人間の人生とは、一体、何のために、あるのだろうか誰もが精一杯、自分の人生を生きている筈である。
しかし、事件を起こす加害者に何らかの事情があったとはいえ、近年、罪もない人が、命を落としている。
そういった事故が、頻していることもまた事実だ。
それは、偶然の出来事であったのか?必然的に起こった出来事であったのだろうか?
そんな時代に、秋葉原連続通り魔殺人事件の主犯者と同じぐらいか、もっと酷い境遇にあった蒼い瞳の少女に伊豆の大地はどう、映っつてたのだろうか、著視点から見て書き上げた一冊である。
「自分の一生とは、何だったのだろうか?」
この問いかけに答えられる者とは、歳若き者ほど少なく、その本質的な答えに辿り着けた者とは、間も無く人生の終幕を迎える死期の迫った者であろう。
どれほど崇高な理念を抱く人物であれ、人々が、顔を背けるような生き様を示した人物であれ、「自分が、この世に、生まれ出た意味を」自己が、死するその日まで、一時も考えられないであろう事は、考えられず、
「何故、私は、今、生きているのだろうか?」という、哲学的なこの問いに、ある者は、金のため、ある者は、家族のため、ある者は、名声のため、ある者は、自己顕示欲のためと答えるであろうか
さだかではないが、そう、主張した誰もが、この世に均等に、生を享受したように、今度は、均等に死を享受する。
「自己の人生に充分満足であった。」と答えるものもおれば、「自己人生に満足できなかった。」と回答するものもいるだろう。
ある者は、「非業の死」あるものは、「天寿を全うした。」と称されるだろう。
それが、「偶然か」、「必然か」と言えば、必然である。
通り魔殺で殺害されたもの、老衰で他界したもの、病魔に蝕まれたもの。
均一に必然的な死であった。と言えよう。
その死が、偶然であったと人々が、信じたい要因は、その命が、惜しまれる命であったからに他ならない。
「あの日、あんな所にいなければ・・・。」「あんなやつがいなければ・・・。」「あんな事故がなければ・・・。」「まだ、生きられたのでは・・・・?」確かに、様々な思いは、交錯するであろう。
しかし、失ってしまったものは、帰ってこないのである。
失ってしまったもの。それは、一番重要である「命」に代表されるが、それは、時に、「信用」であったり、「地位」であったり、「お金」であったりもする。
「お金」や「信用」や「地位」が、比較的取り戻せることが多いため、「命」との比較の対象にならないと思われるかもしれないが、それを失ったことで、命を絶つ人もまた、多いことも事実だからである。
それでは、何故、「死」が、偶然ではなく、必然なのか?
「偶然か?」「必然か?」これも、今日まで多くの人が考えた。哲学的問いであろう。
しかし、例えば、ある人物が、癌を発症したとして、発症した要因には、遺伝的体質、摂取物、被爆要因などが、あるかないかがあげられるだろう。発見段階としては、早期発見であったか、既に末期であったかが、問われるだろう。対処療法として、投薬治療が可能か?手術が可能か?果ては、5年生存率が、何%かまでが、わかるだろう。
ところで、此処まで読んで、気づいたであろうことは、本人の故意、過失、他人の故意、悪意は、不確定要素として、「癌」を発症したことは、現実であり、偶然でもない必然だということである。
これは、アメリカ9.11同時多発テロ、秋葉原連続通り魔殺人事件にテーマを置き換えても同様のことが言えるだろう。