悲しみの化身

 お店に出ると、執事がテーブルの席に腰掛け、亜紀と小さな声で楽しそうに話をしていた。アンナが、お腹を突き出して、ゆっくりお店に顔を出すと、執事は、すぐに席を立ち、深々とお辞儀した。「アンナお嬢様、お久しぶりです。憶えていらっしゃいますか?」執事は、大きなお腹をチラッと見て微笑み、挨拶をした。アンナは、口ひげをはやした男をまったく覚えていなかった。覚えていないと言うと失礼のようで、かと言って、覚えているとも言えなかったので、ぼやかして答えた。

 

 「もしかして、迎えに来てくれた、あの時の方かしら。どうぞ、お座りください」アンナは、つくり笑顔で答え、執事に腰を下ろすように声をかけ、アンナも、執事の前の席に腰を下ろした。「そうです、よかった、あの時の執事です。アンナお嬢様、来月でいらっしゃいますね。おめでとうございます。今日は、お嬢さまが必要なものを準備するように仰せつかりました。何か、ご希望なされるものがあれば何なりとおっしゃってくださいませ」執事は、会長の指示を単刀直入に伝えた。

 

 アンナは、突然の話に戸惑ってしまった。すでに、出産の準備はできていた。特に、申し出るものはなかった。「ありがとうございます。会長によろしくお伝えください。すでに、準備はできています。いま、これといって、別にありません。わざわざ、お越しいただいて恐縮です。お気持ちだけで、十分です。本当に、ありがとうございます」アンナは、ハンカチを取り出し、目頭を押さえた。

 

 会長は、アンナの返答を見越してプレゼントを準備していた。執事は、二度頷き、話しを続けた。「会長の道楽と思いになって、お聞きください。ところで、今、お車は何に乗っていらっしゃいますか?」執事は、アンナの車を確認した。「今は、主人が残したプリウスに乗っています」アンナは、ハンカチを折りたたみ、ほんの少し笑顔を作った。執事は大きく頷き、窓に顔を向けた。

 

 「お嬢様、あちらに停まっている車をご覧ください。ベントレーの新型フライングスパーです。乗り心地はマシュマロのようで、お子様とお買い物に行かれるには最適なお車と存じます。車内は、ハリウッドスターの豪邸と思わせる豪華絢爛な内装となっています。よろしければ、お嬢様のお好みの色のフライングスパーを手配いたしたいと思いますが、いかがでしょうか?」執事は、会長の指示を適当に脚色して、フライングスパーのプレゼントを申し出た。

 

 アンナは、威厳を放っている場違いな高級車を窓越しに見つめ、目じりを下げた。「え、あの車ですか?とんでもない、あんな高級車、私たちにはもったいない。先程、申し上げましたとおり、準備は整っています。ご心配なく」アンナは、会長の押しつけに少しムカついた。さやかは、目をクリクリさせて口を挟んだ。「アンナ、だったら、何か別のものをプレゼントしてもらえば?会長のご好意なんだから」さやかは、せこい考えを持ち出した。

 執事は、さやかに顔を向け、頷き、話した。「会長の道楽と思われて、何かお望みのものはございませんか?私も、このまま帰るわけには、参りません。なにとぞ、何かご要望をおっしゃってくださいませ」執事は、頭を下げた。アンナは、困り果てた顔で、もう一度窓越しに黒い車を眺めた。どうしようかと悩みながら、目を戻し、亜紀に顔を向けると目と目が合った。「あ、そうだ、亜紀、何かほしいものない。このおじちゃんが、ほしいものを買ってあげるって」亜紀に矛先を向けた。

 

 亜紀には、アンナにまだ話していないほしいものがあった。亜紀は、少し悩んだふりをして、小さな声で答えた。「犬がほしい。かわいい子犬」犬と聞いたアンナは、一瞬返答に困った。子供が生まれるというときに犬を飼っても面倒を見られるか不安だった。しかも、アンナは、一度もペットを飼ったことがなかった。「え、犬。面倒は誰が見るの?」アンナは、気がすすまなかった。「亜紀が、ちゃんと世話をする。だから、お願い」亜紀は、両手を合わせた。

 

 さやかは、ペットを飼うことに賛成だった。亜紀の気持ちを察していた。子供が生まれれば、アンナは、子供にかかりっきりになる。そうなれば、きっと、亜紀は、寂しい気持ちになるに違いなかった。亜紀は、そのことを直感して犬のペットを欲しがった、とさやかは考えた。「いいじゃない、アンナ、私も、亜紀と一緒に、面倒見るわ」さやかは、アンナの左肩をポンと叩いた。アンナは、しばらく黙っていたが、かわいい子犬と子供が遊ぶ姿を思い浮かべ、賛成することにした。

 「そこまで言うんなら、犬を飼ってみようか。そういうことで、子犬をプレゼントしてくださる」唐突に、執事に話を振った。執事は、一瞬、目を大きく見開き、笑顔を作りながら、返事した。「喜んで!子犬でございますね。どんな子犬をご希望ですか?」執事は、左横の亜紀の顔を覗いた。亜紀には、すでに飼いたい犬は決まっていた。「シェルティが欲しい」亜紀は、大きな声で返事した。

 

 執事は、大きく頷き、返事した。「かしこまりました。血統書つきのシェルティを後日お届けに参らせます。オス・メスどちらにいたしましょうか?」執事は、再度、亜紀に顔を向けて訪ねた。「男の子がいい」亜紀は、喜色満面で肩をすくめ答えた。アンナは、シェルティという犬がどんな犬か知らなかったが、子犬のかわいい顔を思い浮かべると、うれしくなってきた。執事もほっとした笑顔を見せた。アンナは車のプレゼントを断ったが、さやかは、BMWの車が欲しかった。「アンナ、この際だから、車も買ってもらいましょうよ。ほら、BMWが欲しいと言ってたじゃない」さやかは、アンナに声をかけると、執事に顔を向けた。

 

 執事は、即座に返事した。「はい、承知いたしました。BMWですね。M5セダンでよろしいですか?近くのディーラーといえば・・地行のBalcom BMWで購入いたしましょう」アンナは、さやかの独断にあきれ返ったが、これ以上断るのも気まずいような気がして、プレゼントしてもらうことにした。「それじゃ、オスの子犬とアイボリーのBMWをお願いします。会長には、どのようにお礼をしていいか、本当にありがとうございます」アンナは、深々と頭を下げた。びっくりした、執事は、即座に声をかけた。

春日信彦
作家:春日信彦
悲しみの化身
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