星一はティディベア作りのお礼に数学を教えてくれた。
「鋭角の三角比は簡単だよ。三角定規を二枚出して、この直角三角形は角度が30°,60°,90°、45°,45°,90°となっているよね?」
「……はい」
「ん、忘れてるな? 三つの角度が180°になるようにして……」
基礎から教えてくれる星一の授業は分かりやすかった。未明が抱いている数学の苦手意識をなくすように、時々、遊びを取り入れてくれる。白い紙にコンパスと定規で円や線を引く。
「例えば、直線に垂直に二等分される正方形を作図する場合、直線上に中心Oを持つ円、ここが点A、Bとして、弧A-B、B-A……」
そうしてできあがるのはいつも、花のような幾何学模様だった。
「わぁ、刺繍のパターンみたいですね」
「美しいでしょ。こうして見ると、数学も悪くないよね?」
「はい、本当に。何だか楽しいものに思えてきます」
この花模様をパッチワークを縫いつける時に使えば、素敵な作品になるだろうと思いつく。苦手だった数学が、未明の好きなものに姿を変える。星一はコンパスを置くと、ふっと微笑んだ。
「僕も、家庭科は苦手だったんだ。男だし、得意な人の方が珍しいかもしれない。でも、こうして未明ちゃんに教わって、すごく楽しいと思った。コツコツ縫物をするのは、俺に向いているかも。前、未明ちゃんは、俺が何でもできる人って言ったけど、それは、俺がこうやって何でも楽しくできちゃうからだと思う。単純な脳みそなの」
星一は軽く言ったが、それこそが頭の良さなのだと未明は思う。
ティディベアは着々とできあがっていく、未明の気持ちと同じように。
紫陽花が雨に滲んで、溶けていくみたいだった。六月の雨は細かくて、すべてをもやもやとした白い霧に包んでしまう。
未明と星一はこっそりクッキーを食べて、ぼんやりと窓の外を見ていた。
「おいしいね、このクッキー。くるみが入ってる」
それは昨日、家庭科部で作ったものだった。ナッツを生地に練り込んであるから、香ばしい風味がある。今度は自分の作ったお菓子を食べてもらえた。未明はそれだけで嬉しい気持ちになる。
テーブルには、ティディベアのすべてのパーツができあがって散らばっていた。後は綿をぱんぱんに入れた胴体に手足をつけて、ボタンの目をつけて、刺繍をするだけだ。一日もあればできてしまうはずなのに、先週は、ティディベアの耳だけつけた。今日は鼻の刺繍だけした。星一のティ ディベアにはいびつな形の鼻がついたが、それが愛嬌があって可愛かった。次は、くるみボタンを作って、その次の週に取りつけて……未明は、この秘密のティディベア作りを、終わらせたくないのだ。
でも、分からないことが一つだけある。星一も、そう思っているように、ゆっくり作業をしていた。
雨はカーテンのように流れている。ざぁざぁと微かな音が、静かな図書館に響いていて、それと同じくらいの小さい声で星一が言った。
「雨は苦手だな……」
「どうしてですか?」
「どうしてだと思う?」
しかめ面のまま、星一は自分の頭を指差した。小麦色の巻き毛。ゴールデンリトリバーみたいな、愛くるしい髪。
「天然パーマだから、ぼわぼわになるんだ」
「でも、可愛いと思います」
「そう? そうかぁ……じゃあ、いいかな」
いいのだろうか。未明は、そっと星一の髪の毛へ手を伸ばした。つむじのあたりの、自由に跳ねる髪の毛を撫でつける。星一は何も言わなかった。黙って未明を見つめている。黒目がちの大きな目が、物言いたげに揺れる。
「平行線とは……」
星一が言って、未明は数学の問題集に視線を落とした。
「平行線とは、同一平面上で交わることのない二直線であり……」
――私と、星一先輩みたい。
「でも、どちらかが少しでも傾いてしまえば……交わる」
問題文にないことを呟いて、星一は俯いた。ばらばらのティディベアの足をもてあそぶ、その指先を未明は見つめた。
永遠に、ティディベアは完成しなければいいのにと未明は願う。
ばらばらのまま、平行線のまま、いてくれたらいいのにと、星一に傾いている未明は思うのだった。
「あの王子様とはどうなったの?」
部活中ににんじんを切っている時、緑がそう尋ねてきた。今日は夏野菜のカレーを作る。にんじん、なす、ピーマン、たまねぎ、トマト、かぼちゃ。どれも、園芸部から貰ったものだ。
「どうって……どうも」
「うそー、だって、二人でこそこそ会ってるじゃないの」
「知ってたの?」
未明が驚いて言うと、噂になってるよ、と緑は声を潜めた。
「王子様は人気者だから、未明が彼女なんじゃないかって噂してる。どうなの?」
「私じゃないよ。だって、星一先輩には、好きな人がいるみたいだもん」
自分で言って、胸がチクリとした。
未明は数学が嫌いじゃなくなった。裁縫や料理が得意な自分を、初めて好きだと思えた。
星一といると、未明の世界はきれいな色で溢れた。好きなことを点と点で繋いで、円にする、それが広がって、全部が楽しくなる。
