悲しみの化身

シェルティ

 

 亜紀は白いテーブルが二つ置いてある甘党茶屋の玄関前の庭で遊んでいた。北側からやってきた大きな黒いベントレーがゆっくり庭の前で停まった。車の中には、運転手と後席に50歳前後の燕尾服を着た男が座っていた。その男は、身なりを確認し、ゆっくりと車を降りると亜紀のほうにやってきた。亜紀は、突っ立って、近づいてくる燕尾服を着た男をじっと見つめていた。玄関に続く細長い通路の入り口にやってくると、その男は亜紀に声をかけた。「かわいいお嬢ちゃんは、亜紀ちゃんかな。アンナお嬢様は、いらっしゃいますか?執事が伺いました、と伝えてくれるかな」その男は、亜紀に微笑んだ。

 

 亜紀は、始めて見る燕尾服を着た男に声をかけられ、目を丸くして店にとんで入っていった。そのとき、さやかが、ご婦人3人のお客を送り出していた。「さやか、黒い服を着たおじさんが、ママを呼んでるよ。あそこ」亜紀は、窓から見える燕尾服の男を指差した。さやかは、大きな車と執事を見て、誰の使いか見当がついた。「亜紀ちゃんは、あのおじちゃんをテーブルに案内してちょうだい。すぐに、アンナを呼んでくるから」さやかは、亜紀にお願いすると、厨房にいるアンナを呼びに駆けて行った。

 

 アンナは、大きなお腹をゆっくりさすりながら、薄茶色の丸椅子に腰掛け、来月生まれてくる子供のことをぼんやり考えていた。さやかは、アンナの前に立って小さな声で話しかけた。「アンナ、アンナにお客さんよ。ちょっときて」アンナは、いったい誰が訪ねてきたのだろうかと考えてみたが、まったく見当がつかなかった。お腹に下から手を当て、よっこらしょ、と腰を持ち上げたアンナは、お相撲さんのように外またでゆっくり歩き出した。

 お店に出ると、執事がテーブルの席に腰掛け、亜紀と小さな声で楽しそうに話をしていた。アンナが、お腹を突き出して、ゆっくりお店に顔を出すと、執事は、すぐに席を立ち、深々とお辞儀した。「アンナお嬢様、お久しぶりです。憶えていらっしゃいますか?」執事は、大きなお腹をチラッと見て微笑み、挨拶をした。アンナは、口ひげをはやした男をまったく覚えていなかった。覚えていないと言うと失礼のようで、かと言って、覚えているとも言えなかったので、ぼやかして答えた。

 

 「もしかして、迎えに来てくれた、あの時の方かしら。どうぞ、お座りください」アンナは、つくり笑顔で答え、執事に腰を下ろすように声をかけ、アンナも、執事の前の席に腰を下ろした。「そうです、よかった、あの時の執事です。アンナお嬢様、来月でいらっしゃいますね。おめでとうございます。今日は、お嬢さまが必要なものを準備するように仰せつかりました。何か、ご希望なされるものがあれば何なりとおっしゃってくださいませ」執事は、会長の指示を単刀直入に伝えた。

 

 アンナは、突然の話に戸惑ってしまった。すでに、出産の準備はできていた。特に、申し出るものはなかった。「ありがとうございます。会長によろしくお伝えください。すでに、準備はできています。いま、これといって、別にありません。わざわざ、お越しいただいて恐縮です。お気持ちだけで、十分です。本当に、ありがとうございます」アンナは、ハンカチを取り出し、目頭を押さえた。

 

 会長は、アンナの返答を見越してプレゼントを準備していた。執事は、二度頷き、話しを続けた。「会長の道楽と思いになって、お聞きください。ところで、今、お車は何に乗っていらっしゃいますか?」執事は、アンナの車を確認した。「今は、主人が残したプリウスに乗っています」アンナは、ハンカチを折りたたみ、ほんの少し笑顔を作った。執事は大きく頷き、窓に顔を向けた。

 

 「お嬢様、あちらに停まっている車をご覧ください。ベントレーの新型フライングスパーです。乗り心地はマシュマロのようで、お子様とお買い物に行かれるには最適なお車と存じます。車内は、ハリウッドスターの豪邸と思わせる豪華絢爛な内装となっています。よろしければ、お嬢様のお好みの色のフライングスパーを手配いたしたいと思いますが、いかがでしょうか?」執事は、会長の指示を適当に脚色して、フライングスパーのプレゼントを申し出た。

 

 アンナは、威厳を放っている場違いな高級車を窓越しに見つめ、目じりを下げた。「え、あの車ですか?とんでもない、あんな高級車、私たちにはもったいない。先程、申し上げましたとおり、準備は整っています。ご心配なく」アンナは、会長の押しつけに少しムカついた。さやかは、目をクリクリさせて口を挟んだ。「アンナ、だったら、何か別のものをプレゼントしてもらえば?会長のご好意なんだから」さやかは、せこい考えを持ち出した。

 執事は、さやかに顔を向け、頷き、話した。「会長の道楽と思われて、何かお望みのものはございませんか?私も、このまま帰るわけには、参りません。なにとぞ、何かご要望をおっしゃってくださいませ」執事は、頭を下げた。アンナは、困り果てた顔で、もう一度窓越しに黒い車を眺めた。どうしようかと悩みながら、目を戻し、亜紀に顔を向けると目と目が合った。「あ、そうだ、亜紀、何かほしいものない。このおじちゃんが、ほしいものを買ってあげるって」亜紀に矛先を向けた。

 

 亜紀には、アンナにまだ話していないほしいものがあった。亜紀は、少し悩んだふりをして、小さな声で答えた。「犬がほしい。かわいい子犬」犬と聞いたアンナは、一瞬返答に困った。子供が生まれるというときに犬を飼っても面倒を見られるか不安だった。しかも、アンナは、一度もペットを飼ったことがなかった。「え、犬。面倒は誰が見るの?」アンナは、気がすすまなかった。「亜紀が、ちゃんと世話をする。だから、お願い」亜紀は、両手を合わせた。

 

 さやかは、ペットを飼うことに賛成だった。亜紀の気持ちを察していた。子供が生まれれば、アンナは、子供にかかりっきりになる。そうなれば、きっと、亜紀は、寂しい気持ちになるに違いなかった。亜紀は、そのことを直感して犬のペットを欲しがった、とさやかは考えた。「いいじゃない、アンナ、私も、亜紀と一緒に、面倒見るわ」さやかは、アンナの左肩をポンと叩いた。アンナは、しばらく黙っていたが、かわいい子犬と子供が遊ぶ姿を思い浮かべ、賛成することにした。

春日信彦
作家:春日信彦
悲しみの化身
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