与えられた二直線

次の日、登校する未明の足取りは軽かった。数学のテストの直しが完璧なのもあるが、数学の課題も、星一のおかげで最後まで解くことができた。高校生活のほとんどは、未明の嫌いな勉強でできているようなものだから、それが上手くいくと、学校へ行くのはうんと楽しいものになる。

昇降口でローファーから上履きへ履き替えていると、遠くの三年生の下駄箱にふわふわの髪をした男の子を見つけた。星一だった。でも、未明は何だかぎゅっと胸が苦しくなって、恥ずかしくて、パッと目をそらすと教室へ向かった。

男の子、しかも先輩となんて、未明はまだ仲良く話すことができなかった。周りは、誰を彼氏にしたいとか、どの先輩がかっこいい とか、いわゆる恋バナで盛り上がっている。未明だって、恋バナは楽しい。恋だっていつかはしてみたい。けど、いざ男の子を目の前にすると、意識しすぎてし まって、もじもじしてしまうのだ。

教室までの廊下を歩いていると、ばたばたと足音が追って来て、未明の肩を叩いた。

「おはよう! キミ、これ、落としたよ」

走って来たのは星一だった。手にはなぜか、未明が鞄につけていたはずの黄色のティディベアを持っている。星一に気を取られていて、落としてしまったことに気付かなかった。

「あ、ありがとうございます」

「はい。これ、カワイイね」

「……自分で作ったから、キーホルダーのところが取れちゃったみたいです」

カワイイ、がクマに言われた言葉だとしても、未明の頬はほんのり赤くなる。そんな未明の気も知らず、彼は目を丸くしてティディベアを眺めていた。

「うそ!? これ、自分で作ったの! 本物みたいなのにすごいね。あ、本物って、本物のクマみたいってことじゃなくて、売り物のヌイグルミみたいってことだけど」

星一はティディベアのお腹を押したり、耳をいじったりしている。未明が唯一得意なのは、裁縫と料理だった。それ以外はてんでダメなのだ。特に、勉強。その中でも数学。もちろん、体育だって苦手で、でんぐり返しすらできない。

チラリと見上げる彼は、皆が噂する王子様だ。未明は自分と星一を比べて溜息をついた。

気取ったところのない、何でも得意な王子様。かたや、得意なことは料理と裁縫しかない女の子。まるで自分は、王子様のいるお城に仕えるメイドのようだと、未明は想像して笑ってしまう。

――先輩と私じゃ、全然釣り合わないな。

そう考えて、慌てて首を振る。今、自分は何を考えていたのか? まるで、彼と付き合いたいと思っているような考えをして、未明はドキドキしてしまう。

「先輩、昨日は、数学を教えてくれてありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそ、カップケーキをありがとう。おいしかったです」

深々と頭を下げ合って、星一は微笑んだ。未明は、自分の作ったカップケーキを星一にあげたかったと悔しくなった。自分の作ったお菓子で、おいしいと、微笑んでほしくなった。

「星一! お前、どこ行くの」

星一の友達だろうか、後ろから男の子が彼に声をかけた。

「おはよ、俺、図書館に本を返してくるから、先に行ってて」

「おう、分かった」

見れば、星一は片手に本を何冊も抱えていた。未明は読書も嫌いだ。本を読むなんて、三分で睡魔に負けてしまう。また一つ、彼と違うところを見つけて未明は悲しくなった。

そんな未明の気持ちも知らず、星一はにこにこしている。

「キミ、名前は何ていうの?」

「小泉……未明」

「みめい? どんな字?」

「未来が明けるって書きます」

「小泉八雲の小泉と、小川未明の未明だ。文学的な良い名前だね」

彼は未明に分からないことを言って感心している。誰ですか? と未明は聞けなくて、その変わり、もう知っていることを尋ねた。

「先輩のお名前は?」

「俺は野原星一。野原しんのすけの野原と、星新一から新しいを抜いた名前だよ」

「クレヨンしんちゃん?」

未明が言うと、星一はピースサインをした。

「うん! また、カップケーキよろしくね、おねいさん」

彼はクレヨンしんちゃんの声真似をして、未明へ背中を向けて図書館へ歩き出した。全然似ていない、ただの鼻声だ、未明はおかしく なってクツクツ笑った。彼の背中が恥ずかしく縮こまっているのを見て、また笑って、未明はティディベアをぎゅっと握りしめた。太陽みたいな人だな、と、未明の心まで晴れわたった。

授業中、未明はこっそり携帯電話を開いて、小泉八雲と小川未明と星新一を調べてみた。全部が小説家の名前だった。小泉八雲は日本人ではなく外国の人だったし、小川未明は女だと思っていたら男だった。星新一は、SF作家だった。彼のおかげで、未明は自分の名前が不思議を帯びた気が した。初めて、本を読んでみたいなと思った。