星一に恋をしていると、こんなにもわくわくする。でも、星一がティディベアを贈る相手は、未明ではないのだ。それを思うと、心は針でずっとチクチク刺されているみたいに痛くなった。
「その好きな人って、この学校の人?」
「知らない、聞いてない」
「聞きなよぉ」
たまねぎを切って涙目の緑が、がっかりしたように呟いた。
「緑ちゃん、楽しんでるね?」
「人ごとだからね!」
二人で小突き合っていると、窓の外がざわざわし始めた。
「おい……まさか……今日はカレーじゃないか……?」
「何ぃ、カレーだと!? 神の食べ物じゃないか……」
夏を目前にして、もうこんがりと日焼けした男子生徒たちが、窓枠に群がった。
その中に星一の姿を見つけて、未明は心が高鳴った。彼は真っ直ぐ未明を見ている。彼の隣にいた男の子がそれに気付いて笑った。
「よし、星一、またあの子に勉強を教えて、皆のカレーを貰って来い!」
自分の名前を出されて、未明は恥ずかしさに顔が赤くなっていくのを感じた。勉強ができないことを皆の前でからかわれて、逃げ出したくなる。
「無理だよ、だって未明ちゃん、もう数学得意だもん」
星一は男の子に向かってきっぱりそう言って、ね? と、未明へ笑いかけた。
緑が頷いて言う。
「そうだよ、未明、もう数学得意だよ。ミニテストでも良い点とって褒められてたし。だからカレーはあげられません。残念でしたー」
四方八方から落胆の声が飛ぶ。未明は俯いたまま、ぐるぐるとカレー鍋をかきまぜる振りをして、そっと笑った。星一がかばってく れた。もうこの鍋のカレー全部、星一にあげたい。その日のカレーは、おいしかったけど、蕩けるように甘く感じた。かぼちゃが入っているせいだと皆は言っていたけど、自分の気持ちが溶けたせいだと未明は知っていた。
夏休みを目前にして、ティティベアは完成してしまった。座りの悪い、でも花柄がどこか誇らし気な、愛くるしいティディベアになった。
「満腹のネズミみたいな顔じゃない?」
星一がそう言って、ティディベアの顔を押す。確かにそうだと思ったので、未明も笑ってしまった。
これで、終わり。密やかな時間も、ここでおしまい。
「でも、星一先輩が一生懸命作ったから、彼女さんも喜ぶと思います」
未明はつとめて明るく言うと、星一はいきなり慌てだした。
「彼女!?」
大きな声で、未明の方が驚いてしまう。
「ち、違うんですか?」
「え、彼女じゃないし、彼女いないし……俺、このクマを、妹にあげるつもりだったんだけど……」
「そうなんですか!?」
今度は未明が大きな声を上げる番だった。勘違いだった、それで、みるみる未明は元気になってしまった。だから、星一の表情が曇っているのに気付いて、首を傾げる。
「俺に、彼女がいると思ってた?」
「はい。だって、星一先輩は王子様で、人気もあって、だから……」
尻すぼみになっていく言葉を口の中で捏ねていると、星一は拗ねるように唇を尖らせた。なぜか耳のフチが赤くなっている。
「いないよ、彼女なんていない」
はっきりと星一はそう言った。それから何となく気まずい空気のまま、未明は星一のティディベアを綺麗にラッピングしてあげた。最後に、ピンクのリボンを結ぶ。
「ありがとう」
「いえ、私も、数学を教えて貰ったから……」
あぁ、終わりがきてしまった。目の奥がツンとして、涙の気配に焦ってしまう。
「……俺の妹ね、」
唐突に、星一が言った。
「本当の妹じゃないんだよ。父親の再婚相手の子供なんだ。まだ五歳で、今年の春から一緒に住み始めたんだけど、恥ずかしがりやで、全然仲良くないんだ」
彼はそう言って、哀し気に目を伏せる。
「俺も学校と部活で忙しいから、全然話してくれなくなっちゃって……。せっかく家族になったのに、それじゃ寂しいよね。ずっ と、仲良くなるきっかけを探していて、ふと、キミの鞄についてたクマを見て、これをあげたいって思ったんだ。何だろう、とても優しい顔をしているように見えたから……」
それから星一は、視線を上げる。どこまでも深く澄んだ瞳が、未明を映している。
「俺は、キミが言うように、全然、完璧なんかじゃないんだよ。上手くいかないことでウジウジ悩んでるような人間だよ」
「ウジウジ悩んでなんて、いないじゃないですか。先輩は、こうして妹さんの為にティディベアを作って、妹さんのことを優しく、真剣に考えてます。星一先輩はいつも前向きで、そういうところが、私は……」
――私は。
未明はそこで言葉を切って、星一を見つめた。どうしても言えない言葉が、喉の奥で引っかかっている。星一は未明の言葉を待っていたけれど、黙ったままでいると、彼はふっと口元を緩ませた。
「ありがとう。未明ちゃんは、自分のことをダメだって言うけれど、俺は一度も思ったことがない。最初に、キミを見た時から、素敵だなって思ったよ」
「そうやって、言ってくれる星一先輩が、いちばん素敵です」
公式があればいいのに、と未明は思う。恋が上手くいく公式だ。きっと、それがあれば解ける。でも、ないことをちゃんと知っている、だから、悲しい。