仄の底

冷たい水を被ったような心地になった。

私は廊下に立っていた。今まで何をしていたのだろう。思い出そうしたが、掴もうとしては手をすり抜けていく夢がごとく、はっきりしなかった。ため息をついて窓の外を見る。青々とした緑が目に染みて痛いほどだ。そのまま廊下にぼうと立っていると、後ろから声をかけられた。

「彼女の目を見たことがないのですか」

不愉快な、ざらざらとした、絡みつくような声が、無視するのを許さず振り向かせた。その先に音を発した張本人である男が立っていた。いけすかない、軽薄な笑みを浮かべている。仮面だ。しかもそれを仮面だと一目で分かるようにしてある。馬鹿にしてやがる。腹が立つ。顔を見せるだけで人をここまで不愉快にすることができるのだから、一種の才能だろう。

私に話しかけてきた男は知人であった。その男は私を友人だというのだが、私は男のことを友人だとは思ったことがない。友人というほど親しくないし、やけに馴れ馴れしく接してくるその男が、私は嫌いだった。

「いきなり何の話だ」

「いえね、彼女があなたをずっと見ているところを、偶然僕が見たって、そういう訳なんですよ。気付かなかったんですか。それはもう恐ろしい目つきでして、僕は彼女と金輪際関わりたくないと思いましたね。あれだけずっと見られていたならどれだけ鈍感な人間だって気付くと思うんですけどね、君、本当に気付きませんでしたか」

「いつの話だ、彼女って誰のことだ」

目の前の男がべらべらと話し続けるのが我慢ならず、遮るように言葉を口にした。事実、先程から男の発言の端々に登場する彼女が誰をさしているのか、分からなかった。

私がそう言うと目の前の男は「おや」と大げさに表情をつくり、驚きを目一杯表現した。そして満面の笑みへとじわじわ変化させていく。

「君、そんなこと言っちゃいけませんよ。彼女に気付かないで、その上彼女が誰なのかも知らないなんて! 彼女が知ったら泣いちゃうぜ。言いつけてやろうかな」

男は何故だか話しかけてきた時よりも随分機嫌が良くなったらしい。スキップでもしそうな陽気さでその場を離れていった。私にはもやもやとした嫌な気持ちだけが残された。気分が悪い。まさしく不愉快という言葉を具現化したような男である。私は男を殴りたいと思った。


口にした水が喉を通る音を聞いた。

友人と飲みに行こうという話になった。友人は小説家である。締め切りに追われているのが常である男だった。最近はなかなか会う機会もなく疎遠になっていたのだが、珍しくも彼のほうから一緒に飲もうと誘ってきた。その友人からの誘いを私は即座に了承した。久しぶりに会いたいと思ったからであり、また彼の声がやけに生気を感じさせないものだったからでもあった。人々の熱気のせいか、外よりも格段に暑い居酒屋で、私たちは会うことになった。

「人は自分しか描けないと思わないか」

久々に会った友人はひどく塞ぎこんだ様子でそう言った。電話の際に感じた私の感想は間違っていなかったようである。目の下にはクマができていて、痩せたというよりやつれた印象だ。彼は自分の手元の杯を一気にあおった。

「俺の場合、自分と似たような人間じゃないと書けない。そのせいでどいつもこいつも同じ顔をしてやがる。そりゃあ、話を書くっていうんだから容姿も性格も全部変えなきゃならないし、変えているさ。努力はしている。だが、どうも駄目だ。やっぱり同じだ。どんな登場人物であれ自分が含まれているのが分かる。君、読んでいてそうは思わないか。俺は思うよ。でもな、だからこそ俺は主人公の思いがよく分かるし、そいつらのことを書ける。事細かにね。分からなけりゃ書けるもんか。当たり前だろう。だが編集者や読者はそうは思わない。いつも同じで飽きると言う。話に中身がないと言う。俺はそれを聞くと笑ってしまうよ。おかしいよな。俺の書く話に中身や意味があったことなど、あったか」

