大人のピアノ

大人のピアノ その百さん いいかげんでまじめ

 迷っていても始まらない。時間は三十分しかない。一番大切なことは何だ。

 篠崎は心配そうに見つめる妻と娘の顔をもう一度見た。

 結論はシンプルだった。

 田原の言う昔の仲間を見返す云々の気持ちはもうない。暴力団の暴力や警察の権力の是非も今はいい。田原のやっている暴力団排除の社会的風潮に潜む逆の危険性を訴えるも今は興味はない。

「朝子、パパはお前の親としてこの事件の状況と行く末を知る権利があるし、傷ついてたお前のために何かしてやりたい。それとパパは大事なお前が勝手に何かの道具にされて傷ついているのに我慢がならない。ふざけるなっていう怒りの気持ちでいっぱいだ。その思いはとても強いことを今実感してる。お前はこれ以上このことに関わって欲しくない、という気持ちもあるかもしれないが、そこのところはどうだ」

 篠崎は冷静に言葉を選び、努めて笑みを浮かべながらそう言った。



「うん…。正直怖いけど…」

「そっか、お前が嫌ならいいんだよ。パパは無理にどうこうしようというつもりはない。田原さんにはできることはありませんでしたっていうだけさ」

 篠崎はもう一度朝子に笑いかけた。

「ううん。ちがう」

 朝子も笑って首を振った。

「怖いのはこれから起きる千葉のことじゃなくてさ」

「うん?じゃあ何が怖い」



「今あたし怖がらせないように一生懸命笑ながら話してくれてるパパが怖かった」

 冴子がまた斎藤氏に見せたようなお得意の笑い方で吹き出した。

「ええー参ったな。にこやかに話したんだけど」

 篠崎も苦笑した。

「じゃ、やめとこっか」

「それも違う」

「うん?」

 朝子がじっと篠崎を見つめている。まなじりにはうっすら涙が浮かんでいるように見えた。

「あたしのこと真剣に考えてくれてありがと」

 篠崎は朝子の視線の意味がやっとわかった。

「いつもどっかおちゃらけてるパパしか見たことなかったから、一瞬怖いかなって思っただけ。でも嬉しかったよ。今までで一番」

「…そっか。こちらこそありがと」



「なんか変な父娘ね」

 冴子が楽しそうに笑った。篠崎も朝子も笑った。






「よし、そうと決まれば石橋さんに連絡を入れよう。斎藤さんは陰謀説っていうけれど、それがどこまで信憑性のあるものか分からない。憶測ではテレビは絶対に動かないからな」

