そして、今度は樫原が自分のいた未来の世界について話し始めた。
人間はいつしか神の領域とよばれるその一歩手前まで文明が発展していたこと。
しかし力を持ちすぎたために、人はみな己しか信じなくなり、いつしかそれは肥大し、世界中で戦争が起こったこと。
そして樫原は、軍人であったこと。
「じゃあ、あの場所は」
「・・・あそこはもう何年も前から人がいなかった。人だけじゃない、生き物すらいないんだ」
これが僕の住んでいる世界だ。と樫原は言った。
「旅行に来たのは、嘘なんだろ」
「うん。でも調査は本当だ」
ずっと昔の世界はこんなにも美しいものだったんだと、忘れないために調査しているんだ。
・・・それも半分は嘘なんだろうな。
その柔らかな表情に、樫原が今にでも未来に帰ってしまいそうな気がしてならなかった。
「お前さ、こっちに来てから変ったよな」
この何十日間、一緒に過ごしてきて思ったことだった。あの夢の樫原と同一人物とは思えないくらい、今の彼は表情豊かだった。
「・・・そうだね、でもそうなれたのは瀬戸がいてくれたからだよ」
樫原は瀬戸の両手を握って言った。
「こっちにきて、本当に楽しかった。自分の元いた世界が霞むくらい」
「止めろよ、お前まるでもうこの世界からいなくなるみたいなこと、」
瀬戸、聞いてと樫原が握る手に力を込めてくる。
「僕は、明日元いた世界に帰る」
まっすぐに見つめてくるその眼に迷いはなかった。
それが無性に腹立たしくて、苦しかった。
「・・・むかつく」
なんだよ、と強く言い放ったはずなのに、声は擦れ、視界がぶれてくる。鼻の奥がつん、として痛い。
けれどここで泣きたくはなかった。
だから、瀬戸は自分の顔を隠すため、樫原の肩に額をうずめた。
「・・・また来いよ」
「うん。必ず」
それは、果されるかもわからない儚い約束だった。
樫原が元の世界に戻る当日。
朝練を終えて、教室に戻る途中、樫原のいる教室の前に女子が群がっていたのが見えた。
「さっすがモテル男は違うねぇー、はぁー俺も一度でいいから女に群がられてぇ」
と隣で同じくその光景を見ていた友人がくだらないことを言っているが瀬戸は無視した。
・・・転校することになってんのか
コウくん行かないでーっ!と悲痛な声で女子たちが騒いでいる音が廊下まで響いてくる。
「今度はアメリカだってよー」
と投げやりに話す友人の声がやけに遠くで聞こえたような気がした。
結局、瀬戸は昼休みも、別れの時も樫原と会うことはなかった。
昼休みは樫原が女子生徒の軍勢につかまっていたので不可抗力だったが、樫原が元の世界に戻る時に立ち会わなかったのは瀬戸自身の意志だった。
別れのあいさつみたいなものは昨日したし、というのは完全な言い訳で。
正直、耐えられるかわからなかったからだ。あんな世界に樫原がいたと知った上で黙って見送れるはずがなかった。
きっと、引き留めてしまうだろうから。
だから、直接見送ることは止めた。
午後七時。瀬戸は旧校舎が見える屋上で、樫原を見送ることにした。
科学室のほうをじっと見つめる。
今、樫原はどんな気持ちでいるのか瀬戸は気になった。
見送りに行かなかったこと怒りはしないだろうけど、少しくらい寂しいと思ってくれているだろうか。
なんだか女々しいな、と瀬戸は苦笑する。
「気をつけてな」
そう呟くと、それに応えるかのように科学室から一瞬青い閃光が現れ、消えた。
樫原がこの世界からいなくなって、数日後。
瀬戸は旧校舎の科学室の前に立っていた。
時刻は午後七時を指している。もう、以前のように時計のはりも床も歪みだしたりはしない。
そして、あの夢も見ることはなかった。
「ここまで、なんもないと樫原がいたことも夢だったんじゃねーかって思うな」
そう独りごちて、科学室の扉を開ける。
古びた教室。青い光を発するヘンテコな機械はそこになく、あるのはぼろぼろのリクライニングチェアとその背後に誰が持ってきたのか、やたらと大きなプラネタリウムの装置が置かれているだけだった。
「あいつのタイムマシンにちょっと似てるな」
ふ、と苦笑して椅子が置いてある場所に近づいた。
「ん?」
椅子の上に白い紙が半分に折りたたまれていた。
なんだこれ、とそれををつまみあげる。
開くと、それは樫原が瀬戸にあてた手紙だった。
瀬戸恭介さま
結局見送りには来てくれませんでしたね。
正直、腹が立っています。なんてそれは冗談ですが、寂しいとは思っています。
あまり時間がないので簡潔に書きますね。
数十日間、それも昼休みの時間と昨日の放課後だけと決して長いとはいえない時間だったけれど、僕はとても楽しかった。
君が言った通り僕が変わったとすればそれはやはり君のおかげだと思う。
あんなにたくさん誰かと話したのは、本当に久しぶりだった。
約束はいつ果たせるかまだわからないけれど必ずまた会いに行くよ。
その時は、君の作ったおにぎりが食べたいです。
ありがとう。
樫原コウより
「キザなやつ」
しょうがねぇな、と樫原は笑う。
たった数十日間。そのうち樫原と一緒にいた時間はもっと短い。
それなのに、いつのまにか彼は瀬戸の心の隅に棲みついていた。
友達とも家族とも違う。遠くて近い。瀬戸にとって樫原はそういう存在になっていた。
あいつ、俺に未来の力でなんかしたんじゃないかと疑ってしまうほど。
窓の外を見ると、日は沈み切り、夜が顔を出していた。
「しょうがないから、お前が戻ってきたらまた作ってやるよ」
誰に聞かせるわけでもなく、ただ窓の外を眺めながら、瀬戸はそう呟いた。
それから、一年。瀬戸は高校を卒業し、地元の大学に通う大学生になった。
あの不思議な出来事から、時間が過ぎ去っていくうちに記憶が揺らいでかすんでいくのを感じていた。
最初はなんとか覚えていようと、紙に書きだした。しかし、書こうとするたび、風のようにすり抜けていき、
結局本当になにもかも忘れそうになったので、止めた。
時が過ぎ去るままにしようと、思ったのだ。
またいつかそのときがきたら思い出せる、そう思い日々を過ごした。
樫原が瀬戸にあてた手紙も確かに机の引き出しにしまったはずなのに、消えていた。
そして―・・・その思い出は記憶の深い所に隠されてしまったようだ。瀬戸が卒業するころ、もう何も思い出せなかった。