女教師の賭け

 「下腹部と背中のラインを前後左右からしっかり確認して。ヒップのラインはポイントよ。膝、ふくらはぎの曲線もしっかり確認して。少し離れて全身のラインを確認して。前後左右からね。最後に指。指はとても大切ね。女の個性は指にでるの。役に立ったかしら」絵美は真美雄の真剣な眼差しに納得する。「それじゃ、絵も説明するわ」
 入り口左手の壁にかかった絵を指差す。「これは、最近の作品よ。テーマは女の殺意。浮気した夫の目を女が握りつぶしているのね。右下に両目のない男を描いてみたわ。その横の絵は、女の嫉妬。青年が彼女を裏切ったのね。それで彼女が蛇になって彼を奪った女の首を絞めているの。隣は、少年の美。顔は少年というより少女に見えるわね。ニューハーフなの」真美雄は無言で目を輝かせる。「これは、女の二面性を描いたものね。右は愛される至福の女。左は嫉妬に狂う女。二人の女の間にイケメンの裸体を置いてみたわ。その隣は未亡人の欲情。戦争で夫をなくした貴婦人が軍服姿の美青年をじっと見つめているの。戦時中の女性をテーマにしたの。まだ見せたい絵はあるけど今日はこの辺にしましょう」

                形見の絵筆

 

 真美雄は退学届けを手渡すことができなかった。耳慣れたGXの音を聞きながら何も考えず夜道をとばした。駐輪場にGXを放り込むみ一気に階段を駆け上がると、ドアの隙間から明かりが見えた。ノブを引くと台所に母が立っていた。「お帰り、早かったのね」裕子はいつものように笑顔で料理を作っていた。真美雄はバイト帰りの振りをした。
 母親の後姿を見ながらテーブルの椅子に腰掛けた。いつもは部屋にこもってしまうのだが、なぜか母親の姿を見ていたかった。「何か言いたいことでもあるの?」裕子はいつもと違う真美雄を感じ取っていた。「別にないけど、やっぱり最後の絵を描くよ。思い出になるしな」ぶっきらぼうに応えた。「へ~、夢の男にでも勧められたの?」裕子は少し安心した。「夢の男!」母親が夢の男のことを持ち出すとは以外だった。

 「いや、思い出を作りたいだけさ。卒業したら大型免許を取ってトラックに乗るよ。車、好きだから」真美雄は母親を喜ばせたかった。「絵描きがトラックね。気をつけてね。お母さんの夢はなんだったと思う?女優なの。かなわなかったけど、若いころ、画学生にモデルになってほしいとお願いされて、絵を描いてもらったことがあるの。何度か、モデルをしているうちに彼を好きになってしまったの。その画学生が輝雄。真美雄のお父さん。本当のことを言うわね。お父さんはこの部屋で自殺したの。絵がかけなくなったのよ。今まで黙っていてごめんね。きっと、真美雄の夢に出てきた男は輝雄よ。まだ、霊が成仏できてないのね」
 真美雄も夢の男は父親の亡霊と思っていた。親戚には芸術家はいない。母親も絵が好きだったとは一度も言ったことはなかった。やはり、画才の遺伝子は父親のものだった。違うのは自殺する前に絵描きを止めることだった。「心配ないよ、この絵を最後に二度と描かないから」真美雄は立ち上がると部屋に向かった。「待って真美雄!」裕子は呼び止めた。裕子はエプロンを取るとテーブルに腰掛けた。

 「真美雄、まだチャンスはあるのよ。最後の絵が賞を取れば特待生になれるじゃない。絵を愛してないの。輝夫は愛していたの。だから自殺したのよ。自分が許せなかったのね。だけど、誰にでもスランプはあるのよ。もし描き続けていたらきっと認められるときがきたと思うの。母さん、真美雄には輝雄が描けなかった絵を描いてほしいのよ」今まで絵のことに一切触れたことのない母親の言葉に真美雄は唖然とした。「母さん、ありがとう。最後の絵は描きあげるから。お父さんほどの才能はないけどやってみるよ」真美雄は自分に画才がないことを自覚していた。
 眠りにつくと絵美先生のマネキンがくっきりと浮かんできた。不思議な絵が次から次とスライドし始めた。突然、あの男が現れた。キャンバスを真美雄に手渡すと黙って消えた。そこには絵美の裸体が描かれてあった。
 日曜日は朝一番にGXを洗車する。10年前のGX。傷だらけで痛々しい。マフラーは錆だらけ。セルモーターは不機嫌。後輪は溝がない。ウェイトローラーは磨り減っている。拭き上げるとちょうど7時であった。真美雄が朝食を済ませキーボードを打っていると、ブルーのチェック柄のトレイを両手にもった母親が入ってきた。そこにはココアが入ったミッキーのマグカップと黄色の絵の具が固まった一本の薄汚い絵筆が載っていた。

 

春日信彦
作家:春日信彦
女教師の賭け
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