そう言った友人の目はひどく澱んで見えた。私はすぐに目を逸らした。底のない湖を覗きこんでしまった気分だ。見てはいけないものを見てしまったようで、恐ろしかった。


 歩くたびに沈むような思いがする。

私の前には女が一人歩いていた。その後ろ姿に見覚えはない。女はこちらを向かない。目の前の女が誰なのか見当もつかない。分からないまま、私はその女に連れられどこかへと向かう。何故か一列に並んだまま黙々と道の右側を歩く。今は夏である。暑いはずなのに、しかし全く暑さを感じない。空気はひんやりとして涼しい。

「ご存じでしたか、この先の湖、立ち入り禁止になってしまったそうですよ」

女はそう言う。私たちは湖に向かって歩いているらしい。立ち入り禁止だというのに行ってもいいのか、入れるのだろうかと疑問に思ったが、結局口にせず、かわりに違う疑問を女に投げかけた。

「どうして立ち入り禁止に」

「人が死んだのです。それで怖くなって、必死になかったことにしようとしているんです。事故か他殺か分からないことになっていますが、あれは他殺です」

「どうして分かるんですか」

「私がやったからです」

「誰が亡くなったんですか」

「あらいやだ、あなたの話ですよ」

女は振り返らないし、立ち止まらない。私は全身冷水を浴びたような気持ちになった。頬をつうと滴がつたう。それが汗なのか湖の水なのか、私には区別がつかなかった。目の前がぼやけていくような気がする。水の底から外を見ているようであった。

 


波に揺られながら寝ている気分だった。

じりりり、と電話が鳴り、その音で私は目を覚ました。部屋によく響くその音はしつこく、途切れそうもない。寝ぼけながらも手元の時計を確認すると、夜明けには程遠い時間であった。何でこんな時間に、と思わないでもなかったが、緊急の用かもしれない、としぶしぶ起き上がって電話に出る。そして電話に出た瞬間に私は後悔した。

「夜遅くにすみませんね。僕ですよ、僕。名前は言わずとも分かるでしょう。だって僕たち、親友ではありませんか」

あの男だ。顔が見えない電話だというのに私は不愉快になった。やはりこの男は人を不愉快にさせる点においては天才である。しかし迷惑だった。どうせどうでもいい話しかしないだろうに、何故わざわざ電話してくるのだろう。しかもこんな夜更けに電話を寄こすなんてどうかしている。相手の迷惑を考えないのだろうか。もしかして私を怒らすためにわざとやっているんじゃないか。そこまで考えて、やめた。さっさとこの電話を終わらせてもう一度寝ようと受話器を持ち直す。

「一体何の用だ」

「いやいや、怒らないでくださいよ。寝ているところを起こしてしまったようで申し訳ない。謝ります。でも、僕だって眠いのを我慢して、一刻も早く君に伝えなければと思ってこうして電話しているんです。許してくださいよ」

「早く本題に入ってくれ」

「君のご友人、亡くなりましたよ」

「誰だ」

「小説家の彼ですよ。自殺ですって、じ、さ、つ。今日の朝方に死んで、お昼頃に見つかったそうです。自殺なんて凄まじいことをするじゃありませんか。彼はきっと何かすると思っていましたが、まさか自殺とは思いませんでしたね。それでね、死んだは死んだのですが、死に方が奇妙でして。彼、溺死だったらしいですよ。浴槽に、目一杯水を張って、そこに頭を突っ込んで死んでいたそうです。正気とは思えませんね。だってほら、他人に頭を押さえつけられて死んだなら分かりますけどね、彼の場合そうじゃないんですよ。自分ひとりでやったんですよ。普通の人間なら苦しくなったら顔をあげようとするもんです。それを君、彼は自分でやってしまったのだから、僕は彼の死を初めて聞いた時本当に驚きましたよ。ああ、まさか彼が自殺とはね。ね、君、どうして彼は自殺したんだと思いますか。僕は全然理由が分からない。君は彼と親しかったじゃありませんか、何か思い当たることがあるなら教えてくださいよ。気になるじゃありませんか。なんで彼は自殺したのかなあ。ねえ君、聞いていますか、もしもし」


葛城
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