大人のピアノ その百はち 悪と決める者
「まず大前提のところをお話ししたいと思います。日本の刑法は先進国なら常識である【罪刑法定主義】によって…」
「あ、大内さん。いきなり話の腰を折っちゃって申し訳ないんですが、大内さんは国会議員で人権派の弁護士さんでもあるから難しい法律用語がポンポン出てきちゃうと思うんですよ。今日はそういうのひとつ、なし、でやってもらいたい」
「ああ、これは失礼しました」
田原慎之助のいきなりのツッコミによって失笑が起こり、会場はやや和んだ空気が流れた。
「いえ、お続け下さい。その罪刑法定主義っていうのは平たく言うとどういうことなんですか」
「はい。一言で言うと、法律で定められた悪いことを実際にしたら罪になるっていうことです」
「それは当たり前だと思いますが、『暴力団対策法』はそうなってないと」
「そうなんですよ。ぶっちゃけていいますと、まだ法律違反をしていなくても暴力団だから集会場を貸すと喧嘩が起きて拳銃をぶっ放すかもしれない、だから指定暴力団には一切集会の会場を貸さない、こういう理屈になるわけです」
「なるほど、まだ喧嘩もしてないのに」
「そうなんですよ。銀行口座も今やヤクザは自由に作れないんですが、これはさすがに意地悪してるってわけじゃなくて、暴力団に口座を開かせると拳銃や覚せい剤の売買や不正送金やらマネーロンダリングやらに使われるに違いない、だから最初っから口座を作らせない、ってことなんですね」
「確かに法律違反を犯してないのに罪人のような扱いを受けてますね」
「そうなんです。これは明らかに憲法が保障する基本的人権が踏みにじられた状態で、そういうことに関して護憲派の砦である我が社民進歩党は断固として反対して行くというわけなんです」
田原が頷いた。田原がさらに話をしようとすると、オレンジメガネの福島女史が割り込んできた。
「そんな、基本的人権なんて社会のルールを守った人間が初めて主張できる権利であって…」
「まあまあ、福島女史、ちょっとまって。ご説ごもっともなんですが、もうちょっと私に喋らせてください」
話を遮られた福島女史は今度は羞恥ではなく怒りで顔を赤くした。カメラは画面を真っ二つに割り、左に苦笑した大内議員、右に顔を赤くして怒る福島女史を映した。
「あのね、大内さんね」
「はい」
「いまお話聞いていて一つ思ったのは、そのもしかしたら危険かもしれないっていう判断は誰がするんですか。いったんこいつは危ないっていうレッテルを貼られたら基本的人権がなくなっちゃうわけですが」
とぼけたふりをして田原慎之助が議論の広がりための本質的なところをさりげなく突いた。
「それは国家公安委員会という言い方もできますが、あえて誤解を恐れず単純化して言うと、警察が決める、といっていいでしょう」
「ふーむ。警察がいったんこいつは危ない、と判断するとそうなっちゃう。じゃあ、警察には憲法で保障された基本的人権を反故にする力があるってことになっちゃうのかな」
「まあ、程度問題なんですが、戦前の特別高等警察の例もありますし、我が社民進歩党ではそういう危険性も鑑みた上で反対の立場をとっているということです」
「社民進歩党が暴力団対策法に反対するという理由についてはよく分かりました。要は【罪を憎んで人を憎まず】というのが基本のはずなのに、暴力団憎し!人が憎い!!ってなっちゃうのがまずいなというところですね」
「うまいことおっしゃる。まさにそういうことです」
大内議員の芝居がかった合いの手に会場が笑の渦に包まれた。
しかしオレンジメガネの福島女史は笑には加わらず、早く何か喋りたくてうずうずしている様子だった。
「あ、それでは大変長らくお待たせいたしました。福島先生どうぞ」
画面中央の田原慎之助はスタートが成功したためか、余裕の表情で福島女史に話を振った。
続く
大人のピアノ その百きゅう 危険なことが起きてからでは遅い
「現実を知らない。暴対法に反対する方々はこの一言に尽きると思います」
福島女史はさっそく本題に切り込んだ。
「暴力団の基本的人権とかそういうのの以前の問題ですね」
「ええ。反対席に暴力団を美化したノンフィクションやそのコミック版を出してる作家の人もいますけど、実際に暴力団の被害にあっている市民の実態をご存じないとしか思えません」
「といいますと、具体的にはどんなことですか」
「生放送で喋っちゃってもいいんでしょうか」
「どうぞどうぞ。それがこの番組のいいところですから」
田原の促しに福島女史は静かに頷いた。
