千葉県船橋市海神付近一キロ圏内では騒然とした雰囲気の中住民の避難活動が続いていた。
藤井組から半径一キロ内の住民は、千葉県警交通課生活安全課によって船橋市南部の千葉港湾岸の海上保安庁船橋分室と、西部の船橋競馬場特設テントへ順次誘導された。
かつて関西の広域暴力団壊滅を意図した警察の対組織暴力頂上作戦では広島、神戸、大阪各都市にて住民の避難が行われたことがあったが、これほど広範囲な住民避難はかつて例のないものである。
千葉県警の誘導に先立って、NHK及び民放各局では警察の提供した資料に基づいて藤井組の所持する常軌を逸した武器弾薬の脅威を放映していた。警察庁広報センターが藤井組で所持する武器弾薬の殺傷能力、最悪の場合の被害などにつき写真ビデオテープを含めた詳細な資料を放送各局に提供していたのである。各放送局はその資料及び警察記者クラブ発表の資料を元に、番組で手配したコメンテーターにその解説を依頼し、住民に避難の必要性を訴えていた。
ニュースの中には随時藤井城と呼ばれる姫路城を模した要塞の映像が流れた。すでに報道各社にも現場区域への立ち入りの規制が敷かれているため、こうした映像もまた警察庁広報局が事前に用意した映像が使われていた。
各局は藤井組の過去の抗争事件の映像や服役中の組員の人数、事件の概要などを交えて住民避難の模様を報道していた。
合間合間には手荷物を抱えて避難路を急ぐ住民へのインタビュー映像が流れが、みな一様に藤井組のテロ活動への憤りを口にした。
一連の各局の放送は、自発的ながらも全て警察の描いた大きなシナリオに沿ったものだったと言えた。
こうした報道が功を奏し住民避難は大きな混乱もなく、住民感情はただ暴力団憎しの怨嗟の声のみに収斂する形となっていた。ここにも目に見えない形で警察の組織力が十全に発揮されていたと言って良い。
金曜深夜に始まった海上保安庁船橋分室と船橋競馬場への住民避難は、翌日土曜日正午を目標に進められていた。夜明け前までに一般住民の避難をできるだけ完了し、世が明けてからお年寄りや体の不自由な住民を警察が手配した車両を使って避難誘導する二段構えの大移動だった。
海神の藤井城と住民避難先 そんな中、日付は変わり時計の針が深夜の1:45を指した。
「田原さんの番組始まったね、パパ」
「ああ」
田原がどこまで自分の意向を朝霧放送局に通せたのかはまだ不明だった。
篠崎は斉藤家の南方組石橋、さらに藤井城にいる南方、藤井とも電話で話をすることができた。藤井はテレビへの電話出演については今ひとつピンときていない様子だったが、南方、石橋はそれが事態打開の鍵になることを即座に理解し、逆に篠崎に感謝の意を伝えてきたのだった。
打ち合わせは断続的に今も続いている。
朝子もまた、携帯電話で武志と話をすることができた。
「田原さん言ってたように確かにそうそうたるメンバーが『徹生』に出演するようだな」
篠崎は音楽とともに続々とスタジオに入ってくる論士の面々を眺めていた。
「この中に田原さんが、警察の陰謀疑惑の爆弾を投げ込むわけね」
冴子がソファに座った篠崎の横で画面を食い入るように見ながら言った。
「ああ」
CM入り直前の番組は、今日出演の論士の一覧をテロップで流した。
=================◼︎元警察庁長官衆議院議員 亀井静太郎
◼︎暴力団関係の著書多数のノンフィクションライター 森田守
◼︎右翼団体代表 赤石喜久蔵
◼︎社会学者 宮本信三
◼︎元南部流通グループ代表作家 筒美誠治
◼︎元東大教授保守論客 東野晋
……………
=================続く