産婦人科医の悲劇

 原発反対派の団体は彼女の行為を英雄扱いし、各地での原発反対運動においては彼女の行為を正当化する発言が頻繁に行われた。さらに、この事件は世界中の原発反対運動に拍車をかけた。彼女の刺傷行為は原発反対の社会現象の一つとしてマスコミは捉え、今後このような犯罪行為が世界中で起きるかのような報道までテレビ、新聞でなされた。

 

 多くの人々はこの事件を原発反対派の事件として捉えたが、心理学者と小説家の中には「殺意」に感心を持ち、女子大生の殺意を題材に様々なフィクションが発表された。ある心理学者は、殺意は個人的な憎しみから生まれるものであり、社会的正義心からは生まれるものではないとの仮説から、彼女の殺意は原発への憎しみからではなく、何らかの被害者への個人的憎しみから生じたものではないかとの意見を述べた。

 

殺意に隠された謎

 

 刺傷事件後、仕事に身が入らないコロンダ君は今日も書斎でぼんやりと夢子のことを考えていた。当然、夢子の「殺意」についてである。いつものようにお菊さんがお茶を運んでやってきた。部屋に入ってきたお菊さんは椅子に腰かけると夢子事件の話を始めた。「今の若い子はカッとなると何をしでかすか、恐ろしいったらありゃしない、夢子は歴史に残る英雄にでもなりたかったのかしら?」独り言のように窓に向かってつぶやいた。

 

 コロンダ君は夢子のことを考えるたびに胃がムカムカして、お茶を飲む気も起きなかった。「お菊さん、夢子の殺意についてどう思う?」夢子の殺意は原発と関係があるのかコロンダ君は疑問に思っていた。「本人が言うように原発が憎かったんじゃないですか、だから、カッとなって、ぶすりとやったんでしょう」お菊も夢子の自白を真に受けている。「ところが、そうとも言えないようなんだよ。事件があって、3日後にいとこの笙ちゃんから電話があってね、まったく信じられないって言っているんだよ」コロンダ君は笙子の話を聞いてから夢子への謎が深まった。

 

 「笙ちゃんの電話って?聞かせてくださいな、もったいぶらずに」詮索好きのお菊の好奇心が頭をもたげた。「いやね、笙ちゃんは夢子と高校時代の同級生で彼女のことをよく知っているんだ。笙ちゃんはギター、夢子はバイオリンをやっていて、二人で一緒に練習もやっていたそうだよ。夢子は音楽の話はよくしたが、社会問題、特に原発について、一度も口にしたことは無かったそうだよ。もし、原発に反感を持っていたなら、笙ちゃんの意見を聞いていたんじゃないかと、思うんだが」笙子から聞いた話のポイントを厚化粧のお菊の顔を見つめて話した。

 

 「へ~、なんだか、変な話ですね、夢子は法学部でしたね、だったら、原発に関心があったはずじゃないですか?女はファッション、芸能人、グルメ、クラスメートの悪口とか、くだらない話はよくだべるけど、社会問題について友達とは話さないものですよ、坊ちゃん」お菊は女性にめっぽう弱いコロンダ君にガールズトークを教えた。

「なるほど、そうですか。それと、高2の秋頃から夢子は猛烈に受験勉強をするようになったそうだよ。どうしても、T大に行かなければならないと言って、バイオリンの練習も一緒にしなくなったそうなんだ。今まで、バイオリニストになる夢を話していた夢子が、急にT大合格に夢を変更したんだ。行かなければならないって、どういうことだろう?」コロンダ君はさらなる疑問をお菊にぶつけた。

 

 「ご両親に発破をかけられたんじゃないですか?坊ちゃん、こちらにお越しくださいな。お茶が冷えますよ」お菊はお茶に眼をやった。「ところがね、笙ちゃんは夢子のご両親とも何度か話をしたことがあって、夢子には音楽の道に進んでほしい、とご両親は言っておられたそうだよ。むしろ、ヨーロッパの音楽大学に留学してほしいようなことを言っておられたそうだよ」コロンダ君はテーブルに着くと一切れのようかんを口に押し込んだ。

 

 「それは、奇妙ですね、若い子の考えることは年寄りにはわかりませんよ。本人が言っていることが正しいんだから、坊ちゃんが悩むような事件じゃありませんよ」お菊もようかんを口に押し込んだ。「ここだけの話だけど、いつもの新聞記者から情報を買ったんだけどね、20年前に、ご両親は台東区から福岡の中央区に移っているんだ。つまり、20年前、台東区で産婦人科医院を開業していたということだよ。なんと、八神教授も当時台東区に住んでいたんだよ。

 

特に、これは極秘だよ、八神夫人は30歳のとき子宮ガンで子宮を摘出したらしいんだ。ところがだよ、現在、夫人は53歳だから、夢子の年齢から逆算すると、33歳の時に夢子を産んだことになる。驚くことに、夫人は子宮が無いのに子供を産んだことになる。まあ、こんなことは無いから、夢子は養子と言うことだよ。このことは警察も知らないと思うよ」コロンダ君はドヤ顔になってきた。

 

 「養子と刺傷事件とは関係ないと思いますけどね?」大きな眼をギョロッとさせてお茶を流し込んだ。「八神教授のことだけどね、19年前に夫人をなくしておられるんだ。それも、自殺と言うことらしい。自殺した横山夫妻、養子の夢子、19年前に自殺した八神夫人、被害者の八神光三、なんだか、頭が痛くなってきたよ」コロンダ君は横山家、夢子、八神家に何か隠された秘密があるようにぼんやりと思えた。

 

 「坊ちゃんは夢子の秘密に興味がおありみたいですが、殺意は本人が自白したわけでしょ、どうにもならないんじゃないですか?普通だったら、殺意があっても、自分から殺意があったとは言わないものですよ。カッとなって刺しました、とか、殺す気はありませんでした、とか、私だったら言いますけどね。学業は秀才であっても、かなり、お馬鹿な女ってことですよ」お菊はあきれた顔でコロンダ君を見つめた。「そうだよ!その通りなんだ、なぜ、秀才の彼女がそんな馬鹿なことを自白したかだよ。なんだか、夢子のことを考えると眠れないんだよ」コロンダ君は沈んだ眼でお茶をすすった。

 

春日信彦
作家:春日信彦
産婦人科医の悲劇
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