谷崎潤一郎の密かな禁欲

谷崎潤一郎の密かな禁欲140の有料書籍です。
書籍を購入することで全てのページを読めるようになります。
谷崎潤一郎の密かな禁欲を購入

【2】( 1 / 2 )

【2】

思っていたかもしれません。というのも、女性という存在に対して、憧れを持ちつつも、近づきたくない、近づくのはよそうとする主人公を書いた谷崎作品があるからです。

新潮文庫刊行「刺青・秘密」の中におさめられている「二人の稚児」(大正7年)がその物語です。ストーリーは:

 

千手丸と瑠璃光丸は、女人禁制の比叡山の上人のもとに預けられて将来は仏道に入ることになっている稚児であった。千手丸が2歳の年長である。二人は上人から「お前達はよくよく仕合せな身の上だと思わねばなりませんぞ。人間が親を恋い慕ったり、故郷に憧れたりするのは、みな浅ましい煩悩の所行であるのに、山より外の世間を見ず、親も持たないお前達は、煩悩の苦しみを知らずに生きてこられたのだ」と諭され、将来は必ず尊い出家になれることを楽しみにしていた。

 

明記されていませんが、時代は平安朝と思われます。上人が「浮き世」を説明する

「あの、尾上の雲を見るが良い、遠くから見ると雪のように清浄で、銀のようにきらきらと輝いて居るが、あの雲の中へ入ってみると、雪でもなく銀でもなく

【2】( 2 / 2 )

 く、濛々とした雲ばかりである。お前達は、この山の谷底から沸き上がる雲の中に包まれた覚えがあろう。浮き世はその雲と同じことだ。」(註2)との台詞が、なんとも谷崎文学だと思わされます。快い音調と、古典由来のボキャブラリー。実際、谷崎作品を読む喜びは、こういった詩のごとくの散文、そして念入りに選ばれた語、文の繋がりから連想される絢爛たるイメージを頭の中で読者が展開させることにあるのです。瑠璃丸と千手丸の台詞もふるってます。

 

瑠璃光丸「麿がこの山に登ったのは、三つの歳であったそうだが、そなたは四つになるまで在家に居たと云うではないか。そんなら少しは浮き世の様子を覚えて居ても良さそうなものだ。他の女人は兎に角として、母者人の姿なりと、頭に残っては居ないか知らん」

千手丸「まろは時々、母者人の俤を思い出そうと努めてみるが、もうちっとで思い出せそうになりながら、うすい帳に隔てられて居るようで、懊れったい心地がする。まろの頭にぼんやり残って居るものは、生暖かいふところに垂れて居た乳房の舌ざわりと、甘ったるい乳の香りばかりだ。女人の胸には、男の体に備わって居ない、ふっくらとふくらんだ、豊かな乳房があることだけはたしからしい。ただそれだけがおりおりおもい出されるけれども、それから先は、まるきり想像の及ばない、前世の出来事のようにぼやけて居る……」

 

さて、この筋から推測されますように、千手丸の方がまず、浮き世と女人への好奇心を抑えられずに、山を下りてしまうのです。

 

そして瑠璃光丸は取り残されるのですが、上人を始め、大人は、残った瑠璃光丸の信仰の強さを「さすがに殿上人の血筋」とほめるのです。そこで瑠璃光丸は、そうか、わたしは彼とは違って高徳の聖になるべき人間なんだ…と、子供のくせにえらい優越感をもってしまうという鼻持ちならないところを見せるのですが。ここまでは「起承転結」の「承」です。

 

「転」は何が起こるかと申しますと、世俗の人となった千手丸から、瑠璃光丸に当てて文が来るのです。その文には、人買いにさらわれて恐ろしい目に遭ったこと、しかし、現在は深草の長者の娘婿となり、何不自由なく暮らしていること…が綴られており、そして「浮き世は恐ろしいところではなく、女人は世

【3】( 1 / 2 )

世にも優しく美しく香しいもの。とくとく、山を下りたまえ」と瑠璃光丸を強く誘っているのでした。

 

【3】

ここまで書くとお気がつかれたでしょうが、この二人の稚児は、作者谷崎の自己分割の試みなのですね。一方の自分は、浮き世に溢れる美と快楽と妖しい歓楽を貪りたいとの欲求にあふれ、もう一方の自分は、そんな自分を嫌悪と反省との念でもてあましている。谷崎は、この自己分割というか、自己対立を「金色の死」(大正3年)や、「友田と松永の話」(大正10年)で試みています。前者は、文学、文章藝術の可能性を捨てない作家と、「想像の余地のない、アーク燈の光で射られるような激しい美感」を求める岡村との織りなすドラマで、後者は、一人の人間の中に、西洋的な美の華麗さと豪壮さに憧れ、西洋人になりたいと焦がれる人格と、その反対に、渋く静謐な、日本家屋に見られる「光と影」を愛する人格とが、交互にあらわれるという、なかなかこれは、多重人格を先取りしたようなお話であると同時に、かのエッセイ「陰影礼賛」で表明されている美学の曙光がほの見えるのです。

谷崎と言う美の愛好者が、同じ「美」とされるものでも、正反対の傾向にあるもの双方を愛好する気質であったのかも…とそんなことを思わされます。彼にとって、「美」の基準は1つではなかった。(年をとってからは違いますが)

 

「二人の稚児」に戻ります。

瑠璃光丸は、浮き世の悦楽、女人との遊びを満喫しているらしい千手丸の熱烈な誘いに、激しく迷います。そのように楽しい世界に下りて行くのが、なぜ悟道の妨げになるのか? 何故上人は、その世界から自分たちを遠ざけようとするのであろうか?

 

彼は誘惑に打ち克とうとする前に、打ち克たなければならない理由を知りたかった。彼はほの暗い燈火のかげに文を繰り広げて、幾度も読み返しながら、一と晩中、まんじりともせずに考え明かした。自分の智識、自分の理解力のあらゆる範囲から、手紙の事実を否認するに足るだけの、何らかの拠りどころを掴み出そうと藻掻いても見た。我ながらけなげであると思われるほど、良心の声に耳を傾け仏の救いを求めても見た。そうして結局、彼が最後の決心を躊躇させて
谷崎潤一郎の密かな禁欲140の有料書籍です。
書籍を購入することで全てのページを読めるようになります。
谷崎潤一郎の密かな禁欲を購入
深良マユミ
谷崎潤一郎の密かな禁欲
0
  • 140円
  • 購入

2 / 7