数学もそうだ、嫌いだったものが、星一を通すと好きに変わる。彼の背中は、未明を楽しい世界へ連れて行ってくれる。

「あれ! 今日はお菓子じゃないの!?」

火曜日と水曜日と金曜日、家庭科部は活動しているが、いつもお菓子などの調理をしているわけではない。今日は裁縫の日だった。 皆それぞれミシンをかけたりパッチワークをしたりしている。未明はその時、2つ目のティディベアを作っていた。ピンクのフェルトのパターンをチャコペンで引いて、ハサミで切っているところだった。

落胆した星一たちの声が教室に響いて、未明も思わずがっかりした。小麦粉と砂糖にバター、卵くらいなら冷蔵庫に常備してある。今からでも間に合うのではないか。

「香織先輩、今からカップケーキを作りましょう!」

未明がミシンをかけている先輩の腕を掴むと、彼女は鬱陶しそうに首を振った。

「いやぁよ。何であいつらのためにお菓子を作らなきゃいけないの」

「お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!」

ジャージの男の子が叫ぶと、星一も同じように叫んで笑う。未明は、彼にならイタズラをされてもいいと思った。星一が何か冗談を言うと、周りが和やかになる。突然、香織先輩がミシンを止めて、未明を窓のそばへ引っ張っていった。

「ちょっと、何ですか!?」

「おい、ハラペコいもむしども。このいたいけな後輩に、イタズラできるもんならしてみなさい」

彼女は家庭科部の部長のくせに、男前なのだ。汗くさい男の子たちは、めいめいに顔を見合わせて後ずさった。

「ごめんなさい」

「邪魔してすみませんでした」

「ごめんね、未明ちゃん」

星一に名前を呼ばれて、未明は顔が熱くなるのを感じた。俯く未明を見下ろして、香織先輩は豪快に笑う。

「見て見て、未明ちゃん。王子様がしっぽを巻いて帰ってくよ、意気地がないね」

そう言った先輩の目は、未明の気持ちを見透かして笑っている。お菓子を作ってもいないのに、あたりは何だか甘い匂いがした。

ピンクのティディベアはその日のうちにできあがった。鞄にぶら下がる黄色のティディベアの横に並べた。未明はカップルになったティディベアを眺めて、一人照れた。何だかそこに秘密の恋心が寄り添っている気がして、鼓動が速くなる。

緑と一緒に連れだって校舎を出ると、正門のところへ自転車を止めた、見慣れた星一の姿があった。振り返った彼と目が合って、星一は軽く手を上げた。未明も同じように振り返る。自分の後ろ、ロータリーには誰もいない。今度は緑を見上げた。彼女も同じように未明を見て、それからしたり顔をしてみせた。

「先輩、未明に用事があるんじゃない?」

「えっ、え、私?」

緑は早合点したように、未明の背中を押して、走って帰ってしまった。一人残された未明は、それでも前に進むしかなくて、正門に辿りつく。

「お友達、もしかして帰っちゃった?」

星一のそばへ寄ると、緑の姿はもう見えなくなっていた。頷くと、彼はごめんねと呟いて頭をかいた。五月の夕方は夏を含んでいて、しっとりしていた。水っぽいしいの木の花粉の匂いがする。王子様は黙っていると、普通の高校生に見えた。顔のきれいな、意気地のない男の子だ。それに未明は安心して、黙っている彼に微笑んだ。

「あのさ、未明ちゃんに頼みたい事があって」

彼はようやく口を開いて、いつものように人懐っこい笑みを浮かべた。

――あ、王子様に戻っちゃった。

彼は笑うと、王子様に変身する。

「何ですか?」

「キミ、そのクマのぬいぐるみ、自分で作ったって言ったよね? その作り方を、俺にも教えて欲しいんだ。男が裁縫なんて笑うかもしれないけど、そのクマをあげたい人がいて」

それを聞いて、ぴーん、と未明の頭のてっぺんにあるセンサーが赤いランプを点滅させた。いわゆる女の勘というやつだ。まだまだ子供の自分にも、そんな高精度のセンサーが付いているなんて未明は驚いた。ちょっとだけ照れたように目を伏せる彼が、手作りのティディベアをあげたいと願 う、その相手はきっと彼女だろう。王子様には、お姫様がいる。童話では当たり前のことなのに、すっかり忘れていた。

未明はぐらぐらする心が折れてしまわないように、ぐっと唇を噛んで、それから言った。

「いいですよ。簡単です、クマ、作るの」

「ほんと? ありがとう!」

ぱっと表情が明るくなった星一は、名前の通り星みたいにきらきらしていた。あぁ、と未明は堪えきれなくて、切ない溜め息をついた。

最初から分かっていたことだった。お星様と、未明。まだ明けない自分。炭酸水の泡がしゅわしゅわと消えていくように、恋ははじけて、ただの甘い感情になる。未明はそれを、そっと飲み込んだ。

