再婚

 育児放棄をされた亜紀であったが、2歳のころまでは母親がよく絵本を読んであげていたらしい。亜紀はそのことをよく憶えていていた。糸島市には「パピルス号」と言う移動図書館がある。亜紀はこのパピルス号がお気に入りで、いつも一度に絵本を10冊以上借りた。休みの日には必ず読んであげた。いないないばあ、じゃあじゃあびりびり、はらぺこあおむし、うさこちゃんとうみ、たべたのだあれ、でんしゃ、ぐりとぐら、わたしのワンピース、どろんこハリー、はじめてのおつかい、からすのパンやさん、キャベツくん、わたしとあそんで、じごくのそうべえ、おへそのあな、とにかく亜紀のために声がかれても頑張って読んであげた。

 

 休みの日には二人でドライブに出かけた。亜紀は車が好きで車に乗っているだけで笑顔が出た。拓也も糸島周辺の観光地に興味があり、とにかく手当たり次第カーナビを頼りに走りまくった。糸島市の白糸の滝、千寿院の滝、芥屋の大門、二見が浦、加也山、笹山公園、姫島、幣の浜、姉子の浜、唐津市の七つ釜、呼子、鏡山、唐津城、佐賀市のどんぐり村、有田陶器市、有田ポーセリングパーク、福岡市のもーもーランド、大濠公園、西公園、舞鶴公園、黒田城、ヤフードーム、亜紀の好奇心に操られて時間が許す限り足を運んだ。

 

 拓也にとってもっとも苦手なことは亜紀との会話であった。5,6歳の女の子といったいどんな話をすればいいか、まったく検討もつかなかった。とりあえず、亜紀の話を頷きながら無心に聞いてあげた。幼稚園の先生の話、友達と遊んだ話、習い事の話、絵本の話、歌手の話、服装の話、ぬいぐるみの話、亜紀の口から出る言葉を一言も逃さないように聞き耳を立てた。二人で暮らし始めて、一ヶ月ぐらいまでは拓也に遠慮がちであったが、次第に打ち解けてきたのか、口数が多くなってきた。拓也はほんの少しほっとした。

 拓也はXJR1300のバイクで天神にある医進ゼミナール予備校まで通勤している。昨年、拓也は姪浜ドライビングスクールで無事自動大型二輪免許を取得した。予備校まで当初はプリウスで通勤したが、渋滞に巻き込まれると通常は約一時間の通勤時間が2時間以上にもなったからだ。バイクだと約50分で予備校に到着した。幸運なことに、今年4月、糸島市にロボット工学医療を取り入れた桂医科大学が5年の建設期間を経てようやく完成する。今年9月が一期生の入学予定だ。ドクターの勧めで、今年9月からは桂医科大学の数学教授として勤務することが決まっている。

 

           勃起不全(ED)

 

 亜紀との暮らしは拓也にとって人生のやり直しのようなものとなった。かつて佳恵の子育てはしたが、うわべだけの薄っぺらなものであったことにつくづく思い知らされた。佳恵の子育てはほとんど律子がやっていたことに改めて気づかされた。今年に入り子育てのストレスはピークに達していた。亜紀との生活は今までに無い新鮮な活力に与えたが、一方、責任感が重くのしかかり心が押しつぶされてしまった。

 

 拓也は誰かに癒してほしかった。亜紀を養子にしたことを何度も悔やんだが、もはや、今となってはどうすることもできなかった。さやかを時々恨んだが、亜紀を養子にすることに最終決断を下したのは拓也自身であった。無我夢中の一年半の子育てであったが、今後の子育てを思うとまったく自信が無かった。亜紀が思春期を迎えるころ、拓也は還暦を迎えることになる。一人の老人が思春期の少女を育てる姿を思い浮かべると、拓也は地獄に落とされる思いであった。

 亜紀を養子にしたことは一大事件をもたらした。あの時はまさかこんな事態を引き起こすとは夢にも思っていなかった。さやかに亜紀のことを依頼されたときは亜紀の不憫さだけが重くのしかかり、自分の将来のことは何も考えず、勢い余って引き受けてしまった。しばらくして気持ちが落ち着くと、突然、瞳の顔が脳裏を占領した。養子の件は、引き受ける前に瞳に相談すべきであったことに気づいた。事後報告になってしまったが、恐る恐る、瞳に養子の件を報告した。

 

 瞳は養子の件を聞けば、「どうして勝手なまねをしたの!」ときっと興奮して怒鳴ると思っていたが、意に反して、まったく冷静に「そう~」と言ったきりだった。拓也はそのときはその意味がよく分からず、電話を切った。昨年の12月に入り子育てのストレスのはけ口を求めて瞳に電話した。拓也は子育ての苦労と今後の不安を訴えた後、瞳に結婚の意志を確かめるべく、嘘の再婚話をした。

 

 「亜紀のことを考えて、今つき合っている彼女と結婚しようと思う」言ったところ、「それはよかったじゃない、拓也が幸せになれるんだったら、大賛成よ!」と明るい言葉で賛同した。青天の霹靂とはこのことで、拓也は驚き以上に地獄に突き落とされた思いであった。今まで何度と無く瞳にプロポーズして、じらされた挙句、とうとう拒絶のパンチを食らってしまった。人生最大の失恋だった。もはや、心は完全に折れてしまった。

 

 亜紀を養子にしたことが、瞳にとってはプロポーズを断る絶好の材料だったに違いないと拓也は悔やんだ。もはや、後の祭りであった。瞳は長く付き合っているパトロンがいた。瞳はそのことを理由にプロポーズを断る勇気が無かった。瞳は拓也のことを長い間想い続け今でも愛していたからだ。悪い女だと思いつつも、瞳は拓也を突き放せなせずにいた。亜紀を養子にしたと聞いたとき、きっといつか結婚を切り出すと瞳は予想していた。予想は的中し、タイミングよくプロポーズを拒絶した。

 

 塗炭の苦しみとも言える失恋は拓也を女性不感症に陥れてしまった。それが肉体的に現れた。勃起不全になってしまった。もはや、拓也にとって女性はどうでもよくなってしまった。失意と共に再婚をあきらめかけた拓也であったが、亜紀の子育てには協力者が不可欠であった。そもそも、亜紀の養子の件はさやかが持ってきた話であった。だから、亜紀の子育てはさやかにも責任があると拓也は考えた。考えれば、考えるほどさやかが憎たらしくなったが、今となってはさやかに頼るしかなかった。

 

 拓也は子育ての悩みをさやかに打ちあけると、さやかは「名案があるわ!」と拓也が電話してくるのを待っていたかのように即座に返事した。さやかはアンナをつれて拓也の家に遊びにやってくることになった。さやかの名案はろくな事ではないと思っては見たが、藁にもすがる思いで首を長くして待った。金曜日、二人は大濠公園駅から地下鉄に乗って筑前前原駅で降りると、駅からタクシーで平原歴史公園に午後2時半に到着した。拓也は4時ごろ帰宅予定のため、二人は平原遺跡を見学しながら今後の活動について話し合うことにした。

春日信彦
作家:春日信彦
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