「私どもで支援している、ある関東郊外の私鉄の駅前商店街の反対運動なんですが、商店街にいきなり組事務所が引っ越してきたんです」
「それはその駅周辺の住民の方や商店街の店主さんは穏やかじゃありませんね」
「そうです。商店街は小学校への通学路にもなっていますからさっそく商店街の店主さんを中心に移転反対運動が起きました」
「暴力団も黙ってないですよね」
「それはもう、夜中に店のガラスが割られるし脅迫電話はかかってくるし、昼間だって反対派リーダーグループのお店には昼間からその人たちが出入りして営業妨害をするなんて序の口です」
「まだありそうですね」
「ええ。卑劣なのは子供をさらったりすれば即警察沙汰ですから、その商店街のケースではリーダーグループの奥さんが狙われました」
「どんな風に?」
「覚醒剤です」
「これはいきなり穏やかじゃありませんね」
「ええ。詳しい事情は申し上げられませんが、確かに奥様たちも脇が甘かったというところはあると思いますが、どういう風に近づいたのかは人それぞれなんですけど、リーダーの奥さんたちのほとんど全員が覚醒剤中毒にさせられました」
「これはまた卑劣な。子供を誘拐するのと違って訴えることがしづらいし、常用者になってしまったら薬を提供してくれるむしろヤクザとの結びつきをむしろ壊したくない、と思うかもしれない」
「そのあたりがヤツらの狙いだったと思いますわ。これも実話なんですけど、奥様の中には主婦買春まで斡旋されて家庭崩壊に追い込まれた人もいますし、組事務所が反対派を押し切って商店街に強制的に移転して来てから半年後には実に8割の反対派リーダーのご夫婦が離婚に至っています」
「それも全部作戦の内だと」
「そういうことです。人間の尊厳を根底から奪ってしまう覚醒剤を武器に家庭崩壊をしかけて、自分たちの事務所がそこに居座れるようにする。こんな人たちにそもそも基本的人権なんて保証してあげることが必要なんでしょうか」
いきなり具体的な凄惨な話が飛び出し、会場のムードはいっぺんに緊迫感を増した。
テレビはしんと静まり返った会場を映し出す。
さっきまでにこやかにユーモアさえ漂わせながら自説を開陳していた人権派弁護士衆議院議員大内氏も毒気を抜かれた表情で神妙に頷いている。
「福島さん、非常に説得力のあるお話ありがとうございます。すると福島さんとしては、罪を憎んで人を憎まずなんていうのは生易しくて、危険なものはきちんと排除しておくべきだということですね」
「当然です。おきてからでは遅いんです。例えば不発弾はまだ爆発してなくても爆発したら大変なことになりますから、しかるべく除去しますよね。爆発してから罪刑法定主義とか言って、今回の爆発はでかいから懲役7年です、とかやっても馬鹿げてるでしょ。それとおんなじです。毒薬のサリンだってそうです。街中で作って所持してたらそれだけで罪になるでしょ。ヤクザはそれと同じなんですよ。たとえば実際に大内さんの奥様がそういうことされたら…」
「まあまあ、そこのところは今は置いといて」
何か反論しようとした大内議員を制しながら田原慎之助が福島女史をなだめた。
「おっしゃることは大変に分かりやすく、かつ説得力のあるもにだったと私は感じます。ヤクザだから基本的人権はいらないというのも極論かもしれませんが、そもそも基本的人権の大切さを決して学習しようとせず、またそれどころか積極的にそれを踏みにじるような行為をなんとも思わないような人たちと、それでもなお一般市民は仲良くやっていかなくちゃいけないのか。福島さん、そういうことですね」
「そういうことなんです!」
福島女史は田原慎之助のまとめに感動したような表情を浮かべた。
会場からは拍手が沸き起こった。まずは暴力団対策法賛成派の一般席から、そして反対席からも静かにそれは起きたのだった。
大内議員も横に並ぶ暴力団対策法反対派の面々も、この福島女史の発言と田原慎之助の仕切りには一定の評価をしたようで、穏やかな顔で頷いている。
そこに反対派から挙手するものがいた。
「宮本先生どうぞ」
田原慎之助に宮本先生と呼ばれた五十代そこそこの少しにやけた表情を浮かべた男の席には「社会学者 宮本信三」という文字があった。女子高生の援助交際の実態や、若者たちが新興宗教に走る理由を、社会学的視点から女性の裸満載の男性誌によく寄稿している論壇のある種の名物男だ。
カメラはその男の表情を大写しにした。
続く
大人のピアノ その百じゅう アメリカの正義イラクの正義暴力団の正義?
