記号の呪縛
すでに記号についてなんどか述べましたが、改めて記号について考えてみたいと思います。地球上には、多くの国家があります。国家と言えば、第一に、国民の労働による経済が考えられます。また、各国の言語による法律とそれによる国家統制も考えられるでしょう。こう言う点から考えると、 人間の心が国家を成立させているように感じ取られます。確かに、家族の核となる夫婦を考えてみると、お互いの心が、共生していくという夫婦の絆を作り出していると言えます。
ところが、人間集団が巨大化するにしたがって、マネーシステムの機能が強大になっていくのです。すでに述べましたように、お金というものは記号なのです。だから、マネーシステムは、記号システムということになります。私たちは、いつの間にかマネーシステムに組み込まれ、本来生まれながらに持ち合わせているお互いに生きていくという魂が、それによってかき消されてしまっているのです。
好き嫌いによる小さな喧嘩を見れば、個人間の感情的な争いとしてとらえられますが、国家間の戦争ともなれば、単なる感情的なものとは言えません。現実の戦争は、人間がマネーシステムによってコントロールされた結果による殺し合いの行為なのです。決して、単なる人種間における好き嫌いの争いとか、道徳的な正義と悪の戦いとか、宗教間の摩擦とかではないのです。
私たちは、生まれた時から、マネーシステムに組み込まれ、マネーシステムにコントロールされて生きているのです。だから、心も感情も性格も、マネーシステムによって形成されたものなのです。動物としての人間本来の心を考えてみようと試みるならば、マネーシステムから脱却した人間を想定しなければなりません。これは、非現実的な思考になってしまいます。では、マネーシステムを改善すれば、経済社会がよりよくなっていくのでしょうか?
やはり、これもかなり困難な作業ということが言えます。例えば、経済的平等をもたらすと思われた共産主義経済も今のところそれを実現できていません。また、マネーシステムが引き起こす戦争を解消する手段にもなっていません。むしろ、戦争を激化させているともいえます。おそらく、マネーシステムが存在する限り、経済的平等は実現されず、戦争も消滅することはないでしょう。
ここで、今一度、共生について考えてみます。慈悲深く道徳的な人たちは、教育と道徳によって共生は可能と考えるかもしれません。しかしながら、キリスト教や仏教があるにもかかわらず、いまだ、人間は戦争を続けているのです。一方、野生動物においては、強い動物は弱い動物を食べて生きています。そのことから、そもそも動物は共生はしないものだと考える人たちもいることでしょう。彼らは、反共生と言える戦争や殺戮行為は、人間の本来の在り方だと考えるでしょう。
共生は何らかの方法によって可能となると言う考え方と共生はそもそも不可能であり不自然なものであるという考え方の二通りが考えられます。現実に、反戦活動や貧困者救済活動をしている人たちもいれば、民主主義を保護するためには戦争は不可欠だと主張する人たちもいるのです。相反する活動をするのが、人間なのかもしれません。
ほとんどの人は、マネーシステムに組み込まれ、コントロールされて生死をさまよっていると言えます。そして、明日の糧を得るために精いっぱい生きている私たちは、そのことに気づく余裕もないでしょう。でも、人間は、動物ではありますが、野生動物と違う脳を持っています。人間の脳は、記号を創造し、地球上に物質変化をもたらし、素晴らしい文化を構築してきました。
誰も、未来のことはわかりません。突然、実現不可能と思われる人間の共生を可能にする記号システムが誕生するかもしれません。私たちは記号の呪縛から解き放たれることはできませんが、生まれ持った生きるという生命愛がある限り、きっと人類は共生社会を構築できると信じています。記号社会に翻弄されながらも、命を大切に思う心を忘れずに、お互い励まし合って生きていきましょう。