ティディベアを作るのは、二人とも部活のない木曜日の放課後にした。星一は八月にインターハイに出場するし、生徒会の仕事もあって忙しい。だから週に一回。場所は図書館の隅にあるテーブルだ。そこは四方を哲学書や辞典が詰まった本棚に囲まれていて死角になっている。

未明がそこへ行くと、星一はもう椅子に座っていて、真剣な眼差しを本に落としていた。その口元が幸せそうに緩んでいる。彼は本当に読書が好きなのだ。未明はしばらく彼の姿に見とれて、はっと我に返ると深呼吸をしてそばに寄った。

「星一先輩、こんにちは」

「あ、未明ちゃん。こんにちは」

二人で丁寧に頭を下げる。

「よろしくお願いします、未明先生」

「先生はやめて下さい」

「でも、俺は教えを乞う立場だから……って、おかしいね。キミと話していると、かしこまっちゃうよ」

未明が裁縫セットを広げていると、彼はそう言って笑った。

「緊張すると、上手くしゃべれなくなるの……」

未明は正直に伝えた。星一はきょとんとして、それからぱちぱちとまばたきをした。

「俺に緊張したっていいことないよ、だって、しんちゃんだし」

「……似てない」

「そう、似てない。アハハ、でも、分かるよ。俺も、生徒会で前に立つ時、緊張してすごくおかしな敬語を使ったりするもん。武士みたいとか言われるでござるよ」

星一は誰かを和ますのが上手だった。だから、陸上部で走っている時でも、廊下で見つける時でも、いつも友人に囲まれている。未明に対しても、こうしてやすやすと緊張をほぐしてしまう。

未明も笑顔になって、テーブルの上へ布やフェルトを並べた。

「へぇ、いろんな布があるんだね」

「どんなティディベアがいいですか?」

「うーん、可愛い感じのにしたいな」

「……誰にあげるんですか?」

思い切って尋ねてみると、星一は曖昧な表情で微笑んだ。寂しいような、それでも嬉しいような、マーブルの気持ちが透けて見えている。

「大切に……したい子」

星一はそう言って笑う。大切にしている子、ではなく、したい子。もしかして、星一も誰かに片思いをしているのかもしれない。王子様なのだから、もっと自信を持てばいいのに。未明はそう思うが、口には出せなかった。敵に塩を、ではなく、ライバルにティディベアを贈る、未明の気持ちだって複雑だ。

星一はピンクの花柄の布を選んだ。未明はオレンジのフェルトにする。

「型紙を布の上に置いて、チャコペンで写し取って下さい。あとは切って、縫って、綿を入れるだけです」

「ううん、簡単に言うなぁ」

本当に簡単なのに、と未明は思う。裏返しにした布へ、葉っぱのようなバナナのようなタマゴのような形の型紙をぽんぽんと置いて行く。それをチャコペンでなぞる時、布が寄らないようにピンと手のひらで押さえなければならない。

「ほら、もう俺、この時点で難しい……」

「そうですか? 囲むだけですよ」

星一は未明の2倍の時間をかけて型紙を写し取ると、ゆっくりゆっくりハサミを入れた。一つ一つが慎重で丁寧だった。きっと、彼は何をやるにもその態度なのだろう。だから、基本が身について、何でもできるようになってしまうのだ。

未明は感心して、切り終えた布を立体に組み立ててマチ針を差していく。

「あとは、返し縫いで縫います」

「カエシヌイ?」

「えっと、後戻りのように針を刺す縫い方です」

針へ糸を通し、未明は見本を見せてあげた。じっと見つめる星一の視線がこそばゆくて、指の先が細く震えてしまう。

「こうして、布をすくって……裏から見ると、糸が重なっているのが分かりますか?」

「おぉ、すごい! こうすると、丈夫に縫えるんだね」

「そうです。綿が飛び出てしまうと、可哀相だから」

「内臓が出ちゃう?」

「そうです、スプラッタです」

二人で笑い合って、ちくちくと針を動かした。星一はもともと器用なのか、なかなか綺麗な形に縫えている。

「すごいですね、先輩は、何でも上手にできちゃうんですね。……私とは違って、完璧な人」

未明が溜め息を漏らすと、彼は、王子様と呼ばれた時にみたいに、大げさに首を振った。

「僕なんて全然、完璧じゃないよ」

わざとらしい謙遜でもない、本当にそう思っているような言い方だった。

どんなに素敵に見える人でも、コンプレックスはある。未明だって知っているつもりだ。でも、彼にそれがあるようには思えなかった。思えないからこそ、未明に向ける儚げな笑顔が気になった。

柚鳥百合子
作家:柚鳥百合子
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