式子内親王

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【序文にかえて】( 2 / 4 )

もちろん、どの歌が良い、この歌はちょっと、との比較は所詮は個人の好みの問題かもしれないが。ちなみに「俊成卿女」の現代まで伝わっている歌は百八十四首で、式子の三百七十余首には及ばない。

 

「いま桜…」の歌に次いで惹かれるのは、この一首。これは春ではなく、夏の一こまだ。

 

夕立の雲もとまらぬ夏の日の かたぶく山にひぐらしのこえ

 

…夕立が過ぎてその雲さえもとどまらない夏の日よ、その夏の陽が傾く山に、さらに日暮れを急がせるように、ひぐらしの声がすることよ…

 

ただそれだけの叙述なのに、読む人の胸に強烈な残像を残す。

見る間に、まるで生あるものであるかのように自在に形を変える入道雲。その色彩もまた、陽の移り変わりによって淡くなり、濃くなりまさる。そのダイナミズムを見つめつつ、作者の耳は同時にひぐらしの声を浴びる。あるいは高く、あるいは低くなる鳴き声は、短い命とも知らずに、何に突き動かされているかも知らずに、日が落ちるまで唱い続けるのだ。

 

この二首は叙景歌だが、式子の叙情歌は屈折と憂鬱に彩られ、時に絶望に似た激した感情が立ち上がる。

 

日に千度(ちたび)心は谷に投げ果てて あるにもあらず過ぐる我身は

 

…世を憂しと思いつつ、一日に千回も死んでしまいたい、身投げしてしまいたいと心に思い、その心さえ投げ捨てて、何の気力もなくなってぬけがらとなりながらも、生きている我が身であることよ…

 

「春に霞める世の景色」を愛でて、ふんわりと微笑む女人はまた、この世の全てを憂しものと嘆き悲しみ、「生きているのもこれまで」と死を思う絶望者でもあった。

【序文にかえて】( 3 / 4 )

式子の歌は、浪漫たる流麗な叙景歌も、無常をひたすら噛み締めている歌も、断崖絶壁にて谷底を見ているような切羽詰まった片思いの歌も、どれもが貴人らしい格調で人を魅惑する。その文章表現は、卑しさ、単調さ、俗さ、凡庸さと言う形容から最も遠い世界と言える。

 

式子は、こうした歌を、机に向かって筆を握り、一語ずつを慎重に選びながら陸奥紙に書き記していったのだろうか。あるいは、いつ果てるともないひぐらしの声の降る中に、御簾のうちにて、自然とその赤い唇から朗詠のごとくに流れ出てきたのだろうか。そして、あるいはこうもつぶやいたか。

 

「わたくしは、何ゆえに、これほどまでに歌を詠み続けるのでしょうか? 」

 

歌を詠むこと、それは表現欲求と言い換えることが出来る。そして、彼女の近親者にもまた、飽くなき表現欲求を全開にして生き抜いた人間がいた。後白河院。

彼の父である鳥羽院は管弦を好んで自ら笛を吹いたが、後白河院の今様好きは、母、待賢門院ゆずりだった(「後白河院 王の歌」五味文彦著 山川出版社刊 より)。今様は、当時は庶民の謡う流行歌であったから、「天皇たる者が卑賤な芸能にうつつを抜かすとは」と顰蹙を買っていたらしい。にもかかわらず、「梁塵秘伝口伝集」を編纂して喜んでいる。

 

後白河院は、上は公卿から下は遊女や傀儡子に至るまで、今様を通じて交流していた。また、慈円の「愚管抄」によると、行を積んで法華経を読む持経者となり、舞、猿楽にも熱中したらしい。恐らく彼の中には、好奇心や感興、阿弥陀仏への渇仰、美しいものへの執着などがあまりにも溢れていたので、それを表出するには一つの芸事では足りなかったに違いない。

 

式子は、その後白河院の娘なのである。父後白河院の、言葉への愛着と鋭敏さと記憶力は、娘である式子には、歌を生み出すと言う形で受け継がれたのだろう。

 

式子には恋愛も結婚も許されていなかった(註1)。だから、これほどまでに
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