スラム街の天使

「いや、キムさん、折り入ってのお願いとは、作品のことではないのです。少女のことです」監督はここから先を言う勇気が出てこなかった。「少女のこととは?」キムはキョトンとした顔になった。「実は少女を買いたいのです」監督は勇気を振り絞ってはっきりといった。「買いたい?意味が良く分かりませんが」キムはコールガールのことを、昨夜しゃべってしまったのではないかと恐れた。キムは昨夜お酒によってしゃべったことをまったく憶えていなかった。

 

「彼女、自身を買い取りたいのです。AV女優として使いたいのです。ある方に話していただけないでしょうか?」キムに意味が通じただろうかと不安になったが、とにかくキムに一役買ってもらうことだけを考えた。「スアールを一時的ではなく、と言うことですか?数年の使用期間を定めた契約と言うことですか?」キムは具体的に質問した。監督はどう答えて言いか迷ったが、こう言うしかなかった。「無期限に購入したいのです!少女をAV女優としてこれからずっと使いたいのです。彼女は最高の女優になると思っています。キムさん、お願いです、どうか、先方にお願いしてください」さすがに、キムはびっくりした。

 

キムはしばらく考え込んだ。なぜ、こんなことを監督は突然言い出したのか?昨夜、秘密にしていたことをしゃべってしまったのではないか。もし、大金を払ってでも、監督が少女を本当に買うことができれば少女は救われる。キムもこのチャンスを逃せば少女は地獄に落ちると思った。「はい、分かりました。ある方に話してみますが、私には自信がありません。よろしいですか?」キムも少女を救う手助けをする決意を固めた。

 

10月14日、撮影が始まった。タチはアンナ、ネコがスアール。3パターの撮影が開始された。編集後、もっともクオーリティの高い作品を納品することにいた。①姉(アンナ)と妹(スアール) ②女教師(アンナ)と女生徒(スアール)③女医(アンナ)と患者(スアール)この3パターンの撮影が開始された。スアールは初めての演技でまったく無表情であったが、アンナのリードで順調に撮影は進んだ。

 

10月15日、キムから少女の身請けの返事が来た。売買は可能との返事であったが、金額は5000万円が提示された。これは幸運であったが、思っていた以上に高額であった。監督がAV女優として購入したいと言ったため、マフィアはAVメーカーの利益を考えて大きく提示してきたのだ。監督はいまさら引き下がる気はなかった。早速、コスモムービーの社長に交渉することにした。

 

監督は秘書に約束を取り付けると社長室に飛んでいった。社長は作品のことで相談に来ると思い無理して時間を作った。監督はいつもより深く頭を下げて入室するとソファーにゆっくりと腰掛けた。「まあ、そんなに深刻に考えなくともいいじゃないか。こんな撮影は初めてのことだし、彼女は素人で、しかも、まったく笑顔を作らないときている、しょうがないじゃないか。監督の責任じゃない。先方にはわしからできる限りのことはやったと言い訳しとくよ」社長は監督の心情を推し量った。

 

「は~、思っていた通り、笑顔の無い作品になってしまいました。これを納める以外にありません。後は先方の出方次第です。ところで、他に、お願いがあって参りました。」監督は両膝を閉じて、その上に両手を添えて深く頭を下げた。「いったい、何のまねだ、だから、そんなに深刻にならなくともいいといったじゃないか」社長は頭を下げた監督の左肩をぽんっと叩いた。

 

監督はゆっくり頭を上げると「実は、お願いとは、少女を買い取ってほしいのです。5000万円で」監督は改めて深々と頭を下げた。「ちょ、ちょと、何を言っているのかさっぱり分からん。もっと、分かりやすく説明したまえ」社長は唐突な発言に腰を浮かした。「今言ったとおり、少女を買い取ってほしいのです。AV女優として使いたいのです。お願いします。先方の提示額は5000万円です。高額な金額であることは承知しています。必ず、利益を上げて見せます。お願いいたします」

 

「5000万円!いったい何を考えているんだ。君も承知だろう、今のAV業界の現状を!頭がおかしくなったのか?君ほどの秀才が、なぜ今頃こんな馬鹿げたことを言うんだ。しかも、笑顔一つ作れない素人娘が金になるとでも思っているのか!眼を醒ませ!今日の話は聞かなかったことにする。もう帰りたまえ!」社長は顔を真っ赤にして怒鳴った。監督はじっと耐えていた。ただ、少女を救いたかった。だからといって、同情心だけで救いたいのではなかった。

ヒカルには美学のポリシーがあった。美大で油絵を専攻したいと思った時期もあった。しかし、絵の才能に限界があるのを悟った。だから、監督の道を選んだ。ヒカルは少女を一目見たとき美の衝撃を受けた。彼は自分の美意識を信じたかった。きっとこの少女は世界的大女優になると確信した。確かにこの賭けに失敗すれば、この業界からは追放される。しかも、大きな借金を背負うことにもなる。しかし、ヒカルは決心した。自分の“美学”と心中することを。

 

監督は最後のお願いをすることにした。「確かに笑顔一つ作れない素人です。しかし、5000万円のコストで億の売り上げをして見せます。必ず約束します。万が一、できなかった場合、すべての負債を私が負います。お願いいたします」監督は勢いよく立ち上がると入口の前で直立した。そして、膝を折ると静かに土下座した。社長は一言もいえなかった。しばらく沈黙が続いた。社長は拳骨を作り、腕を振り上げた。その拳骨は禿げた社長の頭に落ちた。

 

「分かった!5000万円用意する。監督を見くびっていた俺が恥ずかしい」社長は監督を立たせると静かに部屋から出て行った。社長はポリシーも夢も失ってしまった自分が情けなかった。監督がうらやましかった。目先の金儲けのことしか考えられなくなってしまった自分が惨めでならなかった。10代の自分の姿がふと思い浮かんだ。オリンピックを目指し無我夢中で泳いでいた少年の姿。

 

春日信彦
作家:春日信彦
スラム街の天使
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