「おそかったね」
まちくたびれたように金髪にブルーの瞳の奴が、大きなあくびをした。
「どうしてこんなこと」
「ひどいな、ひさしぶりに会えたのに」
「新藤さんは」
「心配ないよ、彼女ならそこにいる」
指さす先に、窓にはめ込まれた無数の鏡があった。鏡の一枚に、由紀が何か叫ぶように口を開き閉じ込められていた。
「新藤さん」
「聞こえないよ」
奴が笑う。眠り病が学校に蔓延したのは僕のせいなのか。他人と異なることを恐れ、僕は奴を迷宮に閉じ込めた。その結果、閉じ込められた奴が暴走してこんな事態を引き起こしてしまった。
「君は僕だからわかるだろ」
「何が?」
「学校の生徒全員をここに招待する、ありのままの僕を知ってもらう。もう髪や目の色を気にする必要はない。うれしいだろう」
拳が震え、こみあげてくる怒りを抑えきれなくなっていた。
「怒るなよ、君が望んだことだろう」
「ふざけるな」
叫ぶと僕は、奴につかみかかった。しかし、下半身がいうことをきかない。両足が床に根をはり、身動きが取れなくなっていた。
「もうすぐ、君もここの生徒になる。心配しないで、後は僕がうまくやる」
反撃することもできず固まっていく。自業自得、当然の報いだった。己を偽り、他人に見せたくない姿を閉じ込めた。眠り病を蔓延させた罰を受けなければならない。
「さよなら」
奴が教室を出ていく。
僕に力なんかない。小さい頃からわかっていた。いくら探しても、探しても見つからなかった。他の人と異なるのは髪の毛と目の色、それさえ隠して生きてきた。何の力も持たない平凡な人間だった。それなのにラビリンスに迷いこんでしまったのが運のつき、魔術書も意味をなさない。そもそも読めやしないのだから……僕の全身は完全に石化した。
どこからともなく携帯の着信音が聞こえる。どういうことだろう。石になっても五感は機能していた。
「もしもし、圭介」
石化で動けないはずの僕に、携帯音声が飛び込む。
「誰?」
「わ・た・し」
声は知っている。抑揚が異なり、戸惑ってしまったが、間違いない。
「新藤さん」
「半分正解」
半分正解とはどういう意味、新藤さんは鏡に閉じ込められているはず。
「新藤部長でしょ」
失っていた記憶のピースが蘇り、ものすごいスピードで齟齬(そご)が解消され、あるべき姿に組みかえられていく。
僕は魔術書などもっていない。魔術書は部長の持ち物だから。
僕には、何の力もない。でも、部長は魔法を扱う能力がある。
誰の恋愛に対しても一生懸命で、部員を決して見捨てない人。
「目を覚ましなさい圭介!」
いわれなくても起きる。目覚ましなどいらない。僕の体内時計は正確だ。両目を開く。鏡が一瞬で吹き飛んだ。躰は自由だ。飛び散る破片をくぐり抜け、机を飛び越え、僕は迷わず窓から校庭にダイブした。落下しながら由紀を捜す。後から懐かしい声がした。
「やっと起きた。待ちくたびれた」
背中合わせのまま重力を操り、僕と部長が二階の窓から奴のいる校庭に下降していく。らせん状に回転しながら時間をかけ、パステルカラーに包み込まれる。春のように暖かく、どこまでも優しい世界が続いていた。
「どうして、なぜうごける」
地上に立つ僕を見て、奴が後ずさりしていく。
「ここは僕の夢でもあるから」
「くるな」
脅える奴を捕まえる。
恐怖で歪んでゆく顔、震える頬に手を当てていた。蒼い瞳には、僕の姿が映り込んでいる。
「大丈夫、もう閉じ込めたりしない。君は僕だから……」
真っ白い光に包まれ、もうひとりの僕が一体化してくる。失していたものを僕は取り戻した。
「圭介、あとで」
背後で部長の気配が消えてゆく。
振り向くと部長の姿は無く、幾千ものパステルカラーの粒たちが空を目指していた。それはまるで溶けることを知らない雪がゆっくり昇っていく光景。
僕は黙って雪(由紀)を見送った。