「今、奇しくも大内衆議院議員から警察の裁量的な行政への都度介入の危険性が指摘され、また福島女史から基本的人権を万人に認めるということの是非という問題が提起されました」
「宮本先生、もうすこし優しい言葉で」
「あ、失礼。お二人の問題提起は言ってみれば【この世の中のルールを支配するのは誰か】という問題なのです」
大内議員はうんうんと頷いている。福島女史は、何を言い出すんだろうこの人はという顔を崩さなかった。
「要するに大内議員は警察がこの世の中の何が危険、誰が危険というルールを勝手に決めてしまう危険性がある。また福島さんの場合、すこし意地悪な言い方をすると、かよわき市民は暴力を排除して良い、市民の倫理に反する者は消えてくれ、というルールを一方的に作っている、とこういうわけですか」
「おっしゃる通りですね。ルールというものはそこで生きて行く人々の多数派によって作られる。つまり多数決の原理の勝者が敗者を支配するという性格を持ちます」
「身も蓋もない言い方かもしれないけれど、一般論としてはそういうのはあるのかもしれない。今我々は例えば国際社会においては世界の警察アメリカの価値観にある程度合わせ、納得しながら世界情勢を判断してますけど、アメリカがしょっちゅう喧嘩してる中東世界の価値観からすると、アメリカさんは何の権利があって世界のルールの司祭やってるんだと、こういうわけですね」
カメラはここで会場の参加者を映し出した。一様に、なるほど流石に宮本は小難しいことをいうな、というお手並み拝見モードだった。
「中東を空爆するアメリカの論理というのはまさに福島さんのいう、『不発弾が爆発する前に排除せよ』というのと同じなんですね。何考えてるか分からないといっても、それはあくまでアメリカ的な価値観でしかないわけです。アメリカ的な価値観に全てを合わせなければならないとしたら、確かに中東の一部の国は悪の枢軸国ということになるでしょう。しかしこれはアメリカがこの世界のルールを作っているから成り立つ論理で、それはとりもなおさずアメリカが世界の勝者だからです。勝者が敗者を自分たちのルールで支配しようとしているだけの話で、そこに本来正義をストレートに持ち出すのはおかしいのということはそこらの小学生にもわかります」
「といいますと」
「正義は、中東の国々にもアラブの正義というものがあるからです」
「なるほど、正義と正義のぶつかり合いですね」
「そう。だから同じように『暴力団には暴力団の正義がある』と言われたら、形式上は反論できないんです。そこで危険だから、という言い方をしてしまうと、アメリカが大量破壊兵器がなかったにもかかわらず、そういう危険性があるからということでイラク戦争を遂行したことを一切非難できなくなるんです」
「なるほど。暴力団が危険だから排除せよ、というのはイラクは危険だから空爆せよというのと同じだということですか」
「そう。だから大量破壊兵器が実際にあったかどうかは問題ではなくなる。今見つからなかったではなくて、あってもおかしくないから、そういう危険性があるから空爆で殺してしまうということを福島女史は非難することはできません。福島女史はブッシュです」
宮本のいつもの挑発的な物言いに、会場の一般参加者からヤジが飛んだりざわめきがおこったりした。
「福島さん、何かありますか」
「私はただ、そこに住んでいる住民の方の安全と小さな幸せを守るお手伝いがしたいだけです」
福島女史は宮本の断定的な言い方への怒りと、何かに対しての情けなさの入り混じった表情で言葉を絞り出すように言った。
「アメリカもアメリカ国民や石油メジャーやアメリカの同盟国の一方的な安全と幸せを守るわけでしょ」
反対席の別の論者たちが田原慎之助に制止する隙を与えず、デタラメなマナーで次から次へと福島女史を怒鳴りつけた。
「そうそう、だいたいあんたわやねえ」
「そういう自分がブッシュに実はなりたがってるってのをさ、自覚しなきゃ」
「その変なメガネの下にすごいルサンチマンが…」
賛成派も福島女史を守るべく口汚い言葉で応酬し始めた。
視聴者がチャンネルを変えようかと思う瞬間がまさにこれで、ここを乗り切れるかどうかで今回の『徹夜で生テレビ』の視聴率レースの第一関門の結果が左右される。
スタッフ、田原慎之助は毎度恒例のことながら、いつもより時間的に少し早いこの展開に少し慌てた。
田原慎之助の視線が議論の会場の先のディレクターに飛んだ。田原はディレクターと目線で頷き合った。
「みなさん、激論の中藤井組が立てこもる千葉で何か動きがあったようです」
会場は一瞬で静まり返った。
これから自衛隊並みの装備を持つ藤井組と警察とが、周辺住民を緊急避難させた上で激しい銃撃戦を起こすのだという現実に一気に引き戻された格好だ。
「それでは千葉県船橋市海神と中継が繋がっていますので、呼んでみます」
