未来の価値

カウンセリング

 

 糸島富士のふもとに、昨年5月に建設された安部医科大学は9月に開校し、現在、医科大学の東側では付属病院が建設されている。拓也は数学教授として応用数学を一年次の学生に教えている。拓也の体調は勤務する上では問題ないが、心のケアを続けていないと、勃起不全は完治しない。理事長である安部ドクターは拓也のカウンセリングのために、2週間に1回程度東京から糸島にやってくる。拓也にとっては、ドクターは医者というより友達だ。ドクターも拓也の心を癒してあげられるのは自分しかいないと承知している。

 

 拓也はいつものように理事長室にやってきた。拓也は患者として数回カウンセリングを受けているが、本人としてはあまり効果がないと思っている。今日はカウンセリングを受ける前にいつも心の底でくすぶっている疑問をぶつけることにしていた。グリーンのソファーに二人が向かい合って腰掛けると、拓也はゆっくりとドクターに声をかけた。「最近はどういうわけか、気分がよくてね。誰かとしゃべりたい気分だよ」

 

 ピンクのポロシャツにブルーのゴルフズボンのドクターは、両手を頭の後ろで組み後ろへのけぞりながら、笑顔を作り答えた。「オ~それは良かった。少しはカウンセリングの効果が出てきたかな。はるばる、東京からやって来た甲斐があったというものだ。それで、何か話したいことでもあるのかい?」ドクターは頭の後ろに組んでいた両手をほどくと、両手を両膝の上に置いた。

 拓也は黒い手提げ鞄の中から二つ折りの将棋版と駒を取り出した。「今日は気分がいいから、一局やろうと思って持ってきたよ」拓也は将棋版を黒檀のテーブルに広げると箱から駒を取り出した。「さあ、やろう、こんな気分は久しぶりだ」拓也は駒を並べ始めた。ドクターも急いで並べ始めた。「じゃんけんで決めよう、最初はグ~、じゃんけんポン、よし、俺が先手だ」拓也は笑顔を作り7六歩と駒を進めた。

 

 ドクターはしばらく駒を見つめ8四歩と居飛車の戦形を取った。拓也は久しぶりの駒の音に気持ちが高ぶった。次の一手はすでに決まっていたが、ドクターとの会話を楽しみたかった。「ドクター、人間の言語中枢の発達は、遺伝によるものですか?それとも、成長過程における親の教育によるものですか?」拓也は唐突な質問をしたが、ドクターは拓也の心のケアを考えると、軽やかな声での質問を大いに歓迎した。

 

 「その課題は、医学や教育学では必ず取り上げられます。成長過程における親の教育が言語中枢の発達を左右する、と多くの学者が発表しています。確かに、この見解には多くの実験結果の裏づけがあります。しかし、私は言語中枢の発達は親の教育以上に、遺伝が大きく作用していると考えています。確かに、言語は遺伝しません。このことは赤ちゃんが話せないことから、たやすく分かりますよね。ところが、同じ条件の下に学習させても記憶量に個人差が出ます。俗に言う、頭がいい人、悪い人ですね」

 

 ドクターはゆっくりと拓也の理解を確認しながら話した。「僕もドクターの意見と同じなんです。というのも、ドクターのお父様もご兄弟も、T大をご卒業なされています。さらに、親類に多くのT大卒がいらっしゃることは、マスコミで話題になっていましたね。やはり、言語中枢の発達は遺伝だと思います」拓也は言い終えると6八銀とさした。ドクターはじっと駒を見つめ3四歩とさした。

 

 「いろんな分野における科学者の家系を調査すると、そういえる場合が出てきます。確かに、調査の結果、T大生の多くは親もトップクラスの大学を卒業しています。一方では、そうでないT大生もいます。このことは、親の教育によって言語中枢が発達したといえます」拓也は大きく頷くと静かに7七銀と駒を動かした。「天才と言われる人はどうですかね?」拓也は天才に興味を持っていた。

 

 「天才については研究の手がかりがないですね。天才も狂人も突然現れますから。精神病院にも天才がいますよ。私は魔女と呼んでいます。ハハハハ・・・」拓也も少し顔をゆがめて作り笑いをした。「ドクターどうぞ」拓也が勧めるとドクターは即座に6二銀とさした。拓也は目をパチクリさせ、しばらく黙っていたが、質問を続けた。「心についてですが、理性は普遍的なものですか?」

 意表を突いた質問にドクターの目がギョロリと動いた。「人間は将来の夢を抱くとき、あるいは愛する人を守ろうとするとき、理性を必要とします。理性は人間集団が作り上げた、生きていくうえで必要な社会的な自制心です」ドクターが話し終えると拓也は5六歩とさした。「たとえば、もし、自分が明日の5時に必ず死ぬと分かっていたならば、理性は必要ないですか?」拓也は極端な条件設定をした。ドクターは唇の右端を少し引き上げると5四歩とさした。

 

 「それでは、分かりやすく説明します。先生が殺したい人がいます。おそらく、将来の夢があり、愛する人がいる先生は、他人を殺すことはありません。ところが、先生は明日の5時時に必ず死ぬ。そのことが分かっていたならばどうでしょう?先生は明日の5時に必ず死ぬわけですから、将来の夢を持つことができません。また、愛する人もいなかったとします。このとき理性を必要としますか?」ドクターは拓也を見つめた。

 

 「もしかしたら、僕は殺人を決行するかもしれません。恐ろしいことですが」話し終えると拓也は6六銀とさした。「私が言いたいことは、将来の自分のこと、あるいは愛する人のことを考えるときに理性が生まれてくるのです。また、理性は人の集団が作り出すものです。ご存知のように、宗教、道徳、法律は地域によって異なります。したがって、自分の理性が唯一正しいと決めつけると、他人の理性を否定することになります。ここが難しいところです」ドクターは一呼吸おいて8五歩とさした。

 

春日信彦
作家:春日信彦
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