『富士玲子と飯島徹』
月日は全人類と全生物の生死を運ぶ地球のうえに流れていった。
真空でありながら、サイズの異なる物質の飛び交う大空間の中を、地球の属する銀河系も大回転しつつ移動していった。
そのひとつの腕のかなり外側の太陽系も自転公転を幾重にも積もらせながらそれごとまた銀河系と共に疾走回転して、いずこへか進んでいった。
地球の衛星はほんの少しずつ遠ざかりながら、斜めの自転軸をもつ地球にたいして自らの傾きを持った軌道を公転していた。つねに地球に同じ面をむけながら二十八日ほどで一周を終えた。
その間に地球は二十八回自転していた。月の自転は二十八日もかかってやっとくるりとターンが完了する。
地球は三百六十五回も自転しながら公転を一度終える。一年が経つ。
平成二十三年になるまでに宇宙のどこへと銀河系が進行したのか、一体何億トンの星屑を、つまり微粒子をそらから受け取ってきたのか、いくつの生命が形成されたのか、いくつの生命体の中に取り込まれ体の一部となったのか、飯島徹は息子とビールジョッキを前に、とりとめない思考を巡らせながら夜空を仰いでいた。
「パパ」
父親は優しい視線を有理に向けた。「ん?」
「引越し、何とか間に合いそうだね」
「ゆうりにも助けてもらったし、ママの分はもう何もないから一人分だしね」
「ママ、幸せみたいだよ」
「うん、良かったよ、彼は真剣だしね」
「やっぱりね、福島に転職してしまうのはここには居づらいってこともあるんでしょ」
「そりゃね、まあ向こうの研究施設がパパの専門に特化するという絶好の理由もあるし」
「僕は里美ちゃんとこのまま一生過ごす、来週婚姻届を出すから」
親子して生物化学と物理化学を専門に研究する職を選んだのは、いかにも仲のよい二人らしかった。
妻のニーナは日本語に堪能になり、近所付き合いもうまくこなしていたのだが、徹の静かな感情表出に飽き足らなくなっていった。徹の中にニーナとは違うイメージが生きていることにまで気づいてはいなかったし、実際徹にとってそのイメージは幻の破片のようなものにすぎなかった。
昨年の秋に、ニーナが離婚を切り出した。再婚したい相手が隣人であるというのにはさすがに徹も仰天した。しかもその人物は医者の息子なのだが、長い間ひきこもりの生活をしていた詩人だという。収入が無いわけではなく生活はむしろ豊かであるようだったので、彼女が彼を心身ともに支えることに愛情と生きがいをもつのなら自分はそれを受け入れるべきだろうと考えることが出来た。
「パパ、大丈夫か。やっぱり気落ちしてるんじゃ?」
「ああ、大丈夫だ。ママと彼氏と二人分も幸せが増えるんだ。ゆうりたちもそうなんだしね。パパには学問的な使命があるだけで充分だよ。それはそうと、里美ちゃん、つわりはどうだい」
「なんとかまだ仕事してるし、辞める気はまったくないよ。お母さんが近くに引っ越してくるっていうし」
「それは有難いな、なによりだ」
「高齢出産にちかいからね。孫ができるってどうさ」
「嬉しいよ。よくもそんな幸運に恵まれたなと思って」親子はかるくジョッキを合わせた。
徹の意識の中に、愛しい人々、護りたい面影がいくつも浮かんだ。
彼の心のそこにはいつも深い愛情があるのだが、それが利己的なものでないために所有慾にならなかっただけのことだ。ほとんどの人間が好きだった。ある人の欠点はわかっていてもその人が好きだという気持ちを感じるのだ。
「ママには会ったかい」
「うん、少しね。変な気持ち。でもママ、きらきらしていたな」
「そうだろう、幸せになって欲しい」
有理を見送ってから、飯島徹は見るともなく隣人の家の窓の明かりを見た。ふと、自分がニーナではない女性を思い描いていることに気づいた。
富士玲子との連絡方法はずっと持っていた。ときどきメールで時候の挨拶を交わし、おたがいに充実した活動をしていること、子供のことなど報告していた。
離婚のことはまだ書いていなかった。なんとなく、玲子が自由で縛られない、感情に真実の恋愛をしているように以前から感じていた。そうであってほしいとも思っていた。
冬はしばしば日本に滞在している玲子に、徹は少し期待してメールをした。
案の定、ピアニスト兼指導者としてしばらく日本にいる旨の返事が来た。玲子の耳の問題はなんとか克服することができ、その悲劇がかえって人々をひきつけたらしく、そして実際にコンサートで聴いてみると、演奏に誰もが感動を受けるようになっていた。
二月末に東京で小さな演奏会が開かれるということだったので、徹は引越し準備半ばの自宅から電車で会場にでかけた。
富士玲子を遠くからでも見るのは、昔、ドイツ時代以来である。
徹は花束を持っていった。カードに挨拶と携帯の番号も書いた。
