形見の絵筆
真美雄は退学届けを手渡すことができなかった。耳慣れたGXの音を聞きながら何も考えず夜道をとばした。駐輪場にGXを放り込むみ一気に階段を駆け上がると、ドアの隙間から明かりが見えた。ノブを引くと台所に母が立っていた。「お帰り、早かったのね」裕子はいつものように笑顔で料理を作っていた。真美雄はバイト帰りの振りをした。
母親の後姿を見ながらテーブルの椅子に腰掛けた。いつもは部屋にこもってしまうのだが、なぜか母親の姿を見ていたかった。「何か言いたいことでもあるの?」裕子はいつもと違う真美雄を感じ取っていた。「別にないけど、やっぱり最後の絵を描くよ。思い出になるしな」ぶっきらぼうに応えた。「へ~、夢の男にでも勧められたの?」裕子は少し安心した。「夢の男!」母親が夢の男のことを持ち出すとは以外だった。
「真美雄、まだチャンスはあるのよ。最後の絵が賞を取れば特待生になれるじゃない。絵を愛してないの。輝夫は愛していたの。だから自殺したのよ。自分が許せなかったのね。だけど、誰にでもスランプはあるのよ。もし描き続けていたらきっと認められるときがきたと思うの。母さん、真美雄には輝雄が描けなかった絵を描いてほしいのよ」今まで絵のことに一切触れたことのない母親の言葉に真美雄は唖然とした。「母さん、ありがとう。最後の絵は描きあげるから。お父さんほどの才能はないけどやってみるよ」真美雄は自分に画才がないことを自覚していた。
眠りにつくと絵美先生のマネキンがくっきりと浮かんできた。不思議な絵が次から次とスライドし始めた。突然、あの男が現れた。キャンバスを真美雄に手渡すと黙って消えた。そこには絵美の裸体が描かれてあった。
日曜日は朝一番にGXを洗車する。10年前のGX。傷だらけで痛々しい。マフラーは錆だらけ。セルモーターは不機嫌。後輪は溝がない。ウェイトローラーは磨り減っている。拭き上げるとちょうど7時であった。真美雄が朝食を済ませキーボードを打っていると、ブルーのチェック柄のトレイを両手にもった母親が入ってきた。そこにはココアが入ったミッキーのマグカップと黄色の絵の具が固まった一本の薄汚い絵筆が載っていた。