「あとで、ちゃんと礼いっときなさい」
「姉ちゃんってそういうとこ律儀だよね」
「そういう風に躾けられたからよ」
そういうものなのか。俺はどうだろう。そういう風に躾けられていたのだろうか。わからない。なにぶん忘れっぽいから。
まぁとりあえず、柚子さんには忘れない内にお礼を言っておこう。
てな訳で、「早く家帰ろうか」っと、俺は自転車のスピードを上げた。
「けーすけ、あんた何時からそんな家が好きになったの?」姉が茶化すように聞いてきた。
「別に昔も今も嫌いじゃないよ」
「そう……」
「でも姉ちゃんだってさ、家事とか、今は楽っしょ。柚子さん、料理も上手いし」
「ねーちゃんは、赤みそより、白みそが好きー。だからねーちゃんは、これからもずっと母さんの味しか我が家の味って認めない」
「まぁ、柚子さん地方の人だし。向こうは赤みそが主流らしいね」
「具もちがーう。わたしは具だくさんがいいの」
「そう? 俺は大根が入ってれば十分」
姉が俺の背中をポカリと殴った。
「ワカメと豆腐も入ってなきゃ駄目なんだって! あと、ニンジン、玉ねぎ、ゴボウでしょ……。母さんのみそ汁ってかなり具だんさんだったからね。わたしもそっくりに作れるわけじゃないんだけど――」
「別に、姉ちゃんが母さんの味をそっくりなぞる事ないでしょ」
上り道に差しかかると同時に、俺は姉の言葉を遮った。
「どうせなぞったところで、俺は母さんの事を思い出す事はないし、俺にとっては我が家のみそ汁は姉ちゃんの味でしかないよ」
ペダルを強くこいだ。重い。
一旦、足をつこうとしたら、後ろが急に軽くなった。
「酔いが覚めた」
自転車から降りた姉が、後ろを押してきた。一気に押すのが楽になった。そのままグイグイ自転車は進んでいく。
ふいに、後ろの力が弱まった。
「ねぇ、けーすけ。……わたしって子ども?」
「俺って姉ちゃんと違って、母さんの事なんてほとんど忘れちゃったし、その分抵抗ないんだよ。だから再婚とか、したきゃすればって感じ」
「けーすけ君は大人だねぇ。まだ子どもなのに」
「姉ちゃんは大人なのにな」
「うん。そだね……。姉ちゃんもう大人なのにね」
背中越しに姉の笑い声が聞こえた。だけどどんな顔をしているかまでは、わからなかった。
家に帰ると、リビングには明かりがついていた。姉が眉間に皺よせながら視線を散らした。柚子さんは自室に戻ったのか、もういなかった。
俺は冷蔵庫に、自転車の鍵を引っかけた。コンロには、小さい鍋が一個残っていた。「二日酔い予防には大根みそ汁!」っと柚子さんの字で書いてあった。
二階の自室に戻ろうとする俺を、姉が「あんたも飲むの」っと言って引きとめた。姉は俺と自分の分のみそ汁をちゃわんによそった。
仕方ないので、俺も付き合うことにした。姉と一緒に御飯を食べるなんて久しぶりだ。姉はちゃわんを、俺と姉が丁度向き合う形で置き、椅子に座った。
「姉ちゃん、そこ俺の席――」
「何よ、二人しかいないのに肩並べて食べたいの?」
別にそれ以上文句は出なかったので、俺も椅子に座った。柚子さんが来るまでずっと使っていた椅子だ。かつての自分の場所はなんだか体にしっくりときた。
俺は真正面に座る姉の顔をじっと観察した。眉間にすごいシワがよっている顔が、みそ汁から俺へと向けられた。
「……何、じろじろ見て」
「いや、なんか姉ちゃんが目の前に座ってるなって」
「嫌味ぃ?」
「事実じゃんか」
俺はみそ汁を飲んだ。
姉も不満気な顔をしながら、みそ汁を飲んだ。ふぅっと姉が短い息を吐いた。気が抜けて、体の内側からぽろっと出てしまったようなそんな声。俺は姉の顔をこっそりとのぞき見た。その顔はさっきよりもずっと緩んでいた。口ではなんと言ってようと、姉の態度はなんとも素直なのだ。
俺は視線を姉の隣へと向けた。何時かその場所から柚子さんにもこの顔を見せてあげたいものだ。そしてあの夢の様に、家族四人でこのテーブルを囲みながら、普通の食事をしてみたい。あの景色をちゃんと見てみたい。そしたら多分、今度は違和感ではなく、もっと違う何かを感じられるかもしれない。
確かに柚子さんのみそ汁は、姉が作る母さんの味とは全然違う。味噌も、具も。だけど、これはこれで、いい。だってこれも、新しい我が家の味なのだから。そう感じた土曜の午前一時だった。