 そう言って篠崎は斎藤氏にまず電話をかけ、事情を説明した上で南方組の石橋氏に電話を代わってもらった。




「パパ、真剣な顔してるね」

「そうね、あんな顔見たことないよ」

「かっこいいじゃない」

「そうだねえ、仕事の時はああいう顔してたのかな」

「そうだよ、きっと」

「そう言えばそうかもね」

「ふーん」

「いやね、照れるじゃない。ちょっと昔を思い出してたのよ」

「え!?何それ」

「昔ね、あんたのお父さんが「オレのどこに惚れたんだ」って酔って聞いてきたから「あなたのいいかげんでまじめなところよ」と言ったことを思い出したのよ。」ドア

「ふうん。いいはなしじゃない」

「ははは」







「分かったぞ」

「どんな感じだったの」二人は聞いた

「憶測じゃないらしい。藤井組では知らなことらしいんだが、上部団体の蜷川会の幹部でもある南方さんの命令で警察署の中にも全国的にスパイを放っているらしいんだ」

「ヤクザも負けてないわね」冴子が妙な感心の仕方をした。

「神奈川県警にも何人もいるらしくて、その警察官が大掛かりな陰謀が実際に動いていることを全部知らせてきたそうだ」

「じゃあ、さっきパパが言ってたような銃撃戦が…」

「ああ、その脇田という南方さんところのスパイ警官の話だとそういうことになるそうだ」

「脇田…」

「どうした、朝子」

「その話、本当のことだよ」

「なんでお前がそう言える」

「あたしに無理やり供述調書かかせた警官の一人が脇田って言ってた。多分その人だ」





 篠崎はニヤッと笑って親指を立てた。

「田原さん泣いて喜ぶな」

 時計は丁度あれから三十分を経過した頃だった。

 篠崎が電話をかけようと二つ折りのケータイを開いた瞬間呼び出し音がなり「田原慎之助」の名前がディスプレイに躍った。





続く

大人のピアノ その百よん 田原の覚悟

 篠崎からもたらされた"警察陰謀説"は田原を興奮させるに充分だった。

「分かった。お嬢さんを取り調べた脇田という刑事が南方組の放った警察スパイということなら裏は取れているも同然だ。その信憑性は百パーセントと言っていいだろう」




「はい」

 田原の興奮した声に篠崎のアドレナリンもまた静かに上昇した。

「しかし問題は、それを立証することができないということだ」

「そうですね、このことを田原さんが仮にテレビで言ったとしても警察に否定されたらおしまいです」

「その通りさ。それ以前に根も葉もない誹謗中傷であるということで警察から厳重抗議がきてて、そのままテレビ朝霧全体の取材体制に重大な影響が出る」

「はい」

「それとね、さっき番組編成担当の常務取締役も列席してこの後の特番について打ち合わせしたんだけどさ、ややこしいのが思いっきり噛んできた」

「…といいますと」

 篠崎の問いに答える代わりに田原は軽くため息をついた。

「天下り官僚さんですか」

「そ。さすが察しがいいね。他のキー局同様テレビ朝霧も定期的に警察庁から大物官僚を役員として迎え入れてるんだ。そのなにがしさんがね、今回は編成担当常務すら仕切るような形で口出ししてきてるんだよ」

「あまりそういうことはないんですよね」

「ないない。総務省からの天下りは五年に一回ある放送免許の申請に重大な影響があるけど、警察庁からからの天下りなんてテレビが仲悪い政治家対策くらいの意味しかないんだ。政治家の権力監視や不正追求なんかの時に警察、検察ラインを独自に押さえておくっていうことくらいでね」

「番組の作り方なんて口出さないんですね」

「そ。異例中の異例だよ。だから俺はそういう面からも篠崎さんの情報の確度は高いと思う」

「警察の陰謀を仮に知り得たとしてもそれに触れるような番組は絶対に作らせない、こういうわけですか」

「ああ…。そういうことだね」

「うーん」

「この法治国家日本の闇は結構深いよ、篠崎さん」

「…はい」

 篠崎は再び暗澹とした気分にとらわれた。朝霧放送の天下り役員は当然警察庁の現役キャリアからことの次第を言い含められている。警察はその組織的権力を充分に行使してマスコミを抱き込み、公正を装ったマスコミを通じて暴力団追放の大きな世論の中で自分たちのシナリオつつがなく遂行しようとしている。
 その中で傷ついた娘の朝子のために何かできることを探すなど、とうてい不可能なことに思われた。






「でもね、俺はそのまま局の上層部のシナリオに乗っかるつもりはないよ」

 しばらく沈黙があった後、田原が興奮をしまい込んだ落ち着いた声で言った。

「何かやるんですか、田原さん」

「ああ、やるさ。マスコミ生命賭けて大仕事をしてやろうと思ってる」

「何を?」

 篠崎の心臓の鼓動が再び強く胸を打とうとしていた。

「今回テレビ朝霧の特番は『田原慎之助の徹夜で生テレビ』と現地レポートの二元だてにすることで企画を通してきた。『徹生』中で動きがあり次第ニュースを流すっていう仕切りだ」

「はい」

「分かんねえかな、ニュース報道も含めて俺の番組の仕切りでやるっていうことさ」

「分かります。でも、その天下り役員の敷いたガイドラインを逸脱することは難しいわけですよね」

「ああ、基本的にはそうだよ。他局でも識者をコメンテーターとして呼んで現地のレポートと交互に番組の進行時間をもたせるだろうから似てるのは似てる」

「はい」

「しかし、他局の場合にはあらかじめ決められた台本通りに質問して、識者のコメントが台本通りに帰ってくるわけさ。この場合は事前の台本にも当然天下り野郎の意向が反映される」

「そうですよね」




「まだ分かんないの?『徹生』はさ、台本なんてあってないようなバトルでしょ」

「あ!」

 篠崎は田原の企んでいる大博打がやっと分かった。

「そんなことやって大丈夫ですか」

「おや、やっと分かったのかい」

 緊張した篠崎の声とは裏腹に、田原の声は子供のように無邪気ささえ感じさせるものだった。




「討論バトルを誘導して、警察の陰謀でこんな話がっていう爆弾を誰かが投げ込むんですね」

「ご明察。当然番組は荒れるだろう。僕もあえてそれを煽れるだけ煽るつもりだ」

 田原はなおも静かに言った。




「田原さん、その次も考えてるんですよね」

 篠崎の心臓の鼓動はアドレナリンの注入を受けて興奮を抑えるのがやっとだった。

「もちろんさ」





「実はまさにこれから警察の特殊部隊が強行突入しようとしている、
海神藤井城の藤井組組長と電話が繋がってます」







 篠崎は仰天の番組企画内容そのものよりもむしろ田原の覚悟に息を飲んだ。

 成功しても失敗してもただでは済まないだろう。失敗したら田原がこれまで築いてきたもの全てを失うのは間違いない。

 そして、マスコミトップやこの国の支配者層の本当の姿を知るものにとっては、田原の思惑の大成功もまた、田原の人生をこれまでとまったく別のものにしてしまうことは想像がつく。一時の喝采を浴びても大衆はすぐにそれを忘却するが、一旦牙を剥かれた権力は、牙を向いた相手を一生許すことはないのだ。