演奏は実に人を泣かせた。玲子が情感を過度に表現するからではなく、あまりの音の美しさのために感動して涙が流れるのだ。となりで泣いていた麻子クルトのことを思い出した。
自分の感情も心底から溢れるような感じがした。帰りに、駅まできたとき携帯が鳴った。
お互いが美しく歳をとったことを同時に二人は感じたのだった。老醜はなくそれは円熟であった。最後の輝きであった。
時間がとれるとすぐに電話を掛け合った。すると会いたくなって、会うと話が止まらなくなり、この三十年近い年月のお互いの専門活動や家族のこと、友人のこと、とうとう話し明かしたこともあった。
一緒に福島まででかけ、マンションを借りる手続きに玲子もつきあった。それから自然に手をつないで、歩いた。大学を辞め、心機一転して働くことになっている中程度の薬剤会社がもつ研究所も見せた。
「なんだか心の中が熱くてわくわくするんだよね、僕はあなたのこと好きになったのかも。昔から好きだったのかな」
「あたし、きっと徹さんのこと愛してる。昔からもうそれは始まっていたのよ。縁の無いものだと思って無視していたのね。でもこうして会った。そしたらもう止まらないわ」
「今はじめて会ったとしてもきっと好きになったよ」
「そうだわ、今はじめて会っても愛したわ」
何のためらいもなく、あるとすれば明日の仕事の予定に関してだけだったが、翌日の昼過ぎに新幹線で帰京することにして、ふたりは自然にホテルに入った。
夢のような時間が過ぎた。食事をし、少しシャンパンもたのんでまるで映画のなかのシーンのようである。すれ違う人がなんとなく二人を見返る。それすら楽しかった。
部屋に入ると、すぐに愛し合った。ろくに服も脱がないままひとつになることに夢中だった。それのみを願っている心身があった。ひとつになってから数分のうちに激しく上り詰めた。花火とともに空を舞っているような歓びをふたりとも味わった。と、そのあと告白しあった。「まあ、服を着たままだわ」
「それも珍しいね、これからゆっくりしよう、バスルームを準備するよ」
五十歳になったばかりの玲子は彫像のように完璧で美しい体のままである。年上の徹も長年テニスや陸上と縁が切れなかったので、鍛えられた肉体を保っていた。
バスタブで、ベッドで、夜景を窓から見ながら、二人は静かにあるいは情熱的にお互いを愛し合った。
玲子はそのままで何度も達して声をあげた。徹はそれを感じるだけで射精も無いのに至福の感覚を味わった。まさにそれが脳の技であるのだと思いながら。
『仮の別れ』
三月は多忙である。その後なかなか会えなかった。退職と転居、就職、ひとりで荷物を造り全ての手はずを整えるのはなかなかの仕事である。玲子もいろいろな予定が詰ってきていた。
三月九日に徹は荷物を運送業者に渡した。といっても三月末までしばらく戻ってきて最後の始末をつけなければならないため、身の回りのものと、使い捨てにするつもりのものは残してある。
三月十日に東北新幹線で福島まで行った。マンションに荷物がくるのは翌日だったが、そこに寝ることはまだできないので、その夜は近くのホテルに宿泊した。
玲子に電話してみると、これから南のほうに向かうという。故郷に数日滞在し、関西空港に息子のカルルを迎えに行き、一緒にコンサートの旅に出るので、その後三人で福島か東京で会うようにすることにして電話を切った。
朝一番にマンションの鍵を開けに行く。まもなくトラックがついた。嵐のように段ボール箱が運び込まれ、あらかじめ決めておいた部屋へ番号どおりに積まれていく。荷物は自分であけると言ってあるので、昼過ぎにはすべての搬入が終わる。
次に電気、ガス、水道の家具との接続などが行われるべく、業者の来る予定がつぎつぎと進んでいくはずであった。
大きな衝撃がマンションの五階の部屋に轟く。徹は部屋中を揺さぶられて転がる。そうしながら玲子がいなくてよかったと思う。長い揺れである。次に方向の違う揺れに変わる。
箱のままなのでかえってよかったと思うほど振り回される。やっと外に出たほうがいいかもと気づく。そうすべきではなかったかもしれない。どちらでも同じなのかもしれない。
階段を下りるときはやや静まっている。これで済んでくれるだろうかと思う。
そのマンションがもっとも海に近く、背後には新興住宅地帯が広がっている。
近くの木造の古い住宅は軒並み半壊状態になっている。泣き叫ぶ声があちこちから聞こえる。徹はあたりを見回す。とりあえず走っていって声の主を探そうとする。
玄関からでかかったまま挟まれている女性がいる。徹が彼女を引き出す。まだ誰がいるか、と尋ねる。
背後から轟音が聞こえる。恐ろしく寒い。女性が恐怖に顔をひきつらせる。徹は彼女を慰めようとする。
そのとき轟音が徹を叩いた。信じられない、と思うほどの衝撃と冷たさ、一瞬にして徹の意識が失われる。