テレビの画面は真っ暗な空の下、報道関係者のワゴンが縄張り争いのように駐車された中、避難先へと急ぐ住民を映し出していた。
会場の暴力団対策法賛成派、反対派のパネリスト、そして会場の参加者もスタジオのミニシアターのような大画面のスクリーンに注視した。
続く
大人のピアノ その百じゅういち
「はい。現地の曽根がお伝えいたします。
こちら船橋市の南側、藤井組から北に一キロほど離れたややこんもりした高台です。付近の住民は藤井組から近距離にある区域から順に交通各機関の協力によりシャトルバスにて、こちらとは反対側、南側海側の船橋競馬場と海上保安庁船橋分室に避難しています。
この付近はすでに住民の避難は完全に完了し、警察の許可を受けた報道関係者のみが立ち入りを許可されています。警察の作戦開始準備が進むに連れ、徐々にこのあたりも報道関係者を含めて無人地域化する予定になっています」
「曽根さん、スタジオの田原です」
「あ、はい。聞こえます」
30代中盤と思われる曽根と呼ばれた記者は、田原慎之助の声を確かめるようにイヤホンを自分の耳押し当て直した。
「何か動きがあったということですが」
「はい。さきほど藤井城から拡声器を使って警察と一部マスコミに対してメッセージが発信されました」
「どういったものでしょうか」
「現在他局で放映している藤井組の武器密輸組織の責任者、この人はすでに亡くなっているのですが、藤井組組長の実の息子に関する報道は事実無根で故人の名誉を著しく傷つけるものであるとして、即刻放映中止と放送局およびー警察責任者のテレビでの謝罪記者会見を要求しています」
「ええと、こちら『徹夜で生テレビ』オンエア中で他局の番組を把握できていませんが、どういった内容のものかまだご覧でない視聴者の方に説明してもらえますか」
「はい。簡単に言いますとこの亡くなった長男が商社に勤務していた頃からの人脈とノウハウをフル活用して、海外から違法に武器を調達し密売組織を作り上げた実態がドキュメンタリー形式で放映されたようです」
「それは藤井組の人間が言うような、なんといいますか事実は別として故人の名誉を著しく傷つけるようなものなのでしょうか」
「こちらの取材クルーの車内で私も一部VTRを観ましたが、もし事実と違っているというならば確かにかなり悪者にしたて上げられたと考える人がいてもおかしくないかな、という印象です」
「具体的には何かありますか」
「はい。覚せい剤中毒の狂人という言葉が何度も使われており、映像も直接藤井氏とは関係が薄いと判断できそうなやや扇情的なシーンが多数盛り込まれていると言ってもよいかと思います」
「その他局、あ、今私の手元にもその局の名前と放送の概要がペーパーで来ました。それと、スタジオの大画面にて抜粋版が流れますので少し見て見ましょう」
「はい…」
『徹夜で生テレビ』会場の全員は食い入るように画面を見た。
確かに映像のプロが見ると、安っぽいハリウッド映画の悪の権化のようなカリカチュアライズされた映像であった。会場からはため息や失笑も一部漏れ聞こえた。
しかし一方で一般の視聴者がこれを見た場合には、藤井組の凶悪さ狂人さ加減が強く印象に残るプロパガンダ映像としてはそこそこよくできたものであるとも言えた。
「確かに映像的には少しやりすぎかなという印象もなくはありませんが、これを放送した首都大東京放送も事実無根のいい加減な放送をするわけがありませんが…」
他局の番組をどう扱っていいか、この時点ではまだスタンスを図り兼ねた田原は慎重に言葉を選んだ。
「はい。ご覧いただくと随所に警察庁関係者の証言が入っています。この映像全体が警察庁から首都大東京放送側に提供されたものではないかと考えられるのかもしれません」
「なるほど。そこはおいおい明らかになるとして、藤井組の要求は先ほどの通りなわけですね」
「はい。実は続きがありまして、午前2:00までに首都大東京放送と警察の謝罪記者会見がない場合、実力行使にでる、と言っています」
「その内容は」
「内容については不明です。こちらからの呼びかけには一切返答がありません」
「2:00ですか。あと4分ほどですね」
「はい」
「分かりました。曽根さん?」
「はい」
「いったんスタジオに戻してそちらの映像を会場の大画面で流しながら2:00を待ちたいと思います。その後またお願い致します」
「了解しました」
田原は正面のメインカメラに向かった。
「お聞きの通り、事態はあと数分で大きく動く可能性があります。謝罪の記者会見が行われるのか、また行われなかった場合藤井組の実力行使とはいったい何を意味するのか。いったん激論を中断して2:00に何が起きるかを会場および視聴者のみなさんと一緒に確認したいと思います。
ここでいったんCMに入ります」
続く