 成功しても失敗しても、死ぬまで田原に公安警察が張り付き、テレビでの仕事はこれまでのようには思うようにいかないことは明白だった。





「お手伝いさせて下さい」

 篠崎は厳粛な思いで田原に言った。

「ありがと。おっと、編成担当常務の呼び出しだ。また折り返し電話するね。頼みにしてるよ、篠崎さん」

 田原はそれだけ言うと慌ただしく電話を切った。




 電話を切った篠崎は深呼吸をした。そして妻と娘に笑いかけた。




続く

大人のピアノ その百ご 番組スタート

 千葉県船橋市海神付近一キロ圏内では騒然とした雰囲気の中住民の避難活動が続いていた。



 藤井組から半径一キロ内の住民は、千葉県警交通課生活安全課によって船橋市南部の千葉港湾岸の海上保安庁船橋分室と、西部の船橋競馬場特設テントへ順次誘導された。

 かつて関西の広域暴力団壊滅を意図した警察の対組織暴力頂上作戦では広島、神戸、大阪各都市にて住民の避難が行われたことがあったが、これほど広範囲な住民避難はかつて例のないものである。



 千葉県警の誘導に先立って、NHK及び民放各局では警察の提供した資料に基づいて藤井組の所持する常軌を逸した武器弾薬の脅威を放映していた。警察庁広報センターが藤井組で所持する武器弾薬の殺傷能力、最悪の場合の被害などにつき写真ビデオテープを含めた詳細な資料を放送各局に提供していたのである。各放送局はその資料及び警察記者クラブ発表の資料を元に、番組で手配したコメンテーターにその解説を依頼し、住民に避難の必要性を訴えていた。

 ニュースの中には随時藤井城と呼ばれる姫路城を模した要塞の映像が流れた。すでに報道各社にも現場区域への立ち入りの規制が敷かれているため、こうした映像もまた警察庁広報局が事前に用意した映像が使われていた。

 各局は藤井組の過去の抗争事件の映像や服役中の組員の人数、事件の概要などを交えて住民避難の模様を報道していた。
 合間合間には手荷物を抱えて避難路を急ぐ住民へのインタビュー映像が流れが、みな一様に藤井組のテロ活動への憤りを口にした。



 一連の各局の放送は、自発的ながらも全て警察の描いた大きなシナリオに沿ったものだったと言えた。
 こうした報道が功を奏し住民避難は大きな混乱もなく、住民感情はただ暴力団憎しの怨嗟の声のみに収斂する形となっていた。ここにも目に見えない形で警察の組織力が十全に発揮されていたと言って良い。





 金曜深夜に始まった海上保安庁船橋分室と船橋競馬場への住民避難は、翌日土曜日正午を目標に進められていた。夜明け前までに一般住民の避難をできるだけ完了し、世が明けてからお年寄りや体の不自由な住民を警察が手配した車両を使って避難誘導する二段構えの大移動だった。


$ことばのあしあと
海神の藤井城と住民避難先





 そんな中、日付は変わり時計の針が深夜の1:45を指した。

「田原さんの番組始まったね、パパ」

「ああ」

 田原がどこまで自分の意向を朝霧放送局に通せたのかはまだ不明だった。

 篠崎は斉藤家の南方組石橋、さらに藤井城にいる南方、藤井とも電話で話をすることができた。藤井はテレビへの電話出演については今ひとつピンときていない様子だったが、南方、石橋はそれが事態打開の鍵になることを即座に理解し、逆に篠崎に感謝の意を伝えてきたのだった。

 打ち合わせは断続的に今も続いている。

 朝子もまた、携帯電話で武志と話をすることができた。


「田原さん言ってたように確かにそうそうたるメンバーが『徹生』に出演するようだな」

 篠崎は音楽とともに続々とスタジオに入ってくる論士の面々を眺めていた。

「この中に田原さんが、警察の陰謀疑惑の爆弾を投げ込むわけね」

 冴子がソファに座った篠崎の横で画面を食い入るように見ながら言った。

「ああ」


 CM入り直前の番組は、今日出演の論士の一覧をテロップで流した。


=================

◼︎元警察庁長官衆議院議員 亀井静太郎
◼︎暴力団関係の著書多数のノンフィクションライター 森田守
◼︎右翼団体代表 赤石喜久蔵
◼︎社会学者 宮本信三
◼︎元南部流通グループ代表作家 筒美誠治
◼︎元東大教授保守論客 東野晋
……………
=================





