仄の底

ぴちゃん、と水が落ちる音がした。

はっとして目を開く。目を開いたということは、目を閉じていたということだ、と寝ぼけた頭でそう考えた。授業の最中、どうやらうとうとしてしまったようである。暑かった。自分の周りでは学生たちが律儀にも机に向かっている。皆同じような格好で熱心にペンを動かしていた。私より前に座っている学生で、授業中に船を漕ぎ出しているような人間はいない。多少の気恥かしさを感じながら、私もノートを取ろうとペンを持ち直した。

くすり。

ふと微かな笑い声が耳に届く。それに続いてまた、くすりと笑い声がした。微かだ。微かなくせに確かに聞こえるのだから耳障りである。誰の、何に対する笑いなのだろう。周りの人間は誰も気にも留めていないようである。なるべく気にしないことにしようと思っていると、その笑い声は部屋全体に広がっていき、無視できないまでになった。教壇に立っている人間は気付いていない。周りの生徒も気にしているようには見えない。気付いているのは私だけなのだろうか。なんとなく居心地の悪い思いでいると、背後からつん、とペンか何かでつつかれた。授業中である。後ろに座っている人物が誰だか分からないし、振り向いたら目立つだろうと思い、そのまま無視することにした。と、後ろからそろりと声が私の背中を這ってきた。

「あなた、どうしてそんなにびしょ濡れなんです」

くすり。女だ。笑い声と同じ声でその言葉は発せられていた。ふと違和感がして自分の手元に視線を落とす。私の腕や手はびっしょり濡れていて、髪からは水が滴り落ち、ノートや机が水浸しになっていた。私ははっとして目を開いた。


冷たい水を被ったような心地になった。

私は廊下に立っていた。今まで何をしていたのだろう。思い出そうしたが、掴もうとしては手をすり抜けていく夢がごとく、はっきりしなかった。ため息をついて窓の外を見る。青々とした緑が目に染みて痛いほどだ。そのまま廊下にぼうと立っていると、後ろから声をかけられた。

「彼女の目を見たことがないのですか」

不愉快な、ざらざらとした、絡みつくような声が、無視するのを許さず振り向かせた。その先に音を発した張本人である男が立っていた。いけすかない、軽薄な笑みを浮かべている。仮面だ。しかもそれを仮面だと一目で分かるようにしてある。馬鹿にしてやがる。腹が立つ。顔を見せるだけで人をここまで不愉快にすることができるのだから、一種の才能だろう。

私に話しかけてきた男は知人であった。その男は私を友人だというのだが、私は男のことを友人だとは思ったことがない。友人というほど親しくないし、やけに馴れ馴れしく接してくるその男が、私は嫌いだった。

「いきなり何の話だ」

「いえね、彼女があなたをずっと見ているところを、偶然僕が見たって、そういう訳なんですよ。気付かなかったんですか。それはもう恐ろしい目つきでして、僕は彼女と金輪際関わりたくないと思いましたね。あれだけずっと見られていたならどれだけ鈍感な人間だって気付くと思うんですけどね、君、本当に気付きませんでしたか」

「いつの話だ、彼女って誰のことだ」

目の前の男がべらべらと話し続けるのが我慢ならず、遮るように言葉を口にした。事実、先程から男の発言の端々に登場する彼女が誰をさしているのか、分からなかった。

私がそう言うと目の前の男は「おや」と大げさに表情をつくり、驚きを目一杯表現した。そして満面の笑みへとじわじわ変化させていく。

「君、そんなこと言っちゃいけませんよ。彼女に気付かないで、その上彼女が誰なのかも知らないなんて! 彼女が知ったら泣いちゃうぜ。言いつけてやろうかな」

男は何故だか話しかけてきた時よりも随分機嫌が良くなったらしい。スキップでもしそうな陽気さでその場を離れていった。私にはもやもやとした嫌な気持ちだけが残された。気分が悪い。まさしく不愉快という言葉を具現化したような男である。私は男を殴りたいと思った。


口にした水が喉を通る音を聞いた。

友人と飲みに行こうという話になった。友人は小説家である。締め切りに追われているのが常である男だった。最近はなかなか会う機会もなく疎遠になっていたのだが、珍しくも彼のほうから一緒に飲もうと誘ってきた。その友人からの誘いを私は即座に了承した。久しぶりに会いたいと思ったからであり、また彼の声がやけに生気を感じさせないものだったからでもあった。人々の熱気のせいか、外よりも格段に暑い居酒屋で、私たちは会うことになった。

「人は自分しか描けないと思わないか」

久々に会った友人はひどく塞ぎこんだ様子でそう言った。電話の際に感じた私の感想は間違っていなかったようである。目の下にはクマができていて、痩せたというよりやつれた印象だ。彼は自分の手元の杯を一気にあおった。

「俺の場合、自分と似たような人間じゃないと書けない。そのせいでどいつもこいつも同じ顔をしてやがる。そりゃあ、話を書くっていうんだから容姿も性格も全部変えなきゃならないし、変えているさ。努力はしている。だが、どうも駄目だ。やっぱり同じだ。どんな登場人物であれ自分が含まれているのが分かる。君、読んでいてそうは思わないか。俺は思うよ。でもな、だからこそ俺は主人公の思いがよく分かるし、そいつらのことを書ける。事細かにね。分からなけりゃ書けるもんか。当たり前だろう。だが編集者や読者はそうは思わない。いつも同じで飽きると言う。話に中身がないと言う。俺はそれを聞くと笑ってしまうよ。おかしいよな。俺の書く話に中身や意味があったことなど、あったか」

そう言った友人の目はひどく澱んで見えた。私はすぐに目を逸らした。底のない湖を覗きこんでしまった気分だ。見てはいけないものを見てしまったようで、恐ろしかった。


 歩くたびに沈むような思いがする。

私の前には女が一人歩いていた。その後ろ姿に見覚えはない。女はこちらを向かない。目の前の女が誰なのか見当もつかない。分からないまま、私はその女に連れられどこかへと向かう。何故か一列に並んだまま黙々と道の右側を歩く。今は夏である。暑いはずなのに、しかし全く暑さを感じない。空気はひんやりとして涼しい。

「ご存じでしたか、この先の湖、立ち入り禁止になってしまったそうですよ」

女はそう言う。私たちは湖に向かって歩いているらしい。立ち入り禁止だというのに行ってもいいのか、入れるのだろうかと疑問に思ったが、結局口にせず、かわりに違う疑問を女に投げかけた。

「どうして立ち入り禁止に」

「人が死んだのです。それで怖くなって、必死になかったことにしようとしているんです。事故か他殺か分からないことになっていますが、あれは他殺です」

「どうして分かるんですか」

「私がやったからです」

「誰が亡くなったんですか」

「あらいやだ、あなたの話ですよ」

女は振り返らないし、立ち止まらない。私は全身冷水を浴びたような気持ちになった。頬をつうと滴がつたう。それが汗なのか湖の水なのか、私には区別がつかなかった。目の前がぼやけていくような気がする。水の底から外を見ているようであった。

 


葛城
仄の底
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