激論になりまして…」

「そりゃまたどんな」

「くだらん。そもそも天才なんていう存在ほどいかがわしく胡散臭いものはない!」

 斎藤氏はまた少し激していた。篠崎はなんとなく斎藤がどんな人物なのかのイメージができてきた。

「天才論争ですか?」

「岸谷先生は武志を天才だと…」

「くだらん。天才がそのへんに転がっているわけはない。気楽に人の息子を天才だとかおだてておいてピアノの道に云々…。くだらん」

「その時のお話をさっき思い出されたというわけですか」篠崎が確認した。

「ええ。天才だとか芸術家とかいうのはまったくもってくだらん。こっちの話がまるで通じん」

「それで思い出したというわけですか…」

「そうです」斎藤氏はきっぱり言い切った。

「父にとっては芸術家も天才も天敵でして…」なつみ先生が口を挟んだ。さっきと同じ苦笑とも呆れ顔ともとれるあの表情だった。




「天才もダメ、芸術家もダメ。じゃあ、お父様がご子息とお話が通じないのはしょうがないですわ。だって息子さんは「天才芸術家」なんですから。」

 今まで黙っていた冴子があっけらかんと言った。

 しばし沈黙が訪れたあと、リビングは笑の渦に包まれた。なかなかやるなという目で篠崎が笑いながら冴子を見る。確信犯の冴子はつられて笑って見せる。なつみ先生はお腹を抱えて笑っていた。


 ただ一人斎藤氏は笑もせず、「何がおかしいのだ!」というむすっとした顔で三人でを順番に代わる代わる見ていた。





つづく
ゆっきー
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