続く

大人のピアノ その百ろく B面つながり

「始まったね」

 朝子が篠崎の隣でリビングの大画面テレビを見ながら言った。

「ああ」

「もともとどういうお知り合いなんだっけ、田原慎之助さんとは」

 妻の冴子が三人分のコーヒーを淹れてきた。

「ああ、一般論で言うと今は昔の景気のいい頃と違ってCMにお金出すスポンサーの意向が強く反映されるんだ」

「うん。でもいきなり東芝の広報担当の人が番組作りの話はできないわよね」

「そうそう。さすが元広告代理店営業マンのの妻、飲み込みが早い。だからテレビのディレクターとか司会者と代理店の人間はほっといても接点はたくさんあるんだ」

「その中の一人というわけね」

「ああ。だからそういう絡みで仕事で何度かスポンサー交えて一緒に打ち合わせしたことがある。でも田原さんとはどっちかというと夜の飲み会の方がメインだったな」

「あなたの本業だものね」

 皮肉目かして言っているが冴子の声の調子は穏やかな落ち着いたものだった。現役時代には確かにこうした会話など夫婦の間で一度もなかった気がする。楽しげに話に相槌を打つ妻を見ながら、篠崎はこういう話をもっとしとけば家庭内もスムーズに行ったかななどと月並みなことを思ったりした。





「ははは。まあでも実は田原さんとは二人で飲んだことことの方が多いんだよ」

「へえ、それって面白い」朝子が横から話に入ってきた。

「そうそう。二人とも夜の接待とか終わって終電逃した時とかね、なんとなく連絡取り合ってお互い同じ状況だったら落ち合って静かに朝まで飲んでたとか何度もあるよ」

「行きつけのそういう店があったんだ」朝子も話を面白がっていた。

「そうそう、そういうときは決まってゴールデン街の「にらいかない」っていう店に行ってたな」

「ふうん」母と娘が篠崎の顔を覗き込みながら興味深そうに言った。



「この『徹夜で生テレビ』の企画を朝霧放送の天皇と言われた大和田さんが持ちかけた頃もたまたま二人で飲んでた。田原さんは活字じゃ絶対無理な討論番組っていうのにこだわってた」

「そうよね、よく総合雑誌とかで偉い人の対談とか鼎談が載ってても細かいニュアンスなんてわかんないもの」

 冴子の言葉に朝子も頷いた。

「そうなんだ。田原さんが言ってたのは、例えば討論してる人が興奮したり怒って大きな声あげても、あるいは虚を突かれてうろたえた口調になっても、当然ながらそれはほとんど読者には伝わらない。でもテレビの場合だったら声の大きさや激しさ、穏やかさはもちろん表情や目の動きや、ときにはテーブルを叩くとか立ち上がったりのリアクションも全部伝えることができる」

「真実味が違うよね。やっぱあたしも大学で授業受けてるのと教科書広げて予習するのじゃ頭への入り方が全然違うもん」

「まあそういうこと」

「じゃあ、この番組はそういう意味では大成功ね。だってみんな怒ったりうろたえたり机叩いたり立ち上がったりするもん」冴子が笑った。

「あたしの大学の先生も出たことあるよ。慣れないテレビでやり込められちゃって翌週から授業元気なくしてたおじいちゃん先生」

 三人は無邪気に笑った。




「でもね、田原さんの一番やりたかったのは実は、出演者の激しい討論でも論壇のタブーに触れることでもなくてもっと違うことだったんだよ」

「何?」二人が再び篠崎の顔を覗き込む。

「討論の中で、賛成反対の正しさとか正義みたいなのを超えて、ふっと一瞬、誰一人として見えていなかった世界が浮かび上がる瞬間を電波に乗せたい、っていうことだった」

「誰一人として見えていなかった世界が浮かび上がる瞬間…」

「うん。じつは田原さんは俺の『B面人生論』のいまあるのとは違う世界ドアっていうのと同じことを考えていたんだよ」






続く







参考文献『田原総一郎の戦うテレビ論』文芸春秋
*文中の登場人物の言葉に本書からのほとんど引用に近いものもあります。主義主張になどついてはあくまでフィクションですので、モデルにさせていただいた方とはまったく関係ありません。
ゆっきー
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