仄の底

 歩くたびに沈むような思いがする。

私の前には女が一人歩いていた。その後ろ姿に見覚えはない。女はこちらを向かない。目の前の女が誰なのか見当もつかない。分からないまま、私はその女に連れられどこかへと向かう。何故か一列に並んだまま黙々と道の右側を歩く。今は夏である。暑いはずなのに、しかし全く暑さを感じない。空気はひんやりとして涼しい。

「ご存じでしたか、この先の湖、立ち入り禁止になってしまったそうですよ」

女はそう言う。私たちは湖に向かって歩いているらしい。立ち入り禁止だというのに行ってもいいのか、入れるのだろうかと疑問に思ったが、結局口にせず、かわりに違う疑問を女に投げかけた。

「どうして立ち入り禁止に」

「人が死んだのです。それで怖くなって、必死になかったことにしようとしているんです。事故か他殺か分からないことになっていますが、あれは他殺です」

「どうして分かるんですか」

「私がやったからです」

「誰が亡くなったんですか」

「あらいやだ、あなたの話ですよ」

女は振り返らないし、立ち止まらない。私は全身冷水を浴びたような気持ちになった。頬をつうと滴がつたう。それが汗なのか湖の水なのか、私には区別がつかなかった。目の前がぼやけていくような気がする。水の底から外を見ているようであった。

 


波に揺られながら寝ている気分だった。

じりりり、と電話が鳴り、その音で私は目を覚ました。部屋によく響くその音はしつこく、途切れそうもない。寝ぼけながらも手元の時計を確認すると、夜明けには程遠い時間であった。何でこんな時間に、と思わないでもなかったが、緊急の用かもしれない、としぶしぶ起き上がって電話に出る。そして電話に出た瞬間に私は後悔した。

「夜遅くにすみませんね。僕ですよ、僕。名前は言わずとも分かるでしょう。だって僕たち、親友ではありませんか」

あの男だ。顔が見えない電話だというのに私は不愉快になった。やはりこの男は人を不愉快にさせる点においては天才である。しかし迷惑だった。どうせどうでもいい話しかしないだろうに、何故わざわざ電話してくるのだろう。しかもこんな夜更けに電話を寄こすなんてどうかしている。相手の迷惑を考えないのだろうか。もしかして私を怒らすためにわざとやっているんじゃないか。そこまで考えて、やめた。さっさとこの電話を終わらせてもう一度寝ようと受話器を持ち直す。

「一体何の用だ」

「いやいや、怒らないでくださいよ。寝ているところを起こしてしまったようで申し訳ない。謝ります。でも、僕だって眠いのを我慢して、一刻も早く君に伝えなければと思ってこうして電話しているんです。許してくださいよ」

「早く本題に入ってくれ」

「君のご友人、亡くなりましたよ」

「誰だ」

「小説家の彼ですよ。自殺ですって、じ、さ、つ。今日の朝方に死んで、お昼頃に見つかったそうです。自殺なんて凄まじいことをするじゃありませんか。彼はきっと何かすると思っていましたが、まさか自殺とは思いませんでしたね。それでね、死んだは死んだのですが、死に方が奇妙でして。彼、溺死だったらしいですよ。浴槽に、目一杯水を張って、そこに頭を突っ込んで死んでいたそうです。正気とは思えませんね。だってほら、他人に頭を押さえつけられて死んだなら分かりますけどね、彼の場合そうじゃないんですよ。自分ひとりでやったんですよ。普通の人間なら苦しくなったら顔をあげようとするもんです。それを君、彼は自分でやってしまったのだから、僕は彼の死を初めて聞いた時本当に驚きましたよ。ああ、まさか彼が自殺とはね。ね、君、どうして彼は自殺したんだと思いますか。僕は全然理由が分からない。君は彼と親しかったじゃありませんか、何か思い当たることがあるなら教えてくださいよ。気になるじゃありませんか。なんで彼は自殺したのかなあ。ねえ君、聞いていますか、もしもし」


水の冷たさにはっとした。

気付くと私は湖の中にいた。腰の高さまで水に浸かっている。辺りは耳が痛くなるほどに静かで何の音も聞こえない。凍てついた空気に私は身震いした。

おうい。友人の声がした。辺りを見回したが人影は見当たらない。おうい。また聞こえた。どうした、どこにいる、と聞き返すと近くにいる、と友人の声は答えた。

「おかしいな、姿が見えないが」

「そりゃそうだろう。俺は自殺で君は他殺なんだから、全然違う」

「どういうことだ」

「彼女が殺したんだ。君を一人占めしたかったんだろうな。独占欲が強いのさ。女ってのは大抵がそんなもんだ。まったくもって醜い。誰も来ない湖に沈めて、自分のものにした気でいやがる」

「意味が分からない」

「今に分かるさ。ほら、来るぞ」

ぱしゃんと水の音がして、それっきり友人の声はしなくなった。おい、と呼びかけても返事はない。私は困惑した。どうすればいいのか分からずやみくもに動いた。動くたびにばしゃばしゃと音がして、気がつくと水面が上がってきているようだった。腰の高さまでだった水面は今や首のあたりまできている。それでも動くのをやめられずもがいた。とうとう頭が水に沈んだ。と、そこで、上から頭を押さえつけられた。ざぶりと水面が動く。私は大きく水を飲んでしまった。どうにか顔を上げようとするが出来ない。押さえつける腕は細く女のもののようであったが、力は女のものとは思えなかった。私を沈めようとする執念が感じられる。苦しい。

「彼女の目を見たことがないのですか」

不愉快な声が思い出された。最後の酸素がとうとう逃げていった。私の体は急速に力が抜けていき、それと同時に頭を押さえつける腕の力も弱まっていくようだった。私は最後に水面越しの彼女を見た。水面が揺れて波紋が広がり、彼女が誰なのか、どんな目をしているのか、結局分からないままになった。


目を開く。ここはどこだ、と辺りを見回すと自分の家であった。寝床に上半身を起こした状態で私はいた。夜の寝苦しさに目が覚めたのだろう。部屋の中は暗い。室温は高い。心臓の音はうるさい程だ。気分を落ち着かせようと自分の顔に手をやって、どきりとした。びっしょり濡れているのである。ぞっとする思いで今まで見ていた気がする夢を思い出そうとしたが、断片的な記憶は何の意味も果たさず、ただ茫然とそこにいるしかなかった。夜はまだ明けないようだ。ぴちゃん、と私の中に水滴が落ちる音がした。

葛城
仄の底
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